きみのゆくえに愛を手を

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 家族が増えた、ということを話したのは(とも)くんにだけだ。絵美にも毬江ちゃんにも言っていない。  言いたくない、というより、わざわざ言うようなことでもないと思ったからだ。  そもそも、二人には片親であること自体告げていない。  私は、晴彦のように転校するわけでもなければ、名字が変わるわけでもない。言われたほうも、それがどうした、と反応に困ってしまうだろう。もっとも、智くんは絵美のお兄ちゃんでもあるから、いつかは絵美にも話がいってしまうだろうけど。  智くんは、私に関するどんな些細なことも知りたがる。  だから、とっておきの秘密を打ち明けるみたいに、誰にも言ってないんだけどね、と前置きして、お母さんと中二の弟ができたことを無難に簡潔に述べていった。  智くんはひととおり聞き終えた後、訳知り顔で、よかったじゃん、と言って、私の頭を撫でてきた。 「よかったのかな」  今のところ、素直にそうは思えない。  私と瞳子さん、悟くんも上手くやっているようで、実のところ、暗黙の了解のもと家族っぽい芝居を打っているにすぎない。晴彦なんて、その舞台に上がってすらいない。 「家族が増えるのはいいことだろ。それに、ちぐさの負担が減る。今まで家のことは全部、ちぐさがしてきたわけだし」  うんうん、とうなずく智くんに、曖昧に笑って返した。  私が片親、父子家庭だと知った智くんは、どうやら家事の全てを私が担っていると思っているようだ。たぶん、智くんの家では、家事はお父さんがするものではないのだろう。  でも、うちでは、家事は昔から悟くんがすべてやってくれていて、恥ずかしながら、洗濯機の正しい使い方や、野菜の相場なんて私にはさっぱりわからない。     包丁なんて調理実習でしか使ったことがないし、作り置きがない日や、悟くんの帰宅が遅い日は、コンビニのおにぎりやお弁当で済ましているのが実情だ。  けれど、智くんは、毎日のお弁当も私が作っていると信じて疑っていない。  悟くんお手製の肉じゃがを食べて、ちぐさは料理上手だ、なんて嬉しそうにしていたときはちょっと笑いそうになった。 「でも、ちょっと心配だな」  智くんがふと顔を曇らせた。 「心配? なにが?」 「弟だよ。中二の弟ができたって言ってたじゃないか。そいつ、絶対ちぐさのこと好きになるよ」  深刻な面持ちに、思わず吹き出してしまった。よりによって、その心配とは。 「ないない。絶対ないよ」 「でも、絵美が持ってる漫画に出てくる義理のきょうだいって奴ら、百パーセントの確率でくっつくぞ。それで、俺みたいなのは、相手がきょうだいだからって油断して、最後に泣きを見るんだ」 「それは漫画の話だよ」  でもなあ、と智くんは食い下がった。 「俺が中二のときにちぐさみたいな姉貴ができたら、絶対好きになるよ。可愛いしやさしいし、そんな女の子とずっと一緒に過ごしてたら夜もまともに眠れない自信があるね」  堂々と言い切られて、なにそれ、とこちらのほうが照れてしまった。  思ったことがすぐに顔に出て言葉になるのは健全な証拠だ。  可愛さもやさしさも、私が智くんのためにこしらえたもので、それをふるいにかけず、そのままそっくり受け取れるのは、健やかに育ってきた証だ。智くんのそういった所が、私はとても好きだ。  中三の夏、初めて絵美の家に遊びに行ったときも、そうだった。  当時高校一年生の智くんは、なんやかんやと理由をつけては部屋にやってきて私の目にとまろうとしていた。  顔には「好きになりました」と書いてあって、ほほ笑みかけると真っ赤になるし、目を逸らすとしょげかえっていて、そのわかりやすさに愛しさを感じた。 「とにかく、そういうのじゃないんだって。全然懐いてくれないし、家の中でもずっと不機嫌そうに眉間にしわ寄せちゃってさ。顔立ちは悪くないのに損してるよ、あの子」 「ふうん。そいつ、かっこいいの?」 「そこそこ。でも、智くんには負けるよ」  笑って見上げると、智くんの熱っぽい瞳とぶつかって、あ、と思う。スイッチを入れてしまった。  右手が骨張った手にすっぽりと包まれる。 「ちぐさ、テスト勉強はどう。はかどってる?」  声に少し、緊張が混じっている。それに気づかないふりをして、うーん、と智くんの右耳あたりに焦点をずらす。 「そこそこかな。智くんは?」 「誰に聞いてんの?」  智くんがにやりと笑う。「嫌な奴だなあ」と返すと、「でも、嫌いじゃないだろ」といたずらっぽく言った。  智くんは賢い。テストの順位も一桁を切ったことがない。それに、サッカー部のエースで生徒会副会長で、顔もかっこよくて素直で明るくて友だちも多い。文句のつけどころがない人だ。 「俺は余裕があるからさ、もしわからない所があれば、今から家においで。教えてあげるから」  なんでもないようにさらりと言ったけれど、手は汗ばんでいるし、力が入りすぎている。親切心の下から漏れ出すもろもろを、隠しきれていない。ほんとうに、考えていることが丸わかりだ。  私だって、智くんと触りあうのは嫌いじゃない。  智くんは普段、部活に生徒会にと大忙しだし、こうやって一緒に帰れるのも、テスト前で部活が休みのときだけだ。付き合って一年ちょっと経つし、智くんの大きな手に顔を包みこまれるのも、あたたかい唇を押しつけられるのも、かがみこまれて抱きしめられるのも、好きだ。その先も、よくわからないけれど、智くんとならまあいいんじゃないか、と思う。  問題は、下着なのだ。  私の下着は、ちっとも女らしくない。  ブラジャーは昔、悟くんが買ってきてくれた布地のスポーツブラのままだし、パンツも木綿製で、くたびれている。中学の途中で発育が止まって、特に不満もなかったから、それ以降買い換えることもなく高校に上がって、おどろいた。  大半の子は、こんなこどもっぽい下着なんて着けていなかった。  量販店のワゴンから選ぶのではなく、みんな、ちゃんと下着の専門店に行って、好みの下着を選んでいたのだ。  それから、レースや花柄の刺繍があしらわれた可愛らしい下着に密かに憧れたものの、悟くんにお小遣いをねだって買いに行くほどの気概はなかった。せいぜい体育で着替えるときにちょっと恥ずかしいくらいだ。  ところが最近、そうも言っていられなくなってきた。智くんだ。  この頃、智くんとそういう雰囲気になることが多い。  なる、というより智くんがその流れを作ろうとしていると言ったほうが正しいかもしれない。  二人きりになったらすぐに触りたがるし、キスのときも、前よりしつこく唇を合わせてくる。隙あらば身体のすみずみまで触りつくしてやろう、という気配が以前よりも格段に濃くなってきたのだ。  でも、こんな下着では、絶対駄目だ。失望される。すぐに顔に出る智くんの、がっかりした様子が目に浮かぶようだ。そして、智くんはやさしいから、それを悟らせないよう振る舞うにちがいない。そんなことをされたら、恥ずかしさで死んでしまう。  ならば、クラスメイトみたいに下着の専門店で買えばいい話なのだが、勝手もよくわからないし、なにより、家事の全ては悟くんが担ってきた。  自分で洗濯すればいいだけの話なのだが、父親が買ってきた下着を捨てて、自分で買った可愛らしい下着を洗濯し始めるなんて、いかにもというような気がしてこれまた気恥ずかしい。  解決方法は一つしかない。私が独り立ちするまで、男の人の前で下着になることを避ければいいのだ。 「大丈夫、今回の範囲、けっこう得意なところなんだ。それに、今日、お母さん出かけてるから、私が晩ご飯作らなくっちゃ」 「そっか。なら仕方ないな。また今度」  残念そうにつぶやく智くんの様子に、ほっとする。  私は案外、平気でうそをつける。だから智くんとうまくやっていけるのだ。  家に帰ると、瞳子さんはほんとうに出かけていた。  白い運動靴があるので、晴彦は帰ってきているようだ。  小声でただいま、とつぶやいて、ローファーを脱ぐ。この間まではそのまま脱ぎ散らかしていたのだけれど、晴彦がやけにきちんと靴を揃えるものだから、なんとなくそれに合わせて揃えるようになった。  晴彦の靴は意外と大きい。今は私より背が低いけど、もしかしたらこの先抜かれるのかもしれない、なんて思いながら階段を上っていく。       そのまま、正面にある部屋の引き戸に手をかけた瞬間、あ、ちがう、と気がついた。  ここは、もともとは私の部屋だったが、夏休みの終わりからは晴彦に明け渡したのだ。いつもは注意していたのに、今日は考え事をしていたものだから意識が向かなかった。  ちがう、と気づいても、戸をすべらせる手は止まらない。ごめん間違えた、と謝ろうとして、目の前の光景に固まってしまった。  晴彦が、ブラジャーを着けていたのだ。  正座の状態から腰を少し浮かせて前かがみになり、手を後ろに回して、ホックを留めている最中だった。  薄っぺらく真白い、ほくろがまばらに散っている上半身に、黒いブラジャーが吸い付くようにぴったりとはりついていて、身体の一部のようにさえ思えてくる。  何度まばたきしてみても、目に飛びこんでくる光景に変わりはなかった。 「閉めろよ。寒い」  声をかけられて、はっとする。口が開いていたことに気づく。よだれが垂れかけていた。  閉めろ、と言われてそのまま閉めればよかったのに、私は何故かあわてて部屋の中に入って、後ろ手で戸を引いてしまった。その行動は晴彦も予想外だったらしく、「は?」と眉根を寄せた。 「えっと」  なにか言わなくては、と焦る。  これはあれだ、保健とか、道徳の授業で習ったやつだ。LGBTってやつ。  小説や漫画にはよく出てきていたけれど、本物を見るのは初めてだ。生まれもった身体と心の性が逆ってやつ。同性を好きになっちゃったりとか、そういうやつ。それにちがいない。そうじゃなければ、ブラジャーなんてつけないはずだ。 「晴彦くんはさ」 「くん付け要らない。気持ち悪い」  ぴしゃりと言葉を遮られ、うっと詰まる。眉間にしわを寄せる晴彦を見て、やっぱりそうだ、と思う。心が女の子だから、くん付けされることを嫌がるのだ。  慎重にいかなければ。 「……晴彦は、心が女の子なの?」  いとわしげな声音にならないように気をつけて訊ねたつもりだったが、晴彦の眉間のしわはいっそう深くなった。 「はあ? なんでそうなるわけ?」  意味がわからないとでも言いたげに、腰に手を置いて、首をかしげる。その仕草がなんだか妙に色っぽくて、目のやり場に困ってしまう。 「その、それ、ブラジャー。着けてるじゃない。あの、あれ、LGBTってやつなんでしょう。身体がたまたま男の子のつくりになっちゃったけど、心の性は女の子で、みたいな」  目を泳がせながら説明したら、なにそれ、と吐き捨てられてしまった。 「おれ、男だよ。別にそのLGなんとかってやつじゃない」 「うそ」 「なに? そうじゃなかったらブラ着けてちゃ駄目なわけ」 「駄目じゃないけど」  いや、駄目なんじゃないか。反射で答えてしまったけれど、だって、ブラジャーって女性用の下着だ。  はっ、と閃く。前にニュースで見たことがある。女性用の下着をかぶって興奮するアブナイおじさんが捕まったって。もしかしたら晴彦は、ゆくゆくはそういうおじさんになる素質を持った人間なのかもしれない。  ごくり、とつばを飲みこみおそるおそる尋ねた。 「もしかして、そういう性癖の」  言い終わる前にクッションが飛んできて、太ももに当たった。 「ちげーよ! ファッション! ふつうにおしゃれでやってるんだよ!」 「うそ!」  思わず叫んでしまう。 「いったいブラのどこがおしゃれだって言うのよ」 「どこって……。デザインとか、形とか、おしゃれじゃん……刺繍も、すげぇし…」  訊ねると、晴彦は意表を突かれたようで、途端に弱った声を出し、困り切った表情を浮かべた。一足す一がどうして二になるのかを説明させられているみたいだ。  その表情に、私のほうが焦ってしまう。あわてて、うんうん、とうなずいた。 「そうだよね、確かにおしゃれだよね。レースとか綺麗だし、つけてたら華やかな気持ちになるよね」  そんなブラジャー着けたこともないくせに、早口で肯定する。  否定だけは絶対にしちゃだめだって、先生も言っていた。わかってあげないといけない。変だな、なんて思っちゃいけないのだ。  ブラジャーがおしゃれ。まあ、確かに可愛い。晴彦が今着けている黒いブラジャーも、カップの部分には複雑な花柄の模様が刺繍されていて、その周りはクリーム色の上品なレースでふち取られている。ずっと見ていられそうな可愛さだ。  しばらく観察しているうちに、私はあることに気がついた。 「それ、もしかして、自分で買いに行ったの?」  瞳子さんのブラジャーをこっそり拝借しているのだと思っていたが、それにしてはサイズが小さすぎるのだ。洗面所で見たあの真っ赤なブラジャーのカップは、こぶし一つはゆうに収まるくらいあった。  晴彦が今着けているブラジャーは、伸ばした手のひらをぴったりと胸に当てたみたいで、晴彦の骨や肉のラインに綺麗に沿っている。 「そうだけど」  晴彦は平然と答えた。  すごい勇気だ、と感心する。  女の私でさえ、あのきらびやかな店構えに尻ごみして専門店に乗りこめないのに、中二の男の子が自分の好みのブラジャーを選んで購入するのだ。  それに、あの、ホックを留める慣れた手つき。  私は後ろ手にホックを留めるのが苦手で、いつも胸の下で留めてから、くるりと回して後ろに持っていくことしかできない。ブラジャーに関して言えば、晴彦のほうが私よりよっぽど先輩だ。  先達はあらまほしきことなり。  突然、その一文がぱっ、と脳内で再生された。  今回の中間テストの、古文の単元だ。兼好法師の、徒然草。確か、一人で行動したお坊さんが失敗する話。  どんなことでもその道の先輩がいてほしいよね、という結びに、絶対テストに出るよここ、とみんなでマーカーを引いた箇所だ。  先達はあらまほしきことなり。  いるじゃないか、先達。ここに。 「ねえ、中間テストっていつ終わる?」 「……今週の金曜には終わるけど」  突然の話題転換についていけないのか、晴彦は怪訝そうな表情を浮かべている。  頭の中で、私の学校のテストスケジュールを思い出す。今日が月曜日で一週間前だから、来週の水曜日には終わる。ちょうどいい。 「来週の土日、どっちか空いてない? あ、それとも、部活とかある?」  よくよく考えたら、私は晴彦が転校先でどんな部活に入ったのかも知らない。 「いや、ない。おれ、文化部だから、土日とか活動しないし」 「へえ、文化部なんだ。何部に入ったの?」 「生物部」 「生物部……生物部ってなにしてるの?」 「そりゃ生き物の世話したりとかだよ。っていうかなに? 土日がなんなの」  話が逸れてしまった。せき払いをして、仕切り直す。 「来週の休みにさ、私と一緒に買い物してくれない?」 「買い物?」 「うん。下着を買いに行きたいの」  晴彦が、ぽかん、と口を開けた。  眉間のしわが消えて、年相応の幼い顔つきになる。そのほうけた顔を眺めて、言葉が足りなかったことに気がついた。口早に説明を加える。 「私、可愛い下着が欲しいの。でも、今まで買いに行く機会がなかったの。だから、下着に詳しい晴彦についてきてもらえたら心強いな、って」 「一人で行けよ、そんなの」  すげなく断られた。  もっともだ。一人で行けるのなら、私だって一人で行く。 「勝手がわからないのよ」 「勝手もなにも、行って選んで試着して買うだけだぞ」 「それができないからこうやって頼んでるんだって」  気づけば、じりじりと後退していく晴彦をベッド際まで追いつめていた。 「晴彦、お願い。私、恥ずかしい話だけど今までスポブラに綿パンとか着けてたわけよ。量販店のワゴンとかで売ってる、色気もへったくれもない下着をさ。高校生女子がそれじゃあちょっとまずいの、わかるでしょ。あんたも、ブラをファッションだって言うなら、自分の姉貴がそんなださい下着つけてるの、嫌でしょ」  恥を忍んで実情をまくし立てる。  今まで、我が家で女性用の下着を身につけるのは私しかいなかったし、洗濯も悟くんに任せていたから、買い換えればすぐに悟くんにばれてしまった。  けれど、今は瞳子さんの下着も洗濯物に混じるようになったし、洗濯も彼女がしてくれている。  そしてなにより、晴彦という先導者に出会えたのだ。買うなら今だ。  私のなりふり構わない懇願に気圧されたのか、晴彦はついに、まあいいけど、とうなずいた。 「土曜はおれ、出かけるから。日曜にして」 「わかった」  休みの日に出かけるような友だちいたんだね、という余計な一言はすんでのところで飲みこんで、お礼を言った。
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