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そこに必ずあると期待したわけじゃないけれど、無意識のうちに私は暗闇のなかで横にむかって手をついた。
ここまで落ちてきた穴の大きさから言って、あれと同じ径をした筒状の底に自分は立っているのだろうと推測していたので、だとすれば、手をついた先には壁があるはずだった。
すると、思ったとおり横にむかって突き出した私の手は、ひんやりと冷たいコンクリートの表面に触れた、そのまま少しなでてみる。
表面はつるりとして乾いている、触れていて不快にならないくらいの冷たさだ。
そこが壁であることを確かに認めた私は、そのまま背中を向けて寄りかかってみた。
さっきまで歩いていた外の世界は、夏の空気のせいでむわっと蒸し暑かったけれど、寄りかかっているコンクリートの壁も、暗闇に広がる空気も、気持ちのいい冷たさをしていたので、こうしていると妙に落ち着いてきた。
うーむ、なかなかこの穴も悪いものじゃないではないか。
しかし、そういつまでも楽観的であるわけにもいかないと、頭の悪い私にだって分かっている。
塾が長引いたせいで、時間はもう二十一時過ぎてるし、軽食として夕方くらいにハンバーガーを一個食べただけなので、そこそこおなかもすいている、うちの親は基本的に放任主義だから帰りがちょっと遅くなったくらいじゃうるさく言ってこないけど、あんまりこうして道草食ってばかりいるのもマズイ。
うーん、神や仏に祈って祈って祈りまくったら、夜空から金の鎖でも降ってこないものだろうか?
…そんなことをだらだらと考えながら、ひんやりとしたコンクリートの壁に頭をもたれさせたときだ、私は…たいへんなことに気付いてしまった。
人がいる…。
勝手に、この穴の底には自分しかいないと思い込んでいたけれど、それは間違いだった、…私のほかにも、人間がいる…!
それに気が付いた瞬間、私の背中にゾゾッと一斉に鳥肌が立つ。
咄嗟に息をひそめ、身動きもせず、その場で凍り付いたように硬直する。
ドッドッドッ…と心臓だけがせわしなく、耳障りな音を立てている。
落ち着け、落ち着け、私…。
穴の底には別の人間がいる…いや、厳密に言うと少し違う。
やはりこの穴のなかにいるのは私ひとりだけであり、他には誰もいない。
ただ、向こう側に、人がいるのだ。
この、私がもたれかかっている、このコンクリートの壁のむこう、…この壁一枚を隔てた向こう側に、誰かがいる…。
このコンクリートの壁の厚みが、どれほどのものかは分からない。
しかし…気配がするのだ。
この向こう側に誰かが確実のいるのだという、気配が。
私は、ひんやりとしたコンクリートの壁の表面に耳をあててみる。
当たり前だが、何の音も聞こえることはない。
どこまでも、冷たく静かな世界が、こちら側でもあちら側でも流れているだけだ、私たちは完璧に分断されている。
でも…それでも私には分かるのだ。
壁のむこうに人がいる、ということが。
そして、その人は…私の知っている人なんだ、ということが。
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