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家族が増えるということは、生活に異物が増えるということだ。
アロマディフューザーにいくつかの観葉植物、それに、息子の晴彦。瞳子さんがうちに持ちこんだものは数知れないが、その中でも今、視界に入ったこれは群を抜いて「異物」だった。
四十過ぎのおばさんでも、こんな下着をつけるんだな。
つま先からほんの二十センチほど先に落ちている、真っ赤なブラジャーをじっと見下ろす。きっと、洗面所の奥にある洗濯かごから落ちてしまったのだろう。
足を開いてその場にしゃがみこみ、まじまじと見つめてみる。
カップの部分には、大輪のばらがいくつも刺繍されており、肉厚な花弁は細く黒い糸でふち取られている。白熱灯のやわらかな光を浴びて、ショーケースの中に収められていてもおかしくないような高級感が醸し出されている。こんな下着、今までこの家で見かけることは絶対になかった。
手を伸ばして肩紐をつまみ上げてみようかと思ったけれど、なんとなくためらわれて、そのままただ見つめる。次第にまばたきも呼吸もひどくゆっくりとしたものになるのを感じる。
触っても、踏みつぶしても、放置しても、どうしたっていいはずなのに、扱いかねて固まってしまう。
この感覚には覚えがある、としばらく考え、ああ、と思い当たった。
これは、小学生の頃、雨上がりの帰り道で沢蟹に出くわしたときの感覚に似ているのだ。
脇の水路から上がってきたのか、アスファルト道路をのろのろと横断するそいつは、習字終わりに筆を洗ったバケツから出てきたみたいに、てらてらと薄墨色に光っていた。道路を横断しきる前に、そこのカーブから曲がってきた車や自転車にくしゃりと轢かれてしまうんじゃないかと、見かけるたび靴の中で指先をきゅっと折り曲げたものだ。
目の前で今、命が一つ、見える形で試されていて。
こちらの選択を誰かにじっと見られているような緊張感と、そんな場にいきなり放り込まれたすわりの悪さに耐えられず、後ずさり、逃げ帰った記憶がある。
そうだ。体操着。
不意に思い出して、背負っていた通学リュックから、しわくちゃに丸めて押しこんだ体操着を取り出す。これを洗濯かごに入れに来たのだった。
立ち上がりブラジャーをまたぐのと同じタイミングで、玄関のほうからがちゃがちゃと鍵を開ける音が聞こえた。
瞳子さんが買い物から帰ってきたのだ。
咄嗟に、ブラジャーの上に体操着を落としてかぶせる。鏡に向かい合って前髪を整えるふりをしながら、瞳子さんが通り過ぎるのを待ったけれど、そのときは訪れない。かわりに、どすどすと階段を踏む音が聞こえ、これは瞳子さんではないな、と判断する。
この乱暴な足音は晴彦だ。
サイズの合っていない新品の学生服に身を包んで、裾を踏んづけながら階段をのぼっていく様子が目に浮かぶ。
瞳子さんと晴彦は、以前マンションに住んでいたそうだ。この階段は晴彦にとってさぞ異物であろう。
そっちがその気なら、と体操着ごとブラジャーを踏みつけてやろうかと思ったけれど、私は高校生、むこうは中学生、と思い直す。
瞳子さんと晴彦を紹介されたのは、夏休みのはじめ、中華料理屋でのことだった。
悟くんに連れられ、夕方、駅前で待ち合わせしてからお店まではあっという間だった。
気づけば、目の前にはくるくる回る円卓があって、その上にはチンジャオロースや小籠包、名前はわからないけれど、てかてかと光る油ぎった中華料理が並べられていた。
これからは家族として同じ釜の飯を食べるんだぞ、という決意表明に参加させられているような気がして、ちらりと右隣を見やると、晴彦は目をふせ、不機嫌そうに腕を組んでいた。
私だって、もろ手を挙げて大賛成かと言われるとそうでもないけれど、もうここまできたら、こどもが口をはさむ余地なんてない。晴彦もそれをよくわかっていて、それでもせめて態度で示そうとしていたのだろう。
大人が必死でしつらえた場を壊せるほど、私の心臓は強くない。
結局、晴彦の分まで、けなげに無邪気に円卓をくるくると回し続け、油っこい料理をぱくぱくとたいらげていった。
帰り道、べたつく身体ともたれた胃に辟易していると、悟くんがコンビニでアイスを買ってくれた。店を出てすぐ封を開け、外袋を悟くんに渡す。もうなにも入らないと思っていたけれど、棒付きのミントアイスはさっぱりとしていて、美味しかった。
家の近くの公園に来たあたりで、悟くんが普段見せたことのない真面目な顔で、「いいかな?」と訊いてきたので、「いいよ」と答えた。
「ほんとに? まじで?」
「いいよいいよ」
「ちぐさが嫌だったらやめる」
「いいって。アイス溶けてるから話しかけないで」
垂れてきたアイスを舐めながらおざなりに返すと、いいんだな、ともう一度訊いてきて、私は無視した。
その一ヶ月後、二人は私と悟くんの家にやってきた。
引っ越しの段取りや晴彦の転校手続きなんかはおどろくほどスムーズで、スピーディーだった。私に話を通す前に事を進めていたのは明らかで、なんじゃそりゃ、と悟くんの適当さ加減に呆れた覚えがある。
あの夜、私が少しでも嫌がるそぶりを見せたらどうするつもりだったのだろう。いや、私は反対なんてしないとわかった上で、形式上訊ねただけなのかもしれない。
体操着にくるんだまま瞳子さんのブラジャーも拾い上げ、洗濯かごに入れる。
なんとなく手をこすり合わせたけれど、それだけではあの感覚が拭えないような気がして、蛇口をひねり、手を洗う。火照りに流水は心地よく、思いきって腕ごと水にさらす。
手を拭こうとして、タオルがかかっていないことに気づき、嘆息する。手で水滴を払い落として、制服になすりつけた。
伸びをして深く息を吸おうとしたけれど、きついばらのにおいに、途中で止める。私と悟くんの家の匂いと、瞳子さんが持ちこんだディヒューザーの匂いは、未だに混じり合えていない。
私たちはいつか、きちんと同じ空気を吸って吐き合える家族になれるのだろうか。
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