act.7

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act.7

 しばらくは幸せな日々だった。心がたっぷりと満たされる。  舞李にもらったはちみつを、朝と夜にスプーンで幾匙か食べる。食事でこれほどの幸福感を感じられるのだということを、私は初めて知ったような気持ちになった。  それほど、毎食口にするはちみつは甘美な味だった。  宝石のような黄金色。  花のような華やかな香り。  とけてしまいそうなほどやわらかく、まろやかな味。  そしてなによりも大切な、私にとっての満腹感。  完璧だった。  これがあればきっと幸せだと思った。  これ以来、私はこのはちみつ以外の糖類を口にしなくなった。  毎食食べていれば、手で包めるほどの瓶は、あっというまに……半月もしないうちにカラになってしまった。なのでためらったけれど、私は再度、舞李にお願いした。 「家の者も気に入ってしまったのだけど、また譲っていただけないかしら?」  半分ほどは嘘だったけれど、気に入ったのは嘘ではない。そして素直な性格の舞李はなにも疑うことなどなかったようだ。 「はい! えっと、……もしよろしければもっと大きな瓶のものもありますけど、揚羽先輩のご家族も召し上がるのでしたら……」 「本当に? 嬉しいわ」  そんな経緯で私は大瓶のはちみつを手に入れた。ずっしりと重い瓶は、私を心底幸せにしてくれた。  その頃、舞李とは部活のあった日、ほぼ毎日、一緒に帰るようになっていた。部活の一年生で駅のほうへ帰る子もいるのに、舞李は部活が終わると、毎日のように「揚羽先輩! 一緒に帰りませんか?」とやってきてくれる。  同級生といたほうがいいのではないかと思いつつも、慕われて悪い気がするはずもない。はちみつのことだけでなく、舞李の話が楽しいものだったことも手伝って。それに、舞李と過ごす時間はあたたかく心地良いものだった。  部活の話はもちろん、学年の違う学校でのそれぞれの生活の話、たまにははちみつのことも話題になった。お祖父さんたちのはちみつを作る手順や様子、舞李が田舎へ行ったときの思い出話、あるいははちみつの種類や由来や使われる用途だの……そんな話まで。 「おじいちゃんに話したら喜んでくれました! 気に入ってもらえたならとても嬉しいって」  ある帰る道々、舞李はそう言ってくれた。  舞李の笑顔は花の綻ぶようだと思う。豪快ではなく、優しく咲くような表情の崩れ方をする。 「あら……なんだかちょっと恥ずかしいわね」  ばくばくはちみつを食べていると思われるのは恥ずかしい。事実、そのとおりなのだけど。 「いえ! 今度、季節のお花の蜜を使った新作ができると言っていたので……そうしたらまた試してみてくれませんか?」 「いいの? 楽しみだわ」  新しいはちみつ。舞李のものならきっとおいしいだろう。私は楽しみになり、心も弾んだ。  話すのが楽しい、居心地もいい、おまけにあちらからも懐いてくれている。  極上のはちみつを得た私は、メンタル的にも落ちついていたのかもしれない。  もうひとつプラスされていたのは、舞李がまとう甘いような香り。舞李のその香りからも、隣にいるのを心地良く思うようになっていた。  例えれば、ケーキの大好きな女の子が、ケーキの焼ける香りを好み、幸せな気持ちになるようなものだと思う。  あとから思えばそれは少しばかり、『食』が、つまり『生』が絡んだ心地良さだったのかもしれないのだけど。
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