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翌日、私と晴彦はお昼ご飯を食べてから家を出た。
階段を下りると、晴彦は玄関で身体を折りたたみ、革靴のかかとに靴べらを入れていた。
「偉いねえ、それ、ちゃんと使うんだ。私も悟くんも使ったことないよ」
「偉いっていうか、靴を駄目にしたくないだけだ。あんたもちゃんと使え。かかとをつぶすな」
ほら、と晴彦が差し出したときにはすでにスニーカーのかかとを踏んづけて、ぐりぐりと足をねじこんだ後だった。
あは、と笑うと、晴彦が呆れたように腰に手を置いて息を吐いた。
「あんたさ、身の回りの物、もうちょっと丁寧に扱いなよ」
「丁寧?」
「今の靴もそうだけど、シャツのボタンなんかいつ見ても取れかけてるし、プリーツがつぶれるのもおかまいなしに制服のスカート放り投げてるだろ」
意外とよく見ている。おどろきながら、素直にうなずく。
晴彦は、自分の身体に合う物をきちんと知っている。自分で選んで、選んだ以上、大切にして生きている。
与えられたものでもそうだ。あれだけ裾を引きずっていた制服のずぼんも、気づけば丈はぴったりになっていて、訊けば、自分で裾直しをしたという。
すぐに背が伸びるわけでもないし毎日このままじゃ気持ち悪いだろ、と当たり前のように言っていたけど、絶対に当たり前じゃない。本人には言わないけれど、晴彦のそういうところを私は尊敬している。
今日の服装も晴彦に良く似合っていた。
白いカットソーの上にベージュのロングカーディガンを羽織っていて、くるぶし丈の黒いスキニーは、線の細さを際立たせている。中学生にしては大人っぽい装いだが、中性的なたたずまいで上手く着こなしている。
「俺、秋も花粉症持ちなんだ」
顔の半分以上を覆うマスクをつけて、晴彦がつぶやく。
「大変だねえ。気の休まる季節があんまりないじゃん」
「まあな」
一緒に外に出て、どこに行くのか決めていないことに気がついた。
「ねえ、そういえば、今からどこに行くの」
「崎央のエムズモール」
「えっ」
崎央駅はここらの中心部で、エムズモールと言えば崎央の中でも最大のショッピングモールだ。服屋以外にも、映画館やボウリング場なんかの娯楽施設がエムズに集まっているから、出かけるたび誰かしら知り合いに出くわすのが当たり前になっている。
「エムズじゃなくって、もっと他の所じゃだめなの?」
「他の所?」
「うん、もっと」
出かけた言葉を飲みこんだ。
「……知る人ぞ知るお店とかさ。晴彦、そういうの詳しそうじゃない」
「知らないわけじゃないけど、あんた、下着に一万円も出せないだろ。何店舗か入ってるし、価格帯も品揃えも、あそこが一番適当なんだよ」
そう言って、晴彦は一本道をずんずん進んでいく。追いかけるしかなかった。
エムズの二階、いつも横目でちらちら見るだけで、ついぞ踏みこめなかった店に、晴彦はことなげに入っていった。
あわてて後を追う。店内は、外から見るより広かった。照明が過剰なまでに明るい。下着下着、どこを見ても下着だ。目がちかちかする。スポーツブラなんかとは比べものにならない可愛さと、輝きにあふれていて、目移りしてしまう。
「ほら、選べよ」
晴彦にせっつかれて、とりあえず端から見ていく。
男の人の好きそうな下着ってなにだろう。ピンクや黄色がベースの花柄ブラなんて、こどもっぽいだろうか。
見回すと「とびきり谷間メイク」と書かれた、セクシーなブラジャーが目に飛びこんできた。
近づいてみると、黒いレースの下に、ワインレッドの生地が透けて見える。目を凝らすと、カップには何匹もの蝶が縫い止められていた。
そっと触って、パッドの厚みにおどろく。
「ねえ」
手招きして呼び寄せる。
「なに? 決まった?」
「サイズってどう選ぶの」
晴彦があんぐりと口を開けた。
「あんた、自分の胸のサイズも知らないのか」
呆れたように言われて、顔が熱くなる。それでも、絵美や毬江ちゃんに言われるよりよっぽどマシだった。
「だから、今まで着けてたのはSとかMとかのサイズ表示なんだって。こんなぶ厚いパッドが入ったやつなんか着けたことない」
早口でまくし立てると、晴彦はなるほど、とあごに手を当てた。
「で? 普段はどのサイズ着けてるんだ」
「Mだったと思う」
「ならCの70くらい持っていけよ。そんで、中で測ってもらえ」
「測ってもらう?」
「店員が測ってくれるんだよ。自分の胸のサイズがわからなきゃなにも買えないぞ」
「わかった」
胸の大きさなんてどう測るんだろう、と思いながらも店員さんに声をかけると、試着室に案内してくれた。
店員さんがカーテンを開けると、左右に一つずつ個室があって、それぞれにまたカーテンがかかっている。
「こちらへどうぞ」
向かって右側の個室に案内され、試着が終わったらボタンを押して欲しいと説明される。
急いでシャツとタンクトップを脱ぎ落す。値札を避けながら胸の前でホックを留めて、くるりと回す。両肩に紐をかけ、振り返る。鏡を見て息をのんだ。
顔から下が別の生き物みたいだ。
左右からぎゅうぎゅうと押された胸は盛り上がって、宣伝文句通り、見事な谷間が出来ている。自分のものとは思えないその谷間に人差し指を入れ、抜き差しして、おお、と声を上げる。
クリーム色の壁に埋めこまれたボタンを押すと、コンビニの入退店音のようなメロディーが流れてきて、胸がどきりと鳴った。
失礼します、と声をかけられて返事をすると、カーテンの隙間から店員さんが流れるような動きですべりこんできた。
「サイズはいかがですか?」
「きつくはないと思うんですけど」
むしろ、肩紐のところが少し浮いているような気がする。
「ではお胸のほう、失礼いたしますね」
白い手袋をつけて、にっこり微笑む。おむねに失礼する? と戸惑っている間にも、背中に手を当てられ前かがみの姿勢を取らされる。
次の瞬間、脇の下に手を入れられた。わっ、と声が出そうになる。
躊躇いのない手が、じっとりと汗ばんだ腋を撫でる。てきぱきと、そして容赦のない手つきではみ出ている肉をカップの中に押しこんでいく。
申し訳なさと恥ずかしさで頭が沸騰しそうだ。こんなことをするなんて聞いてない、と心の中で晴彦に当たる。
真っ直ぐ立たされ、肩紐を調節されると、浮いた感覚が消えた。
「いかがですか?」
「あ、はい。ぴったりだと思います」
「では、念のためサイズを確認させていただきますね」
そう言って、胸がいちばん突き出ている箇所と、その下のワイヤー部分に巻き尺をまわして、数字をメモしていく。
「トップ85、アンダー70なので、そうですね、お客様の胸のサイズはCの70でぴったりだと思います。お色違いもございますが、お持ちいたしましょうか」
はきはきした説明に、いえ、あの、と答えに窮していると、慣れているのか、店員さんはにっこり笑って、またなにかありましたら、と出て行った。
えらいことだ、とその場に座りこみそうになる。
この短時間でかなり消耗してしまった。みんなほんとうにこんなことを平気でしてもらっているのだろうか。絵美も毬江ちゃんも晴彦も。
いや、晴彦は自分で出来るか。人の胸のサイズも当てられるぐらいだ。
それに、なんとなくだけど、晴彦は人に触られるのを嫌がるイメージがある。
あの無愛想な態度にそう思わされているだけかもしれないが、たとえ家族でも友だちでも、必要以上のボディタッチは許さないんじゃないだろうか。のどなんて決して触らせない、警戒心の強い野良猫みたいに。
無理に触れば嫌がることはわかっているのに、つんけんした態度を取られると、どうにもその頭をおもいっきり撫でまわして、めちゃくちゃに嫌がられてみたいという欲求が頭をもたげたりする。
それは、自分でもふしぎで、抱いたことのない感情だったりして、実は私はいじめっ子気質だったのかな、なんて思う。
「終わったか?」
晴彦に声をかけられてはっと我に返る。着替えることもなく下着姿のままぼんやりとたたずんでいた。
それにしても予想以上に近い。待ってくれているとしても、もう一つ外側のカーテン前にいると思っていた。
「終わったよ。サイズ、晴彦の言う通りだった」
「そりゃよかった。じゃあ開けるぞ」
「えっ」
反射的にカーテンを押さえる。
「待って、開けるってなに? なんで?」
「客観的な意見が欲しいんだろ。そのためにおれを連れてきたんじゃねえの」
それは、確かにそうだ。正直なところ、このブラも似合っているかどうかがよくわからない。
こんな黒とワインレッドの色味のものなんて普段身に着けないし、買おうとも思わない。自分の顔に誰かの身体を無理やりくっつけたみたいで、鏡に映る姿は、セクシーというよりなんだかグロテスクだ。
数秒葛藤して、決めた。
「わかった。開けてもいいよ」
お腹に力を入れてできるだけへこませてから声をかける。
しゃっ、と店員さんよりも思い切りよくカーテンを開けて晴彦が姿を現した。
マスクをしていてもわかる。晴彦は顔色一つ変えていない。鑑定人のような、鋭く、私情の感じられない目つきで私の胸を見ている。
すごい。晴彦は本物なんだ。
羞恥よりも感動が上回っていくのがわかる。
晴彦は、ふつうの中学生男子じゃないのだ。言葉と行動が誠実に結びついている。
胸の大きな子を指さしてにやにや笑ったり、女の子にかばんのたすき掛けをためらわせるような、馬鹿な男の子じゃない。ほんとうに、ファッションとしての下着を愛している。彼を前にして、恥ずかしがるほうが、恥ずかしいことだったのだ。
「どうかな。似合ってる?」
「似合ってはいない」
ばっさりと切られた。
「ちょっと待ってろ」
しばらくして戻ってきた晴彦は、水色の布地に細かなドットがプリントされたシンプルなデザインのブラを手にしていた。谷間のラインには申し訳程度にレースが縫われている。
「こっちのほうが似合うはずだ」
晴彦が差し出してきたブラは、どことなく私が持っているスポーツブラのデザインに似ていた。
悟くんが選んで、買ってきてくれたもの。
悟くんも私のスポーツブラを選ぶとき、ちぐさにはこれが似合いそうだ、なんて思って選んだのだろうかと考え、ゆるく頭を振る。
「でもさ、これ、ちょっと幼くない? こういうのって、中学生くらいの女の子は好きそうだけど、こっちの黒いやつのほうが」
男の人は好きそう、と言いかけて、やめる。晴彦相手にそれを言うのは、とても恥ずかしいことのような気がした。
「幼いとか、誰が好きそうとかじゃなくて、これはあんたの下着で、今はあんたに似合うかどうかの話をしてるんだよ」
言葉が継げず黙りこんだ私に向かって、晴彦がきっぱりとした口調で言い切った。
頭からお尻まであまりにもまっとうなことを言われてしまって、そんなのわかってるけどさ、とくちびるをすこし尖らせ、差し出されたブラから顔をそむける。
こっちにも事情ってもんがあるし。下着って、自分のためだけのものじゃないでしょう。女の子は、やっぱり彼氏に見せることも考えて、選ぶよ、ふつう。晴彦は自分のことだけ考えてればいいかもしれないけどさ。
と、心の中でもにゃもにゃと言ってみる。
実際に口に出したら、どうなるかなんて、目に見えている。おれの知ったことか、と晴彦は一蹴するだろう。
そのとおり、私の事情など晴彦の知ったことではない。幼稚な反論だ。それに、最後の一文が、最悪だ。
たった一瞬、留飲を下げるためだけのいじわるな言葉を、たやすく思いついてしまったことに軽く自己嫌悪を覚える。
「考えすぎんなよ。着けるのはあんたなんだから、好きなの買えってこと」
どんどん表情が暗くなっていく私を見て、晴彦は妙にやさしく、諭すように言って、試着室のカーテンを閉めた。
いよいよどうすればいいかわからなくなってきた。
晴彦が言うのだから、おそらくあの水色のブラのほうがきっと私の雰囲気に合うのだろう。けれど、こちらの黒いほうが大人っぽくて、智くんとそういうことをするのに相応しいはずだ。悟くんが買ってきたようなものと似たデザインのブラであれこれに臨むのは、なんていうか。
のろのろと着替えて、試着室を出ると、店員さんがさっ、と駆け寄ってきた。
「お疲れ様です。いかがでしたか?」
返事ができず、店内に視線をさまよわせると、晴彦の姿が目に入った。
試着室から遠く離れた店の入口に置かれたあの水色のブラの前に立ち、他の物を手に取って見比べたりしている。
胸がつまった。私のために、あんな遠くまで探しに行ってくれたのだ。私に似合うブラを真剣に考えて、店内を見て回ってくれた。
私なんて、友だちと服を買いに行っても「似合ってるよ」しか言わないし、言えなかった。ましてや、もっと似合いそうな物を探してあげるなんてしたことがない。
「すみません、もうちょっと見てみます」
謝って入り口に向かう。自然と早足になる。
「晴彦」
声をかけると、晴彦は、ああ、とマスクを少し下げて応じた。
「ごめん、やっぱりそっちにするよ。私の身体は私のものだし、私は、私に似合う物を身に着けるべきなんだと思う。ね、そうだよね」
勢いこんで話しかける。そうだ、わかってるじゃないか、と力強く首肯してもらえると思ったのに、晴彦は困ったように瞳を揺らした。
「……どうだろうな。そりゃ、似合うに越したことはないだろうけど。でも、似合う、と、好き、はべつだし。おれの言い方も悪かったけど、最初のやつ、似合わなくてもあんたが好きなら、買えばいいと、思う」
途切れ途切れの口調で、晴彦はうつむきがちに言葉をつないだ。らしくない歯切れの悪い物言いに、どうしたのだろう、と不安になる。
なにもおかしなことは言っていないはずだ。
自分に似合うものを着る。正しいはずだ。
晴彦だって、自分に似合っているものを身に着けている。服だって髪型だって靴だって、そう、ブラジャーだって。
そうだ。白く、線の細い身体に、あの黒いブラジャーはよく似合っていた。
そこらの女の子に負けないぐらい、きれいでかわいくて、色っぽくて、よく似合っていた。未発達の、華奢で繊細な身体に。
あれ、じゃあ、似合わなくなったら?
ちか、となにかが頭の中で光った瞬間だった。
晴彦越しに、見知った顔が見えて、息が止まる。
絵美と毬江ちゃんだ。
紙袋を二、三提げて談笑しながらこちらへ歩いてくる。
「ちぐさ」
隠れる間もなく、目が合う。
絵美は一瞬、ばつの悪そうな表情を浮かべ、すぐにそれを引っこめ笑顔で駆け寄ってきた。
「すごい偶然! うちら買い物してて、あっ、もちろん今日は買い物だけ! ね、マリ」
「うん、ほら、絵美ちゃん今日午前練だけだったし、二人で買い物しよーってなって。ちぐさちゃんは用事あったんだよね」
「うん。そっか。うん、それにしても偶然だね」
「まあ休みの日に遊ぶっていったら大体ここだしね。さっきも小島とえっちゃんカップルに会ったんだ。小島の私服超ダサくてさあ」
当たり障りなく会話を続けながら、心が冷えていくのを感じる。
予定があると断ったのは自分だし、観たい映画があれば二人で行けばいい、と思っていたのに、いざ二人だけで遊んでいるところを目の当たりにすると、複雑な気持ちになる。
私と絵美とは中学のときから仲良くしているけれど、毬江ちゃんなんて高校に入ってからの友だちだ。三人の中でも絵美と毬江ちゃんの性格は正反対で、私が間を取っていることで仲良くやっていけてる、なんて思い上がっていた。
二人は、二人だけで遊びに行けるぐらい仲が良かったのだ。
「そういえばちぐさちゃん、今日は家族で出かけるって言ってたよね」
二人の視線が私の手前で止まる。晴彦が軽く会釈した。
「……ちぐさって、きょうだい、いたっけ」
「ううん、一人っ子だったんだけど、この前お父さん再婚したんだ」
「えっ、そうなんだ。っていうか、ちぐさの家、そうだったんだね。知らなかった。言ってよ、友だちなんだから」
肩を軽く叩かれ、ごめんごめん、と謝る。
喉はからからなのに、口の中はつばでいっぱいになっていく。
「……妹さんだよね?」
毬江ちゃんが首をかしげる。
中性的な身体つきと服装だ。顔も、鼻から下はマスクに覆われて隠れている。妹だと確信して聞いたというよりは念押しのようだった。
早く、ちがう、と言わなくては。また、晴彦が怒ってしまう。
でも、弟と下着屋さんで買い物っておかしい。ふつうに考えて、変だ。
晴彦は今、ブラジャーを胸に当てている。毬江ちゃんはどうかわからないけれど、絵美がそういうのに理解があるタイプだとは思えない。
クラスの輪の外、片隅で集まっている子たちに向ける、あの、冷ややかな目。振りかざす、無邪気な常識。
ニッコウキスゲは、期待していたほど、美しくなかった。
「うん、妹だよ」
気づけば、そう答えていた。
答えた瞬間、晴彦の背中が強ばったのが見てとれて一瞬で正気に返った。
「あ、やっぱり妹さんでよかったんだ。ボーイッシュだし一瞬わからなかったよ。中学生? すごくおしゃれで」
「弟だよ」
晴彦はきっぱりと、力強く遮った。
その声からは屈辱であるとか、怒りだとかは全く感じられなかった。ただ事実のみを告げる、平然とした声だった。
「晴彦」
どうすればいいかわからなくて、ただ名前を呼ぶ。
晴彦は丁寧な手つきでラックにブラを戻し、背を向け歩き始めた。
「晴彦!」
すがりつくような声が出る。
晴彦は振り返ることなく静かに歩いていく。
追いかければじゅうぶんに追いつけるような速度だったのに、追いかけることができたのは声だけで、私の足も脳も全く動いてくれなかった。
晴彦と一緒に、音も風景もゆっくりと去っていく。
絵美と毬江ちゃんがなにか声をかけてくれていて、それに条件反射のように「大丈夫」と答える。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、と繰り返せばほんとうになるんじゃないかと言葉に力をこめようとしたけれど、かなわない。
ちゃんと、わかっているのだ。全然、大丈夫なんかじゃない。
私は今、取り返しのつかないことをした。
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