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act.1
たんぱく質、脂質、炭水化物、無機質、ビタミン。
人間の体と生命を維持するのに必須の、五大栄養素。
けれど、私の体にはそのどれも必要ない。
必要なのはただひとつ、まったく違うもの。蜜、シロップ、砂糖。糖を主体とした物質のみ。
加工品ではいけない。砂糖を含んでいるお菓子などではだめだ。
砂糖であれば、さらさらとしたパウダー、もしくは角砂糖。
はちみつであればとろりとした、瓶に入ったそのままで。
純粋な『糖』であるそれだけが、私の生命を維持し、体を動かしてくれる。
私の体は異端だ。
いや、私という存在が異端だ。そのくらいのことはとっくに理解している。
だっておかしいだろう。純粋な人間として、肉でも野菜でもなく、パンやお米でもなく糖分だなんて。むしろそれらがなくとも生きていけること自体がおかしい。
私にとっては糖が『食事』であることは、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことなのだけど。
私は人間ではないのかしら。
そう思って悩んだのも、今では昔の話。人間でもそうでなくてもどうでもいい、と今では思う。まるで割り切ったかのように。
だって私は生きている。私の簡単なプロフィールを話そうか。
鏡宮 揚羽(かがみや あげは)。
私立の女子高に通う二年生。
部活は紅茶部所属。
成績は良くも悪くもない、そこそこ。素行は優等生。
身長体重は平均値、太っても痩せてもいない。
艶やかな黒髪を長く伸ばして、背中に流して。
外見も中身も、派手でも地味でもない、ごくごく普通の女の子として生きている。
派手でも地味でもなくていいのだ。
むしろそのほうがいい。目立つときっと厄介なことになるだろうから。ひょんなことから、この特異体質が露見でもしたら。そんな下手は踏まないつもりだけど。
ちなみに学校ではお弁当やパンや、学食のものなんかを食べる。糖類だけをおおっぴらに食べるわけにはいかないからだ。当たり前のように不審に思われてしまう。そんなことはしやしない。
私も一応、普通の人間の食べる『食べ物』も食べられるのだ。ただ、私の体になにも恩恵もたらさずに、通り抜けていく物質や栄養素であるというだけで、毒ではない。かといって、なにも食べないのは怪しまれるではないか。
けれど食べても意味はないので私はいつもそれほど多くを食べなかった。お付き合い程度である。少食という設定を作っていた。
友達はそれでなんの疑問も持たないようだ。「揚羽ちゃん、それだけ? もっと食べなよ」と言ってくることはよくあっても、まさか私が通常の食べ物を必要としていない体質だとは思うはずがない。女子高生がよく言うような、「ダイエット中だから」の一言と笑顔でことたりた。
そして部活もその、体質と栄養摂取の行為、そして普通の人間としての擬態の一環に役立つのだった。
入っているのは紅茶部。
紅茶部、なんて優雅な部活が存在するのは私立の女子高だからかもしれない。ある意味少女趣味なこの部活にしたのは、もちろん趣味もある。
紅茶という飲み物は嗜好品として悪くない。薫り高くおいしい飲み物だ。
けれど私にとって重要なのは、この部活では、生命維持の行為をカモフラージュできること。
「紅茶に蜜を落として飲むのが好きなの」
私はいつも部員にはそう言っていて、紅茶を飲むときには砂糖やはちみつ、もしくはメープルシロップなどを必ず投入する。それはまったく、なにもおかしな行為ではない。
単に甘党の女の子。そうとしか思われないだろうから。
部員はそのとおりに思ってくれているのでなにも見咎められずに、追及もされずに、それどころか「揚羽さんが好きそうだと思って」となにかのお土産やらプレゼントやらに蜜類をくれるのである。
私にとっては本当に、趣味と実益を兼ねた部活である。
かくして私は今日も、あまい蜜で体を満たす。
今日はメープルシロップ。ちょっと良いものが食べたかったので、本場カナダから取り寄せた。アンティーク風の瓶の中には、琥珀色のとろりとした蜜がたっぷりと詰まっている。
蜜を食べるときの長いスプーンで、ひとすくい。琥珀色がスプーンにからみつく。
こぼさないよう、慎重に持ち上げて口へ入れる。甘く濃厚な味と香りが口いっぱいに広がった。
私の体だけでなく、心も満たしてくれる甘い蜜。飲みこめばシロップの甘さがじんわり体に染み込んでいく。
栄養を摂取して、人間でいうところの『空腹感』という感覚が満たされる。幾匙か口にして、お腹がいっぱいになる、という感覚を感じたのでそこで『食事』はおしまいにした。
スプーンを洗って、瓶の口を、付着した蜜で固まらないようにキッチンペーパーで綺麗に拭く。それを棚に置けばすべておしまい。
ごく短い『食事』の時間ではあったものの、私は身も心も満足して、ダイニングキッチンを出た。
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