きみのゆくえに愛を手を

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 昼休みを境に天気は崩れて、帰る頃には大粒の雨が窓をうちつけ視界を滲ませ、グラウンドの土はぐちゃぐちゃになっていた。  帰る段になって、ロッカーに入れておいたはずの折りたたみ傘がないことに気づく。おととしの誕生日に絵美からもらったものだった。  また、なくしたのかもしれない、と肩を落とす。  傘も、毬江ちゃんからもらったしおりも、智くんからもらったハンカチも、いつの間にかどこかへ消えてしまう。もらったときは確かにうれしかったし、大事にしようと思ったはずなのに、気づけばどこにやったかわからなくなる。 「ちぐさちゃん、傘あった?」  毬江ちゃんに声をかけられ、ううん、と首を振る。 「駅までしか入れてあげられないけど、大丈夫?」 「うん、お母さんに迎えにきてもらうから」  そう答えたけれど、瞳子さんに連絡する気はなかった。  今頃、夕飯のしたくをしているだろうし、瞳子さんは車の運転ができない。この雨の中徒歩で迎えに来させるのは気が引けた。  毬江ちゃんと別れ、電車から降りた後、教科書やノート、携帯をリュックの奥底に入れてタオルや体操着を覆い被せる。駅から家まで全速力で駆け抜け、右手に握っていた鍵をねじこみ、素早く家に入る。  玄関でひと息ついていると、足元があっという間に濃いねずみ色に染まっていった。  雨を含んだ制服が重い。ローファーの中にも水が浸入していて、動くたびちゃぷちゃぷと音が鳴る。   ただいま、と声を張ると、瞳子さんがリビングから顔を出して、目を見開いた。 「ちぐさちゃん、ずぶ濡れじゃない。今日はお昼から降るって予報で言ってたのに、傘持って行ってなかったの?」 「学校に置いてたつもりだったんだけど、見当たらなくて」 「電話くれたら迎えにいったのに」 「そんなの悪いよ。瞳子さんも忙しいだろうし」  言ってから、しまった、と後悔する。  見ていなかったけれど、瞳子さんはきっと傷ついた表情を浮かべていたにちがいない。私がこうやって遠慮するたび、瞳子さんは露骨にしょんぼりとする。そのたび、うまく甘えられなくて申し訳ないという気持ちと、大人なんだからその辺割り切ってよ、という思いがせめぎあう。  出会ってから日が浅いのだし、悟くんと同じようにというわけにはいかない。晴彦だって悟くんにはまだよそよそしい態度だ。おたくの息子だってこんなもんだよ、と言ってやりたくなる。でも、そのたびに、悟くんの「しょうがないか」という笑みに隠しきれていないさびしさを思い出して、やめる。 「瞳子さん、タオル持ってきてくれない? 吸水性めっちゃいいやつ。あと、もうお風呂入っちゃいたいかも。ついでに沸かしといてよ」  軽く、くだけた調子でお願いすると、瞳子さんはぱっ、と顔を明るくして、待ってて、とぱたぱた足音を立てて走り去っていった。  待っている間に、真っ黒になったスカートのひだをまとめて絞ると、水が勢いよく滴り落ち、また一つ水たまりを生んだ。片足を上げて、吸い付いて離れないソックスを無理やり引きはがし、小石や砂を手で払う。素足が思ったより冷えていて、つま先の感覚はあまりなかった。  そうしているうちに、瞳子さんが二枚タオルを持ってきてくれたので、一枚でざっと身体や服、かばんの水滴をあらかた拭って、靴下といっしょに渡す。  もう一枚で頭を拭きながら階段をのろのろとのぼり、足を止めた。  晴彦の部屋の戸は半分ほど開いていた。まだ帰っていないようだ。  ごめんね、とちいさく声に出してみたけれど、本人に向かって言える気はしなかった。  だって、なにをどう謝ればいいのだ。  晴彦を傷つけたのは確かだけれど、表面上謝ったって意味がない。  結局、私が晴彦を「認めてあげられた」のは、この部屋の中だけだったのだ。  この中でなら、私は晴彦に理解を示して、変じゃないよ、ふつうだよって言ってあげられた。  けれど、一歩外に出れば、それはたちどころにふつうのことではなくなってしまって、ふつうじゃないことは恥ずかしいことで、友だちにそんな奴が家族なんだと思われたくなくて。 それを、最悪の形で、晴彦に突きつけたのだ。  ぶるり、と身体が芯から震える。早くお風呂に入ってしまおうと部屋に戻る。  雨を含んだ制服を脱ぎ捨てたのに、身体は鉛のように冷たく、重いままだった。  それに気がついたのは、玄関で折りたたみ傘を探そうとしたときだった。  晩ご飯の後、部屋に戻って、他のかばんの底や本棚の隙間、そで机の引き出しの中、心当たりをくまなく探したけれど、いくら探しても傘は見つけられなかった。可能性があるとすれば玄関の物入れだった。  つっかけに足を入れて気づく。私のローファーに新聞紙がみっしりと詰められていた。隣を見ると、晴彦の運動靴にも同じように新聞紙が詰められていて、水気を吸い取っている。 「瞳子さん、ありがとう」 「ん? なにが?」 「ローファーに新聞紙入れてくれたの、瞳子さんでしょう。明日も履いていくってこと、すっかり忘れてたから助かるよ」  リビングに顔を出してお礼を言うと、リモコンに手を伸ばしていた瞳子さんが少し考え、ああ、と笑った。 「それ、晴ちゃんよ」 「晴彦?」 「さっき玄関でごそごそしてたもの。あの子、変なところ所帯じみてるわよね」  瞳子さんがなんでもないように言ってテレビのチャンネルを変えてゆく。  がつん、と頭を殴られたみたいだった。  自分の分のついでだったのかもしれない。それでも、明日、私が不快な思いをしないよう、やさしさを分けてくれたのだ。あんな嫌な態度を取った私に。当たり前のように。  私が今、謝れずにいるのは、結局、自分が嫌な思いをしたくないからだ。  謝ってゆるされて気持ちよくなりたくて、でも晴彦が謝罪を受け入れてくれる気配がないから、嫌な未来が見えているから、ためらっているだけ。  絵美に「自然と仲直りできるから大丈夫だ」と言われて、私は、ちがう、と反発した。私たちはなりたての家族で、生まれたときから家族が揃っている「ぬるい」あんたにはわからない、と意地の悪いことを思った。  半分正しくて、半分間違っていた。  大丈夫じゃないなら、大丈夫にしなくちゃいけないのだ。  私たちはまだスタート地点にいる。  目の前には、幾度となく傷つけて傷つけられてを繰り返してゆく道のりが見えている。私はそれに怯んで、踏み出せずにいる。  でも、よく目を凝らせば、その遥か先に、笑いながらお互いをこづき合っている私たちが見えてくるはずだ。  どう謝るべきかなんて、考えたって仕方がない。そんなもの、逃げ回ったすえに出てくる言葉だ。  保身ゆえの不誠実を、晴彦の感情をないがしろにしたことを、率直に詫びなければいけない。ゆるされるとかゆるされないとか、関係ない。   私は晴彦のやさしさに見合うだけの人間でありたい、と顔を上げた。  リビングを飛び出し、前のめりになりながら階段を駆け上る。足がもつれて転びそうになり、手すりに掴まりなんとか体勢を整える。  上り切り、息を整えてノックをしようとしたときだった。  部屋の前に立った瞬間、どこか不穏な気配がぞわり、と肌を撫でた。  わずかに開いた引き戸の隙間から、雨の湿り気だけではない、むっとする濃い空気を確かに感じて、動きを止める。  日常の書き割りが破られ、立ちすくんでしまう、あの感覚。  勘としか言いようがない。  なにかがいつもとちがった。  気のせいだ、とか、やめておけ、とか、頭の隅でもう一人の自分が警告してくるのはわかったけれど、わずかに開いた戸に伸ばす手を止められない。  耳を当てると、かすかではあるけれど、苦しそうな息づかいが聞こえる。  片目を閉じて、隙間から中をのぞいた。  正面のベッドには晴彦が座っていて、腰元ぐらいまで布団がかかっている。前かがみで苦しそうに身体を少し揺らしていて、傍にはティッシュの箱と雑誌が――。  晴彦がなにをしているのかわかった瞬間、息が止まった。  全身の血液が頭に向かって流れてきているんじゃないかってくらい、頭が痛くて、耳の裏が熱くなる。その分、手足は冷え切っていて、動かそうとしてもうまく手に力が入らない。自分の指が細かく震えていることに気がついた。  裏切りだ。  なにが、とは説明できないが、手ひどく裏切られた、という憤りと悲しみに身体を支配される。息が荒くなるのが自分でもわかる。  はじめに、智くんの顔がぱっと思い浮かび、晴彦のまっすぐな目がそれをかき消した。  二呼吸ほどの間に、残業で帰れそうにないと連絡してきた悟くん、試着室での感動、にやにや笑う男子たち、智くんのじっとりとした手、晴彦の身体の透明感、電車の中で息を止めたときの滲んだ視界が時系列もでたらめに次々と思い出される。憎しみと怒りと失望に、すべてが赤く塗りつぶされ溶けて一つのマグマになっていく。  わかっている。  この後私が取るべき正しい行動は、このまま見なかったことにして、自分の部屋に戻ることだ。そして後日、素知らぬ顔で晴彦に謝るのだ。この年頃の男の子がそういう事をするのだって、ふつうのことなんだろう。晴彦に責められるべき点はなにもない。  そんなこと、じゅうぶんわかっている。  勢いよく戸を引いた。  開けた瞬間、晴彦の部屋の匂いにまじって、なにか酸っぱい臭いがしたような気がして、息を止める。こもりきった熱気に身体を包まれる。  気持ち悪い。 「うわ、なんだよ」  おどろいた晴彦があわてて布団を引っ張り上げ、必死で身を隠そうとしている。その動作がなんだか小物くさくて余計に腹が立つ。  ずかずかと踏みこんで、ベッドの上の雑誌を取り上げる。胸の大きな女の人が布一つつけず寝そべっている姿が目に入った。 「私は、なんのために智くんと戦ったのよ!」  振りかぶって、思いっきり床に叩きつけた。ぱらぱらとページがめくれ、見たくもない裸体が目に飛びこんでくる。 「汚いなあ! もう!」  雑誌を拾い上げて、もう一度叩きつける。  晴彦は勢いに圧されたのか、まだ状況が飲みこめないのか、ぽかんと口を開けたまま固まっている。  あああもう、と叫びながら、机の上の文房具やノートを叩き落す。ティッシュの箱を持ち上げ振りかぶり壁に投げつけた。晴彦が身をすくませるのがわかったが、止まらない。なにか物に当たらなければ、呑まれてしまいそうだった。  助走をつけて雑誌を思い切り蹴り飛ばす。くるくると回転して、衣装だんすにゴン、と音を立てて止まった。 「だいたいなにさ、あんた、試着室で私の胸を見ても平然としてたくせに!」  とにかくなにか叫ばなければ、と出てきた台詞がこれだった。なるほど、勝手なことに、私は晴彦の態度に感動すると同時に、妙齢の女として少しくやしさも覚えていたらしい。言うつもりもなかった本音がかき集められて飛び出していく。 「はああ? あんた頭おかしいんじゃないの」  そこでようやく晴彦が我に返ったのか、顔を真っ赤にして叫んだ。  同じタイミングで、どうしたの、と下から瞳子さんの声が聞こえてきて、「なんでもない! 絶対に上がってこないで!」と叫び返し、大股で階段に向かう。もう中ほどまで上ってきている瞳子さんをにらみつけた。  ここで瞳子さんにもっともらしく場を収められるなんて、虫唾が走る。 「上がってこないでって言ってるじゃない!」 「でも、」 「でももクソもないよ。なんで上がってくるの? 聞こえなかった?」  遮ると、瞳子さんがサッ、と顔色をかえるのがわかった。 「晴ちゃん? 晴ちゃん、返事しなさい」 「返事なんかしなくていい!」  振り向いて、腹から叫ぶ。自分でもどこからこんな怒りと熱量が湧いて出ているのかわからなかった。 「晴彦も私も、瞳子さんと関係ないところで笑うし怒るし生きてるし生きていくんだよ!」  普段出したことのない大声で瞳子さんに怒鳴りつける。瞳子さんはまた、わかりやすく傷ついた表情を見せたけれど、黙って見下ろしていると徐々にまなじりを吊り上げ、こちらをねめつけてきた。上等だ。 「私が今言ったこと、わかる? わかったら上がってこないで。わかんないなら、なおさらこないで」  力と意思を込めて言い放つ。  数秒のにらみ合いのすえ、瞳子さんが、ぐっ、と顔を歪め、背を向けた。  リビングの扉を手荒に閉める音を聞いてから、晴彦の部屋に引き返す。しっかりと鍵をかける。  晴彦は下半身を布団で隠しながら私が投げ捨てたティッシュや雑誌を拾おうとしていて、その光景にまた頭に血が上る。 「私は、あんたの名誉を守るために彼氏とけんかまでしたのよ! なのにあんたはこんな、そこらの男の子みたいなことしてさあ! この裏切り者!」  理不尽なことを言っているのは自分でもわかっていたが、あふれ出してくる激しい怒りと失望をぶつけずにはいられなかった。智くんや絵美、クラスメイト、悟くん、瞳子さんを前に飲みこみ続けた言葉がいびつに変化し晴彦めがけて飛んでいく。  膝に力を入れて、土ふまずでベッドを押して揺らす。  晴彦がやめろ、と叫び、負けじと枕元の本や時計を投げつけてきた。 「なにが名誉だ。あんたが一番、おれのこと馬鹿にしてたくせに」  その言葉に思わず動きを止める。  私が怯んだのを見て、追い打ちをかけるように晴彦がわめいた。 「なにが下着を買いについて来いだ、ブラを見せてみろだ。男のくせにブラ着けるなんて、頭がおかしいって思ってたんだろ。ならはじめからそう言えよ! 善人面で理解者ぶりやがって!」 「ちがう、私は――」  弁解しかけて、言葉に詰まる。  その様子を見て、晴彦は引きつった笑みを浮かべながらたたみかけてきた。 「ああそうだ、あんた、自分の母親まで引き合いに出して、おれを懐柔したかったんだもんな。ワタシタチ、お互い親にちょっと問題ありだね、って。晴彦がいて良かった? そう言えばおれが心を開くとでも思ったんだろ。馬鹿にしやがって!」  語気を荒くして、晴彦がこぶしを布団に振り下ろした。顔を真っ赤にして肩で息をしている。  雨が風に乗って激しく窓を叩く音が響いた。遠くで雷が鳴っている。  ベッドにかけた足を、ゆっくり下ろした。  この子は、人の痛いところを突く天才かもしれない。腹立たしいほど、的確に。  晴彦の言う通りだった。  私は、手の内を明かす道具としてお母さんを使った。  若い男といっしょになるため家族を捨て出て行ったという母親。たいした記憶も思い入れもない、話の中の知らない女。  母親の金切り声を聞きながら、じっとりと汗ばんだ手を握っていた晴彦とは比べものにならない軽傷ですり寄ろうとした。私たちはかわいそうなこどもだよね、と肩を組もうとした。  リビングに響く、二人の笑い声。  私にはわからない話。  甘く絡み合う視線。  真夜中、階下からなにか聞こえることをおそれながらも耳をすませてしまう瞬間。  悟くんは、もう私だけの家族じゃない。  独りにならないためには、それしかなかった。 「その通りだよ」  静かに肯定する。晴彦がこちらを見た。 「男の子なのにブラ着けるのが好きだとか、私の知ってる〝ふつう〟じゃないよ。理解できるかって訊かれたら、そりゃ理解できないよ。変だよ」  はっきりと言葉にしたことで、晴彦はあからさまに傷ついた表情を浮かべた。  それを見て、もっと傷つけて泣かしてやりたいような、凶暴な感情が芽生える。 「でも、そういうのに理解あるように振る舞うのが良い人の必須条件なんだよ。タヨウセイってやつを大事にできない奴は良い人失格なの。だから、私はあんたを受け入れるふりをしたんだ」  道徳や社会、保健の授業で散々習ってきた。新聞やテレビでもそう言っている。「わかってあげる」ことがやさしさで、立派な人間の証だ。  私は、その証が欲しかった。良いこどもで、良い友だちで、良い彼女で、良いお姉ちゃんになりたかった。良い人の「ふり」をしたかった。  でも、ほんとうは心のどこかで、ふつうじゃないって思っている自分がいる。心と体の性が逆とか、同性が好きとか、異性の服を着たいとか、「変なの」って思ってしまう。寛容さを人に強いるのだって、不寛容じゃないの? なんて思ってしまう自分がいる。  そして、そんな風に感じてしまう自分が汚くて嫌いで、たまらなく許せなかった。  だって、自覚している人は弱い。  自分がふつうの輪から外れてしまっていることを自覚してしまった、自覚させられた人は、繰り返し傷つくであろう予感とたたかい続けていかなくてはならない。  そんな人たちを傷つけるような真似はしたくなかった。 「ああそう。そりゃ残念だったな、頭オカシイ奴が弟になっちまって」  引きつった声に、我に返る。  ひどく自虐的な物言いで、痛ましい。そうさせているのは、他ならぬ私だ。 「もう、出てけよ」  晴彦はとうとううつむいてしまった。これ以上追い打ちをかけたら、この子はきっと泣く。  愛しくて、憎らしい。対等に仲良くしたいけれど従わせたい気もする。  いじめて、泣かせて、でも、きっと、最後には抱きしめて守ってやりたくなる。    この奇妙な生き物はいったい。  ふしぎな感情に揺られながら考えて、ああ、と思い至った。 「そうか、あんたは、私の弟なんだ」  晴彦がゆっくりと面を上げた。  赤くなった切れ長の目。つん、と尖ったちいさな鼻。いつ見ても口角の下がっている機嫌の悪そうな口元。  たまに見せてくれる幼い笑顔は可愛くて。笑ってくれたらうれしくて。もっと笑えばいいのに、と何度も思った。もっと笑わせてあげたいなと思った。  態度も言葉もつめたいし、いろいろ誤解されるかもしれないけれど、晴彦はほんとうはかなり面倒見がいいし、ちょっと口やかましいところもあるけれど、言うだけあって、身の回りのものを大事にしてきちんと生きている。誰にも流されないで、好きなものを好きと言って、生きている。  やさしくてかっこよくて、強くて、でも、実は人一倍繊細で。  そういうところを、たかだかブラを着けるとかどうとかで智くんに無視されたのが許せなかった。私の弟を知りもしないで、とくやしくて、腹を立てたのだ。  確信が身体を駆け抜ける。 「可愛くないし偉そうだし私より細いのもむかつくしブラ着けるとか意味わかんないけど、あんたは、私の弟は、自分を傷つけた奴の靴にまで新聞紙を詰めてあげられるような、やさしい子なんだよ」  見も知らぬ、いつかの誰かへ向かって叫ぶ。  私の弟を、いとわないで。  確かに、あなたにとっては変かもしれない。  ふつうじゃないかもしれない。  でも。  でも、それは。 「理解も共感も、半端には、できないよ。あんただって、きっとある。私のこと、変だって思う気持ち。でも、それがすべてじゃない。私たちの、すべてじゃないでしょう」  確かめるように、言葉を紡いでいく。  一つ一つ、ゆっくりと。  溜まっていた思いを出し切った後、奥底に一つ、残っていたものを見つけた。  見せるのが恥ずかしいほど無邪気で、きらきらと輝いている気持ち。  いろんなものに埋もれて見えなかったけれど、すべては、ここから、この願いから始まったのだと気づく。  取り出して、そっと手渡す。 「私は、たぶん、ずっと、あんたと仲良くしたかったんだ」  あの夏の夕暮れ、初めて出会った瞬間から、きっとそうだった。  瞳子さんから少し距離を取って立っていた男の子。気にくわない、と顔に書いてあるのに、背筋だけは妙にぴん、と伸ばしていて、そのアンバランスさがおかしかった。こちらに気づくとその顔のまま会釈してきたので、急いで頭を下げた。  顔を上げ、夕日に目を眇めながら、この子が私の弟になるかもしれないんだ、と考えると、不安が胸をかすめた。  今さらきょうだいなんて、うまくやっていけるのだろうか。  自分がお姉ちゃんになるなんて、今まで想像もしたことがなかった。向こうは見るからに乗り気じゃないし、なんだか生意気そうだ。すぐに仲良くなれるとは思えないし、友だちや彼氏ともしたことのないけんかだって、してしまうかもしれない。  店に移動しようか、と悟くんが声をかけ、動き始める。敷き詰められたれんがの隙間に靴の先が引っかかって、たたらを踏む。  晴彦が、晴彦だけがそれに気づいて、振り返った。なにも言わなかったけれど、目が「大丈夫か」と訊いていた。  私は確かにそのとき、この子と仲良くなれたらいい、と思ったのだ。  激しい雨音だけが部屋に響く。  私たちはもうなにも言葉を持っていなかった。  お互い、無言でじっと見つめ合う。  なにもかも、すべて、私の黒板に書き殴った。  汚いこともいっぱい書いた。  手をチョークの粉まみれにして、悟くんや、智くん、絵美、毬江ちゃん、瞳子さん、色んな人に見せてきた善きなる答えを塗りつぶした。    こんなもの、誰にも見せたくなかった。  でも、これが私のほんとうだ。  晴彦は、黙って、ずっとそれを見つめている。  真正面から、むき出しの私を見つめている。  時間が静かに流れていく。  しばらく経って、晴彦はちいさな声で、妹って言ったくせに、とつぶやいた。  「ごめん。もう、絶対に言わない」  短く謝ると、晴彦が、わかった、と応えた。  身体を吊っていた透明な糸をぷつん、と切られたみたいだった。  全身から力が抜けるのがわかる。  その場に座りこんで、ベッドに顔を埋めて目を閉じた。  なんてシンプルなことだったんだろう。  私はたぶん、期待しすぎていた。自分にも、他人にも。  傷つけないから、傷つけないで、と祈っていた。  どっと疲れて、このまま眠ってしまおうかと思ったけれど、早く出て行けと苦々しく言われ、自分がどういう状況に乗りこんだのかを思い出す。あまりの暴挙に笑いそうになった。  晴彦にも、期待しすぎていたのだ。  性別に振り回されないからといって、性がないわけではない。 「ねえ、瞳子さんがおっかないのはわかるけどさ、やっぱりこういうときぐらい鍵かけときなよ。大人になれないよ」  そう言うと、布団の中から思いきり頭を蹴られた。  痛いし、むかつくけど、胸を覆う愛しさは消えない。そのふちをゆっくりなぞって確認する。  うん、これが、私の弟なのだ。
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