act.10

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act.10

 それから半日以上、ぼんやりとした心持ちでいた。  気がつくと自室のベッドに横になっていて、朝が来ていた。私はぼうっとした気持ちのまま、天井を見る。  学校に行かなければ、と思う。着替えて、顔を洗って、『ご飯』を食べて……。  そこで私は再びぎゅっと目を閉じてしまった。  昨日の今日だ、朝になって香りも味も復活しているなんてことはあるはずがないだろう。なんとなくそうわかった。  それでも食べないわけにはいかないし、学校へ行かないわけにもいかない。私はのろのろと起き上がって朝の支度をして、やはり嫌な想像通りなんの味もしなかった、元・極上の蜜を食べた。  なんの味もしないそれは悲しくなるばかりで、満足どころではなく、私はひとさじ食べてやめてしまった。  一応食べることはしたので大丈夫かとは思ったのだが、よく考えれば昨日の夜だって、味のしない蜜ひとさじしか食べていなかったのだ。私の体に必要な『栄養』がたりていなかったらしい。  どこか体が、頭がふらつくような感覚を感じたのは、学校についてからだった。  しまった、と思う。いまさら悔やんだ。  これでは貧血になってしまう。倒れてしまうかもしれない。  授業がはじまっても、ちっとも集中できなかった。それどころか椅子に座っていて授業を聞いているだけでも、どこかぼうっとしてしまう。まったく授業どころではなかった。  間の悪いことに、午後は体育の時間があった。こんな体調で体育などとんでもない。  体育は休めばいいのだが、休んだとしてもこの調子の悪さは変わらない。一時しのぎにしかならないのだ。  なんとかしないと。  思ったものの、私は愚かだった。今まで「万一のときのために」と学校に持ってきていた、角砂糖や蜜だけでできたキャンディなんかを、最近は持ち歩くのをやめてしまっていたのだ。  理由はもちろん、おいしくないから、である。  極上の蜜を得た私は、すっかりそれに依存してしまっていたようだ。  なので今、身の回りに食べるものはない。  もう早退するしかないか、と考えたときだった。  ふと部室のことが頭に浮かんだ。  あるではないか。食べるもの。  部室に。舞李の常備してくれている例のはちみつが。  もちろん、それだって私の家のものと同じだろう。味も香りもしないに決まっている。  けれど、一応私にとっての食べ物ではあるのだ。空腹感の足しにはなるはず。背に腹は代えられない。  よって、私は次の休み時間、教室を抜け出して部室棟へ向かった。とにかく一心に部室を目指す。鍵だけは忘れずに持ってきていた。  昼間はほとんどひとのいない部室棟のかたすみ、紅茶部の部室に辿り着いて、鍵を開ける。  そっとドアを開けた。中には幸い、誰もいなかった。  普段から、ひとがくるとしても昼休みくらいのものなのだ。たまに部員がお昼ご飯を食べたりするくらい。授業の合間の休み時間に来る子はほぼいない。  なので私は安心して中へ入った。奥にある小さなキッチンへ向かう。  辿り着いて、もっと安心した。はちみつの瓶はいつも置いてあるそこに、ちゃんと鎮座していたのだから。  良かった、これで当座のしのぎにはなる。  私は棚からはちみつの瓶を取った。ふたを開けて、やっぱりがっかりしてしまったけれど。  なんの香りもしない蜜。もちろん味もしないだろう。ただ、綺麗な金色だけは同じなのが悲しくてならない。  それでも食べないわけにはいかないので、スプーンでひとさじそれをすくったときだった。  かたん、と部室の入り口のほうから音がした。  誰か来たのだろうか。  私は、ばっとそちらを見た。  貧血になりかけで少しぼうっとしていた頭は、一瞬、錯覚を私に起こさせた。  金色の蜜が入ってきた。  おいしそうな、たっぷりと甘く豊かな香りをともなって。  丸一日以上ぶりに感じる、『おいしそうな香り』であった。  私はその甘美な香りに、数秒ぼうっとしてしまったようだ。 「揚羽先輩?」  気付いたときには、その香りが目の前にいた。  金色の蜜なんてものではなく、ただし同じ色の金の髪を持つ後輩が。心配そうな顔をしていた。  見慣れたその顔を、やはりぼうっと見つめ……私はやっと、はっとした。  そして肝が冷える。こんなところでこんな時間に、はちみつの瓶を手にしているなんて不審だっただろう。 「……どうしてここに?」  私は先手を打った。同じくここにいる自分のことは棚に上げて、舞李のことを尋ねる。  舞李はきょとんとした目をして、首をかしげた。それがクセであるように。  途端、ふわっと甘い香りが漂う。それはまったく、昨日帰りに身をひるがえして行ってしまったとき私の心をくすぐった甘い香りと同じだった。 「移動教室だったんですけど、揚羽先輩が部室に向かうのが見えて……なんだかふらつかれていたようだったので、気になって」  見られていたとは気付かなかった。確かに舞李の手にはなにかの教材がいくつか抱えられている。  しかし私はもう、そんなことはどうでも良かった。  おいしそう。  まるで食人族のようなことが頭いっぱいに広がる。  もう部室のはちみつの瓶どころではなかった。それよりはるかにおいしそうな香りをしている存在が目の前にいるのだから。  ひとを食べようなど、そんなことはあるはずがない。  けれどどこか……私の異端の生き物としての本能が、だろうか。それを『食べ物』として認識してしまったようだ。  意識してしまえば空腹感と誘惑は一気に加速した。 「どこか具合でも良くないですか? 顔色が……」  舞李は教材を近くの机の上にまとめて置いて、私を覗きこむ。私にとっては渡りに船すぎた。 「舞李さん」  私はそっと手を伸ばす。舞李の手に触れた。小さくて冷たくて、しかしふっくりとしているやわらかな手。  今までに触れたことがないわけではないが、このように触れたのは初めてであった。  私の手つきが普段と違ったからか、舞李がびくりと震えた。目を丸くする。  そのあどけないかわいらしい顔の中で、私の目をひいたもの。  薄桃色にいろづいたくちびる。  私は一瞬で理解した。  『食べる』といえば。 「えっと、揚羽先輩?」  舞李が私の異様な空気に気付いたのだろう。警戒するような声で言った。  けれどもう逃がすつもりはない。やわらかな手を、するっとなぞる。やはり舞李の手がびくりと震えた。 「おなかが空いたのよ」  静かに言っていた。  今まで生きてきて、誰にも言ったことがないことだ。  そして支離滅裂だったろう。このように触れている今、空腹感などと。  もちろん舞李も意味がわからなかったはずだ。言われていることの意味がわからない、とばかりに、わずかに眉が寄ったので。  でも説明する気も、そんな余裕もなかった。  私は舞李の手から手を離して、もっと上へ持ち上げた。やわらかな頬へと。  まだ半分子供のようなものなのだ。吸い付くようにふんわりしていた。それを包み込むようにして、顔を近付ける。  その意味を舞李が理解する、直前だっただろう。丸く見開かれた瞳だけが私の視界に映って、すぐに消えた。私自身が目を閉じたので。  身を寄せて、桃色のくちびるに触れていた。  触れる直前、ふわりと、やはり甘い香りが鼻孔をくすぐった。  今のこれは抽象的な、香りに似たようなもの、ではなかった。  息づいている舞李の吐息である。その証拠にあたたかさと生命の力をしっかり持っていた。  その香りで私は知った。味わう前に理解した。  ああ、これだったのだ。  本当の『極上の蜜』は。  触れたくちびるから流れ込んできたその味。思ったとおり、蜜の味だった。  とろりと融けてしまいそうなほどやわらかく、まろやかで、芳醇な。  ただ、この『蜜』は今までの蜜、そう、今まで極上と思っていた舞李のはちみつとも違うものを持っていた。  それは温度だ。  ほんのり熱を感じる。胸をあたたかくしていくような、心地良い熱が。  どのくらい味わっていたかもわからない。じわじわとコップに溜まっていくように満足感が私を満たしていって、きっといっぱいになったのだろう。  私はそっと身を引いた。  目を開けた。  目に映ったのは、唐突に私に『食べられて』、呆気にとられた舞李の顔だった。  でもその顔と表情を見ても、私の胸に罪悪感は生まれなかった。手を動かして、舞李のやわらかな頬を優しく撫でる。 「あなた、とっても甘い」  言った言葉はしばらく理解されなかったらしい。  数秒、その場はとまっていた。  舞李も、私も。  私は奇妙に穏やかだった。  お腹が満たされるだけでない。明るい金色がお腹に落ちてきたようにあたたかかったのだ。まるで身の内側から発光しているようだ。 「えっ、あ、……」  どのくらいが経ったのか、舞李の頬が一気に赤くなった。私の手に熱が伝わってきそうなほど赤く色づく。  そのためか、私が先程触れたくちびるも色が濃くなったようだ。  桃色のふんわりとしたくちびる。私はもうその味を知っている。  そして違うことも知っていた。  この『蜜』はもう、唐突に消えてしまうことはない。だって、ずっとこの子の中にあったのだから。  出会ったときから感じていた色や香り。確かに舞李の中で生きているそれが消えてしまうことなど、どうしてあるだろう。  もうひとつ、私が理解したこと。  舞李の中に眠っていた香りを私が感じ、どんどんはっきりと感じられることになった理由。  それは彼女に近付いていっていたから。  近付いたのは、距離でも親しさでもない。私の心がどんどん彼女に寄っていったから、香りだって強くなっていったのだ。  私にとっての『生』。ようやく見つけたのだろう。  そしてそれはきっと私の独りよがりなものではない。  だって心を近付けることは、一人ではできない。相手からも寄ってくれなければ噛み合うことはないのだ。  これまで舞李が見せてくれていた断片。私は今やっと、はっきり理解したし、すとんと腑に落ちた。 「私にちょうだい。甘いあなたを」
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