きみのゆくえに愛を手を

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「は? 一人で出かけるけど」  靴紐を結びながら、晴彦はこちらに背を向けたまま答えた。愛想のかけらもない。 「一人? 友だちと遊ぶんじゃないの?」  友だちと出かけるものだと思いこんでいたものだから、おどろいた声を出してしまった。すぐに、「いや、一人が悪いってことじゃないんだけど」とつけ足す。  土曜日、階段から下りてきた晴彦と出くわして、ついつい好奇心から軽い調子で尋ねてしまったけれど、デリケートな問題だったのかもしれない。いじめられているとまではいかなくても、クラスで浮いてしまっているのかもしれない。 「あんた、またしょうもないこと考えてるだろ」  指摘され、う、と声が出た。  私は智くんや絵美ほど考えが顔に出るタイプではない、と思っていたけれど、実はそうでもなかったのだろうか。いや、晴彦が敏いだけかもしれない。  それにしても、外で遊ぶって、一人で成り立つものなのだろうか。いったいどこでなにをするというのだろう。 「ねえ、私もついて行っていい? 五分で着替えるからさ」  絶対に断られると思ったのだが、晴彦はすんなりと応じた。 「別にいいけど、きっかり五分しか待たないからな。早く行ってこいよ」 「わかった」  急いで階段を駆け上がり、部屋着を脱ぎその辺の服をひっつかんで着替える。財布と携帯、リップクリームをかばんに入れて駆け下りたが、晴彦の姿が見当たらない。  あ然とする。まさか。  いや、もしかしたらトイレに行ったのかもしれない、と家の中を探そうとしたが、靴がないことに気づく。  ゴムつっかけを履いて、外に飛び出した。  家の前を通っている一本道に晴彦の影はなく、あの後すぐに出て行ったことがうかがい知れる。  はなから待つ気などなかったのだ。 「あの野郎」  思わずついた悪態が、風にむなしくさらわれていった。  晴彦は夕飯前に帰ってきた。  玄関でがちゃがちゃと鍵を開ける音が聞こえ、私はリビングから飛び出した。  仁王立ちでもして、文句の一つや二つ言ってやらないと気が済まない。そう意気込んだのが良くなかった。  フローリングを靴下で駆け抜けたものだから、つるりと滑り、玄関に勢いよくダイブしてしまう。膝と腹、顔に衝撃が走り、気づけば目の前には晴彦の靴があった。  擦ってしまったみたいで、頬が焼けるように熱い。痛みに声が漏れ、あまりの間抜けさに涙がじわりと出てくる。 「ひえっ」  這いつくばった私を見て、晴彦が素っ頓狂な声を出した。 「晴彦ォ」  呻いて手を伸ばすと、晴彦はびくりと身体を震わせ後ずさりした。玄関で腹這いになった女に、恨みがましい目つきで涙を流され近寄って来られたら、誰だってそうなる。  私だってこんな妖怪じみた出迎えをするつもりはなかった。  手を伸ばしたのも、ただ助け起こして欲しかっただけなのだが、晴彦にも後ろ暗いところがあったらしい。 「ごめん、おれ、そんなに怒らせるつもりじゃ」  おろおろとしながらも腰を折り、おっかなびっくり手を差し出して、顔に張りついた髪の毛を払ってくれた。その手つきがあまりにもやさしくて、涙がひっこんでしまう。 「悪かったって。ほんとごめん」  なにも言わない私を見て、困ったように謝罪の言葉を重ねる。 「一体どうしたの、ちぐさちゃん!」  騒がしい玄関の様子を見に来たのか、瞳子さんの仰天した声が後ろから聞こえた。なんだなんだ、と悟くんまでリビングから出てきて、なんだか大事になってしまった。 「あの、ちょっと滑って」 「大丈夫? ああ、もう、顔に傷が。ちょっと晴ちゃん、ぼーっとしてないで薬箱持ってきて」  瞳子さんに命じられて、弾かれたように晴彦が走っていく。  助け起こされて、痛いやら恥ずかしいやらで顔が余計に熱くなる。  奥のほうから、薬箱ってどこ、という叫び声が響いてきた。 「あそこの部屋の、入って右にある二番目の棚よ」 「わっかんねえよ」  もう、と瞳子さんが私の背中から手を離して、晴彦を追いかけた。  見上げると、悟くんは、特に手を貸そうとするわけでもなく、最近少し出てきたお腹の上で腕を組んだまま片足で立ち、つま先ですねを掻いていた。 「ちぐさ、鈍くせぇなあ」  あろうことかにやにや笑っている。 「うるさいなあ、瞳子さんを見習ってちょっとくらい心配しなよ」  そう言ったものの、再婚してからの悟くんはまっとうな父親っぽく振る舞おうとしていて気持ち悪かったから、このくらいでちょうど良い。  横にあった鏡で顔を確認したけれど、ほんのすこし擦っているだけで、傷自体大したものではない。これぐらいの怪我で大騒ぎするなんて、ドラマの中に出てくる家族みたいで、初心者っぽいなあ、なんて気恥ずかしくなる。  でも、真剣に心配してもらえるのは、やっぱり嬉しい。  その後、智くんから送られてきた『今から会いたい』というメッセージに応じようと思ったのも、ちょっとした下心が働いたからだ。   きっと、こちらが恥ずかしくなるくらい心配するんだろうな、と頬がゆるむ。 「ちょっと出てくる」  リビングをのぞいて悟くんに声をかけた。 「智くんか?」 「うん」 「送ってもらえよ」 「はーい」  智くんの部活終わりに会えるときは、私の最寄りのコンビニで待ち合わせするのがなんとなくの決まりになっていた。  智くんがそこまで来てくれて、近くの公園や駅前で一時間くらい話をして、家まで送ってもらう。  多忙な智くんと付き合う上で出来たルールで、悟くんもわかっているから、いつも声をかけるか携帯に一言メッセージを入れれば行っていいことになっている。  難色を示したのは瞳子さんだった。 「今から出かけるの?」  時計を見て、わざとらしく眉根にしわを寄せる。そうすると晴彦とそっくりで、晴彦のあの仕草は瞳子さんを見て育ったことで身についたものなのかもしれない、と思う。 「いつものことだから。ね、悟くん」 「まあな。大丈夫だって瞳子、いつも十時やそこらには帰ってくるんだから。きょうび、塾通いの小学生でももっと遅いぞ」 「そういう問題じゃないでしょ。こんな時間に誘われて出て行くのが当たり前っていうのが駄目なの。女の子なんだから」  こんな時間って、まだ九時前だ。自分たちはもっと遅い時間に会って、愛やらなにやらを育んでいたはずだ。私と晴彦が独りで夜をもてあましていたときに、二人は結婚までいくような密な語らいをしていた。 「そこのコンビニまで迎えに来てくれるんだし問題ないだろ。うちではずっとこうだったんだから。な、ちぐさ。行ってこい行ってこい」 「そういうのは持ち出さないって約束でしょう! あなた、男親だったからって適当にしすぎなのよ。痛い目に遭うのはいつだって女なんだから、もっとちゃんとしないと」 「瞳子こそね、そういうの持ち出すの良くないよ。ちぐさと智くんを、おまえの傷に取り込むんじゃないよ」 「なによその言い方! あたしは、ちぐさちゃんのことを思って」 「いってきます! 十時には戻るから!」  声を張って、振り返らずに玄関に向かう。行け行けー、と悟くんの声が追ってきて、直後にまた二人がなにか言い合うのが聞こえてくる。黒いスニーカーに足をねじこんで、自転車の鍵を持って飛び出した。  最寄りのコンビニまでは、自転車を飛ばせば五分ほどで着く。  秋の夜風は思っていたよりつめたくて、なにか羽織ってくれば良かったと後悔しながらペダルを漕ぐ。  コンビニに着いて、適当に店内を見て回る。雑誌を読んで時間を潰すのは苦手だった。立ち読みという行為自体にもなんだか罪悪感を覚えるし、二、三歩横に移動したら成人コーナーがある。こんな小娘が隣にいたらおじさんたちも気まずいにちがいない。  何度か入退店を告げる音が鳴って、智くんがやってきた。 「ちぐさ、お待たせ」  お疲れ、と駆け寄って、どきり、とする。疲労と苛立ちが表情の端々に見え隠れしている。笑みを浮かべてはいるが、いつものような、晴れやかなものではない。  部活か生徒会かで、なにかあったのだろう。 「なんか買う?」 「ううん、私はいいや」 「俺、飲み物買うからちょっと待ってて」  そう言って智くんはカフェオレを取って、レジに並んだ。 「それ、どうしたの」  財布から小銭とポイントカードを出しながら、頬骨に当てたガーゼをちらりと見た。 「ちょっと転んじゃって。見た目ほどたいしたことないから、大丈夫だよ」 「そっか。気をつけろよ。ちぐさ、女の子なんだから」 「うん」  次のお客様どうぞ、と声がかかり、智くんは会計に進んだ。  会計を済ませ、貰ったレシートをくしゃりと丸め、レジ横のレシート入れに捨てて智くんが戻ってきた。 「お待たせ。あそこの公園でいい?」 「うん」  うなずいて、コンビニを出た。  近くの公園に行って、街灯に照らされたブランコに並んで腰掛ける。  今よりさらに秋が深まると、イチョウが美しく色づいて、黄色い絨毯が足元に広がる。雨上がりは銀杏くさくて鼻をつまんでしまうけれど、そこを除けば遊具や砂場も充実していて、良い公園だ。  ちいさい頃、悟くんとよく遊びに来ていた。このブランコにも、いつまで経っても立ち漕ぎが出来なくて苦戦した思い出が詰まっている。   目を閉じると、にやにや笑いながら「そら立て! 今だ!」なんて声をかけてくる悟くんの姿が浮かんできた。  くしゃみをすると、汗くさいけど、とブレザーの上着をかけてくれた。  ぬくもりを感じながら、大丈夫、智くんはやさしい、と確認する。 「智くん、今日なにかあった?」  それとなく話を振ると、案の定、はあ、とため息をついて智くんは話し始めた。 「川谷和馬って知ってる? ちぐさと同じ学年の」  確か、二組の子だ。眼鏡が良く似合っている、細くて背の高い男の子。細すぎて制服をもてあましているのは晴彦と同じだが、川谷くんは背が高い分、すらっとした印象がある。 「うん。あの眼鏡の、頭良さそうな子だよね」 「頭良さそう、ねえ」  鼻で笑う様子に、胸が騒ぐ。 「あいつ、サッカー部なんだけど」 「うそ」  グラウンドより、図書室や美術室にいる方がしっくりくる。土ぼこりが舞う中、声を張り上げて汗だくで走り回っているイメージはない。 「ほんと。あいつ、マジで空気読めなくて、なにか意見したらカッコイイとでも思ってんのか、いちいちつっかかってくるんだよ」  智くんの横顔が暗く翳る。 「今日のミーティングが延びたのも、川谷のせいなんだ。この前、先輩たちの引退プレゼントを二年生何人かで選んで買っといたんだけど、今日、一人五百円ずつ集めるって言ったら、あいついきなりキレだして」  そこで言葉を切って、苦い表情を浮かべた。 「払わないって言うんだよ。『金銭関係のことを事後報告で済ませるのは納得がいきません。僕は払いたくなくて抗議しているわけではありません。僕ら一年の意思が無視されたことに対する憤りを表明しているのです』だってよ。確かに前もって言わなかったのは悪かったけど、あいつ以外みんな払うって言ってんだから空気読めよな。たかだか五百円でたいそうなこと言ってんじゃねえよ」  どんどん語気が荒くなる。余程揉めたのだろう。智くんがここまで悪く言うのだから、今までにもきっと何度かこういうことがあったにちがいない。  確かに、ちょっと面倒くさい。  五百円くらい、さっと払ってしまえば良いのだ。やれと言われたらやる体育会系にまるで向いていない。  たぶん、川谷君だってそこらへんはわかっている。わかっているけれど、どうしても流され切ることができなかったのだろう。  たかだか五百円。  その五百円を自分の力で得た部員は何人いたのだろう。  他人から見れば些末な、くだらないことでも自分にとってみたら譲れないことって、きっとある。それが多ければ多いだけ、生きづらくて、傷みやすい。 「大変だったね」  当たり障りのない返事をすると、智くんがまた、鼻で笑った。 「そもそも、なんであんな陰キャラがサッカー部なんて入ってるんだよ、って話だよな」  なにも言えなくて、軽く地面を蹴ってブランコを漕いだ。  陰キャラ。強い言葉だ。静かで目立たない人たちをバカにする、言葉。  智くんが、友だちが、クラスの子がなんの躊躇いもなくそれらの強い言葉を平気で口にするとき、私は自分が言われたわけでもないのに、きゅっ、と身を縮こまらせてしまう。倫理的に憤りを覚えるというよりは、単純に、自分たちが強い側にいることに無自覚な人間がこわいのだ。  私は、父子家庭であるということをハンデに思ったことは一度もない。  家事の一切ができないのは、私個人の怠慢によるところで、「母親がいないから」によるものではない。  でも、きっと、家事ができないとか、言葉遣いが荒いとか、振る舞いが粗野であるとか、両親が揃っていれば見逃されることも、私は許してもらえない。  中学二年生のときだ。  夏休みの予定を絵美たちと立てていたときに、私は悟くんと旅行に行くという話をした。行き先は尾瀬で、その四日間をとても楽しみにしていた。  学校にこっそり持ってきていた携帯で尾瀬の風景を見せて、「お父さんと行く」と自慢した。たぶん、うらやましがられたかったのだ。  青々とした山並みや、咲き乱れるニッコウキスゲ、どこまでも歩いていけそうな木板の道を見せて、こんな素敵なところに行けるなんていいなあ、と言われたかった。  絵美たちの反応は思いもよらないものだった。 「中学生のうちはいいけどさあ、高校生になったら父親と二人で旅行とかやめなよね。ダサいじゃん」  笑いながら言われて、そうか、と気づいたのだ。私にとっては、悟くんとの旅行は家族旅行だ。けれど、彼女にとって、それは家族旅行ではなかった。  そのとき、ひどく傷ついたかと言うと、そうでもなかった。家族の人数がちがうというのはこういうことなのか、とおどろいただけだった。  ただ、なんとなく、予感がした。  これから私は、何度となく、さらりと、ふつうの輪から外れていることを突きつけられるのだろう。通り魔に刺されるみたいに、予想もしないタイミングで、あっという間に傷つけられてしまうのだろう、と。  その年の末、絵美は両親と智くんと遊園地に行っていて、見せてくれた写真の中で楽しそうに笑っていた。  智くんは、かっこよくて、友だちもいっぱいいる。頭も良くて、サッカー部や生徒会に入っていて、いつもみんなの中心にいる。  そういう人だけが使える、使ってしまう言葉を、智くんには使って欲しくなかった。  よくないよ、って言えればいいんだろうけれど、黙って手を握ることしかできない。私のおそれが少しでも伝わればいい、と思ったけれど、智くんは私が元気付けようとしたと勘違いしたのか、ブランコごと抱き寄せてきた。 「ああ、やっぱり、ちぐさといると癒される」  うなじになまあたたかい吐息がかかってくすぐったい。  ブランコのつめたい鎖が左腕に食いこんできたので、もぞもぞと動いて、なんとか体勢を変えようとしたけれど、ままならない。  そうこうしていると、智くんの顔が近づいてきたので、黙って目を閉じた。  すこしかさついた唇が触れ、すぐに湿り気を帯びる。頭の芯がぼおっとする一方で、ブランコからずり落ちないよう、下半身の筋肉を総動員して力士のように踏ん張ってしまう。  行為との落差がおかしくて、つい、くすりと笑ってしまった。 「なに?」  熱っぽい目の奥に、不快感と、かすかな不安、羞恥の揺らぎが見えて、ぎくりとする。笑うべきじゃなかった。  ごめん、と謝るより早く、智くんが勢いよく覆い被さってきた。  今度は後ろに倒れないよう、腰に力が入る。苛立ち任せの噛みつくようなキスに怯んで顔をずらそうとするけれど、頭の後ろに手を回されていて拘束から逃れられない。頭皮に食いこむ指の力に、レスラーが林檎を素手で砕いているイメージがよぎる。  歯の隙間から舌がぬるりと入りこんでくるのと同時に、智くんの手が脇腹をさまよって、服の中に入ってきた。カッターシャツを握っていた手を開いてこぶしを作り、智くんの胸を軽く叩いたけれど止まらない。胸元まで手が上がってきた瞬間、思いっきり突き飛ばした。  智くんはびくともしていなかったけれど、私の身体を支えていた右足が砂地を滑り、力が行き場を失ってブランコから落ちそうになる。  智くんは、はっ、と正気に返ったように私の腕を掴んで引き上げてくれた。 「ごめん」  申し訳なさそうな声に、あわてて謝り返す。 「私のほうこそ、ごめんね。ちょっとびっくりして」 「いや、俺が悪いよ。そりゃ嫌だよな、こんなところでこういうの。いきなり悪かった」  ひどくわかりやすく落ちこんでいる智くんに、なにか言ってあげようかと口を開いたけれど、結局なにも言えなくて沈黙が落ちる。 「冷えてきたし、帰ろうか」  気まずい空気を振り払うように智くんが立ち上がり、ほっとする。 「送るよ」 「いいよ。まだ早いし、大丈夫」 「それとこれとは別だから」  きっぱりと言い切られる。  それとこれを分けて考えられる智くんは、大人でやさしい。  大丈夫。大丈夫だ。  帰り道は、智くんが自転車を押してくれた。  かごに智くんの部活用のバッグを載せて、ゆっくりと歩いていく。  智くんは、引き続き、川谷くんがいかに部活で浮いているかという話をずっとしていた。  智くんは、ほんとうはしゃべりたくないようだった。せわしなく息を吸って吐いてを繰り返して、苦しそうだった。でも、しゃべらなければ、もっと苦しくなるとばかりに、余念なく川谷くんの性悪エピソードを語り続けていた。  私も私で、へえ、とか、そうなんだ、とか、曖昧な返事しかできず、智くんをしゃべらせ続けてしまった。  家に着く頃には智くんは疲れ切っていて、ぐったりとしながら「なんで俺、ちぐさといるのにずっと川谷の話してるんだろうな。実は好きなのかな」とつぶやいていて、私は、ほんとだよ、と笑った。少しだけ、いつも通りの空気に戻って、二人とも肩の荷が下りるのを感じていた。  借りていたブレザーは、家の前で返した。  袖を通しながら、智くんは二階を見上げた。 「ちぐさの部屋って、前のまま?」 「ううん、今は弟の部屋になってる。私はその隣に移ったよ」 「なんで? ちぐさが動く必要ある?」 「隣の部屋、わりと広いの。もともと私の本棚や衣装ケースを置いてて、今さら部屋には入れられないし、そっちにいったらどうかって」 「ああ、そうだっけ。確かに本棚なかったな、ちぐさの部屋」  そうか、と納得したのかどうなのかわからない曖昧な調子でつぶやき、智くんがこちらに向き直った。 「弟、また今度紹介してよ」  いつかね、と答えたけれど、なんとなく晴彦には会わせたくなかった。  鍵を開けて中に入ると、リビングから悟くんと瞳子さんの笑い声が聞こえてきた。なにかバラエティでも見ているのだろう。出かけるときは私のことで争いかけていたのに。  大人には大人なりの体裁ってものがあって、それはこどもがいなくなれば守らなくてよくなるものなのだ。   階段を上って、立ち止まる。 「晴彦」  部屋の前で呼びかけると、しばらくして、なんだよ、と声が返ってきた。 「入ってもいい?」 「……別にいいけど」  戸を引くと、晴彦は正面にあるベッドの上に座り、壁にもたれていた。文庫本を手にしていて、どうやら読書中だったようだ。  後ろ手に鍵をかける。私と晴彦しか、ここにはいない。  床に座って、ベッドにもたれた。  前に入ったときは余裕がなくてよく見ていなかったが、青と白を基調としたこの部屋は、もう晴彦の城だった。 「なんだよ」  なにも言わない私を気味悪く思ったのか、晴彦は本を読むのをやめて、顔をのぞきこんできた。 「わかんない」  どうしても、あのまま自室に戻る気になれなかった。 「……あんたさ、その、顔に傷」  ばつの悪そうな声が途切れる。不審に思って視線を上げると、晴彦は肩を揺らしていた。  笑っている。 「はあ?」  思わず声を荒げてしまった。  智くんの気持ちがよくわかった。いきなり笑われるとおどろくし、不安になる。  はじめは遠慮がちにくつくつ笑っていたのに、しまいには腹を抱えてげらげら笑い始めた。 「だ、駄目だ、今になって思い出してきた。あのときのあんた、すげぇゾンビだった。か、髪くわえて『ハルヒコォォォ』っておっかなすぎ、お、おれマジで漏らすかと」  腕を口に押し当てて、身体を折り曲げて苦しそうにひいひい笑っている。  怒ろうかと思ったけれど、顔を真っ赤にして笑っている晴彦を見ていると、ささくれが消えていくようで、笑いすぎだよ、なんて言って軽くこづく程度にとどめる。嫌がられるかなと内心どきどきしたけれど、晴彦は特に押し返すそぶりも見せず、悪い、と目尻に浮いた涙をぬぐった。  この勢いでいけるかもしれない、とさりげなく切り出してみた。 「ねえ、晴彦。私、あんたのブラジャー見てみたい」  一瞬押し黙ったものの、いいよ、と短く答えて、晴彦は衣装ダンスの上から二番目の棚を引いた。十枚ほどのブラジャーがきちんと揃えて並べられていて、その全てを取り出してくれた。この前着けていた黒のブラジャーに、紺地にビビッドなオレンジの線が入ったもの、黄緑色に白やピンクの花が散っているものと、どれも繊細で緻密なつくりをしている。 「これ綺麗だね」  ふじ色のブラジャーを指す。一つ一つ形や大きさが微妙に異なる蔦の葉が谷間のラインに沿ってつけられていて、よく見ると、その隙間にも小花の刺繍が施されている。カップの部分はよく見ると少し透けていて、さらに薄いふじ色のレースが全体を覆っている。ため息ものだ。 「目が良いな。インポート物で、一番高かった」 「へえ。いくらくらい?」 「もらったお年玉全部使った」  目をむく。すごい情熱だ。ほんとうに下着が好きなのだ。  そこで、ふとあることに気づいた。 「晴彦ってパンツはどうしてるの?」 「ふつうに男物だよ。履き心地悪いし、あれは見てるだけで良い」 「そうなんだ。でも、こういうのって上下セットで着てこそおしゃれ、って感じしない?」 「まあな。でも、おれ、単純にブラジャーの形が好きなのかもしれねえ。上半身に締まりが出るっていうか」 「なるほどねえ」  邪険にせず、至ってふつうに答えてくれるものだから、私もそのままの調子で尋ねてしまった。 「学校には着けて行くの?」  瞬間、晴彦の顔から一切の表情が消えた。  沈黙が続いて、私は、ひどくたちの悪い質問をしてしまったことに気がついた。  晴彦には、ちゃんと自覚があったのだ。  男の子がブラジャーを着けるのは「ふつうじゃない」とわかっていた。それでも、高圧的な態度で平然を装うことで、これは変なことじゃないんだと自分を守っていた。  学校になんて、着けて行くわけがない。でも、それを認めることは、晴彦の敗北を意味する。私が晴彦に言わせようとしたことは、そういうことなのだ。  謝ってはいけない。とにかく話題を変えなくてはならない。  そう思ったけれど、頭が真っ白になってしまって、なにも出てこない。晴彦もなにも喋らない。身じろぎもせず、息さえもしていないように見える。  あ、とか、お、とか、発しようとした音は沈黙に吸いこまれて、いたずらに息を吐き続け呼吸が苦しくなる。戻り方がわからない。二人きり、宇宙で迷子になってしまったみたいで、途方に暮れる。  そのときだった。 「晴ちゃん、ちょっといい?」  瞳子さんの声と同時に、がんっ、と鈍い音がした。鍵をかけているから当然だ。間髪入れず、二度、三度、がんっ、がんっ、と鍵のかかった戸を横に引く音が響く。  せっかちだなあ、と立ち上がろうとした私の脇を、晴彦が四足歩行に近い動きで猛然と走っていった。  その動きに呆気にとられたものの、床に並べられたブラジャーの存在を思い出し、引っつかんで衣装だんすに押しこむ。  晴彦は慎重に鍵を開けて、一つ息をつき、戸を引いた。  晴彦の頭越しに瞳子さんと目が合う。  次の瞬間、瞳子さんはでたらめな手つきで目をこすり始めた。生え際から引き剥がされてしまうのではないかというほど、皮膚がぐにゃぐにゃと動かされている。あまりの乱暴さに、「瞳子さん!?」と悲鳴を上げる。  十秒ほど経ち、ぱっ、と手を離した瞳子さんは、何度かゆっくりまばたきをして、ああ、ちぐさちゃんね、とちいさな吐息を漏らした。 「晴ちゃん」  瞳子さんが首を突き出し、晴彦を見下ろした。 「鍵かけてたわね」 「……ごめん」 「どうしてかけたの? ママと約束したわよね。鍵はかけないって。他はどんなことしてもいい(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)から、部屋の鍵はかけないって。どうしてそんな簡単なことが守れないの。約束が守れない男は嫌いって、ママ、言ったわよね」  長い髪と、感情をそぎ落としたような無機質な声が晴彦に覆いかぶさる。  見たことのない瞳子さんの姿に面くらってしまい、晴彦と瞳子さんを見比べる。 「ごめん」 「謝ってほしいわけじゃないの。謝ったら済むと思ってるでしょう、なんでも。そういうところが似てほしいわけじゃないの。似てほしくないの。どうして鍵をかけていたのか、って、ママ、訊いてるのよ」  口早に晴彦を問いただす瞳子さんの姿に、悟くん、やばいよ、と心の中で呼びかける。  悟くんなんて、謝ったら済むと思っている人間の代表だ。  おそらく、すまんすまん、で四十五年間生きてきている。その代わり、すまんすまん、である程度のことは許してくれる。そもそも、部屋に鍵をかけたことなんて責めすらしない。  だって、当たり前のことだ。  悟くんだって私だって、ひとりの人間なんだから、鍵をかけて守りたいことの一つや二つ、ある。  瞳子さんはないというのだろうか。それとも、晴彦にだけ、許さないということなのだろうか。  呆然としながら、晴彦のちいさく丸まった後ろ姿に目をやる。背中しか見えないけれど、下を向いた晴彦が怯えているのがわかった。 「私がかけたんです」  気づけば、立ち上がって叫んでいた。 「癖で、かけちゃったんです。自分の部屋にいるときみたいに。うちは、べつにかけてもよかったから」  知らず、敬語になっていた。  瞳子さんは、そう、と短く答えて、にっこり笑った。 「晴ちゃん、家庭訪問のプリント、出していないでしょう。家の都合もあるんだから、早く見せてもらわないと」 「……後で持って行く」 「ママの情報網舐めちゃだめよ。こっちに来てまだ日は浅いけど、もう戸塚くんのママや笹野くんのママとだって仲良しなんだから」 「……わかったから」 「ね、二人とも晴ちゃんのクラスの子でしょう。ちゃんと仲良くしてる?」 「今から探して、持って行くから、もう、」 「ちぐさちゃん」  晴彦と話していたはずの瞳子さんに不意に声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。 「晴ちゃんと仲良くしてくれてありがとう」  そう言って、嬉しそうに笑う瞳子さんは、私の知っている、いつもの瞳子さんだ。心の底から私たちが仲良くしていることに満足して笑っているように、見える。かすれた声で、うん、と答える。 「でも、晴ちゃんの部屋で、鍵は、かけないでね」  はい、と言いかけて、いや、言うもんかと口をひき結んだけれど、同じ笑顔のまま見つめ続けてくる瞳子さんに屈して、結局首を縦に振ってしまった。  瞳子さんが出て行った後も、晴彦はこちらに背を向けたまま動こうとしなかった。なにか訊くべきなのか、なかったことにするべきなのか、判断に迷って、棒立ちのまま視線をさまよわせる。  ややあって、晴彦がぽつりとつぶやいた。 「父親、寝取られたんだよ」  振り返った晴彦の顔は疲れ切っていて、中学二年生の男の子のそれではなかった。 「母さんの実家に帰省したとき、予定より一日早く家に帰ってきたんだ。列車の遅延で、家に着いたの、夜中過ぎだった。あいつ、出張だって言ってたのに、玄関に靴が、女物の、靴も、あって。部屋には、鍵がかかってた。母さん、あいつが観念して出てくるまで、開けろ開けろ、って、ずっとドア、叩き続けてたんだ。相手の女、誰だったと思う」 「知り合い?」 「ああ」 「親友とか」 「惜しい。妹だよ。それ以来、母さん、部屋に鍵かけられたら、ああなるんだ」  さっきの瞳子さんを思い出して、改めてぞっとする。  あそこには、息子に父親の責を負わせる、一人の生々しい女が立っていた。  うちも。  うちもだよ、とつぶやく。 「うちのお母さんも、どこかの男の人を好きになって、出て行っちゃったよ」  ドラマのように、ボストンバッグに荷物を詰めこんだお母さんの背中を玄関で見送り立ち尽くす、なんてこともなく、気がつけば家からいなくなっていた。  私が三歳のときらしく、当時はそれなりに大泣きしたらしいけれど、全く覚えていない。小学校に上がる前に、なにかの手続きで近くまできていたらしいけれど、悟くんは行けとも行くなとも言わなくて、結局行かなかった。それが最後だ。 「傷の舐め合い婚だねえ」  ねえ、と同意を求めると、晴彦はふん、と鼻を鳴らして顔を歪めた。 「気持ち悪い。おれはあいつらの恋愛の付属品じゃねえよ。やりたいだけならホテルで済ませとけっつーの」 「やめなよ晴彦」  思わず、強い口調で咎めた。  なんとなく、晴彦にはそういうことを言って欲しくなかった。  中学のとき、男子たちがにやにや笑いながらカタカナで発していたそれらから遠いところに晴彦はいるような気がしたし、いてほしかった。 「私は、瞳子さんに付属品があってよかったよ。瞳子さん、悟くんより料理下手だし、心の闇が深そうだし。今のところ、この人がいて良かったなんて思うところないもん」  言いすぎている自覚はあったけれど、手心を加える気にはならなかった。  瞳子さんは、私たちの親だ。晴彦は、瞳子さんのこどもなのだ。  その意味をはきちがえるのは、いつだって親のほうだ。 「晴彦がくっついてきてくれて良かったよ」  ねえ、と笑いかけると、晴彦はまた、ふん、と鼻を鳴らした。
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