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わかる、…知っているよ、わからないわけがない、だって、向こう側にいるのは…。
「ちょっと、こまりますよ」
「ヒッ…!」
どれだけ耳をすませても、ドッドッドッ…と高鳴る耳ざわりな自分の心臓の音だけしか聞こえることがなかった暗闇のどこかから、…いや、すぐ至近距離から、知らない誰かの声で話しかけられたことで、私は、それこそ心臓が口から飛び出すのではないかと思ったくらいに、驚いた。
このコンクリートの壁のむこうに人がいるのとは別に、いきなりさっきまで誰もいなかったはずの…私だけが専有していたはずのこの穴の底に、別の誰かが現れたのだから、驚かないはずがない。
しかも、そのいきなり現れた何者かの声は、立ってる私の、本当にすぐ近くから聞こえたのだから。
驚きの衝撃によって、私の思考はフリーズし、息をすることも忘れ、氷の彫刻のようにカチンコチンに体を固めながら、私はまたしても硬直状態を強めた。
まるで自分の存在を、暗闇のなかに溶け込ませて、隠すように。
しかし、そんな私のけなげな擬態行為はムダに終わる。
いきなり現れたその相手はあきらかに、暗闇に身をひそめる(とはいってもコンクリートの壁にへばりついているだけなのだが)私のことをきちんと認識しており、さらに話しかけてきたからだ。
どこか、うんざりしたような声色で。
「こういうところにね、勝手に入ってきてもらっちゃあ、困るんですよ、お嬢さん」
「……」
ずいぶんとカン高い声をしている。
なんというか…ミッキーマウスから優しくて親しげな声色を取っちゃったら、こういうカンジになるんだろうな…っていう、決して幼い子供のそれじゃないけれど、大人の声では絶対にない、つまりキャラクター的な声をしている。
そしてその声色のおかげで、それまでビビりまくっていた私も、じわじわと冷静になってきた。
偽ミッキーマウスのしゃべる声からは、悪意とか敵意といったものが感じられなかったからだ。
ただその言葉のとおり、心底ここにいる私という存在をうざがっているらしいということは、ひしひしと感じたけれど。
相手は、私がなにか返事をするのを待っているようだった。
いつまでも黙ったままでいるというのも感じが悪いので、とりあえず謝っておくことにした。
「どうもすみません」
私がそう言うと、近くの暗闇から、フンッ!…といったような、どこか勝ち誇っているようにも聞こえる、ため息まじりの鼻息が聞こえた。
それで私はさらに気が付いたのだが、聞こえてくる声の発せられる位置からして、どうやら偽ミッキーマウスは、近距離どころか近々距離、私の足元にいるらしいのだ…!
どういうこと!? めっちゃ背ぇ低いのかコイツは!
「最近ねぇ、多いんですよ、お嬢さんみたいな人が。
こまってるんですよ、こっちはね」
「はあ」
その口調はぷりぷりしている、ゴミの分別がきちんとできない住民にキレてるおばちゃんみたいだ。
ぼーっと相手の小言を聞き流しながら、そんなことを思っていたら、不意に、私の足元辺りにいると思しき偽ミッキーマウスが、私の足にぶつかってきた、満員電車のなかで知らない誰かと当たってしまうときのノリで。
すぐに私から体を離すと、「失礼」と偽ミッキーマウスは言った。
「なにせここは狭いもんですから」と。
「……」
謝ってくれた偽ミッキーマウスに対して、このときも私はすぐ返事をすることができなかった。
またしてもびっくりしすぎて、声が出なかったからだ。
だって…私の足に触れた偽ミッキーマウスは…毛むくじゃらだったから。
どうやら偽ミッキーマウスは、人間ではないらしい。
触れたときのその感覚は、毛皮のコートを着ている人にぶつかったときのようなものではなくて(そもそも夏場に毛皮の服を着る人なんていないだろう)体毛がふさふさ生えている動物とくっついたときの、あの独特の感じだったからだ。
散歩中の柴犬にぴとっとくっつかれたときの、あの感覚。
触れた毛皮ごしに、人間のものとは構造の違う引き締まった筋肉が、躍動しているのを感じるあの感覚だ。
ということは、つまり…私の足元にいる相手の正体は…。
「もしかして、あなたはモグラさん?」
うん、ここにいる相手がモグラであるのなら、いきなり穴に落っこちてきた人間を迷惑がる気持ちもわかる。
この穴はきっと、彼が一生懸命に掘って作った縄張りなのだろう。(たぶん、『彼』だと思う。女の子っぽくはないから…一応『彼』ということにしておこう)
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