きみのゆくえに愛を手を

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 今までの人生で二度、私は自分という人間の「底」を見透かされたことがある。  一度目は、従姉妹の英恵(はなえ)ちゃんと遊んでいる最中だった。  隣の県に住んでいる二つ上の英恵ちゃんは、毎年夏休みの三日間だけうちに遊びに来てくれていた。  朝から夜までずっと自分と遊んでくれる相手がいることや、夜、いっしょの布団にもぐって、いろんなことを話せるのがうれしくて、悟くんにも「ひっつき虫」とからかわれるほどなついていた。  やってくる日は必ず近くの駅まで迎えにいって、電車が来るたび、ホームから階段を上ってこないか背のびして確認していた。見送りのときは別れがたくて、低学年の頃は、わんわんと泣いて英恵ちゃんを困らせていた。  夏の三日間はほんとうに楽しかった。  鏡の前にお互いを座らせて、薄く汗をかいた手で髪を編み合ったり、海で拾い集めた貝殻でネックレスを作ったり、船形の遊具のほの暗い船底で秘密をうちあけあったり。  英恵ちゃんは年上ぶったりせず、いつでも私と同じ目線で気持ちで遊んでくれた。どんな遊びでも、こどもっぽいと笑うことはしなかったし、いたずらをしたら、いっしょに悟くんに叱られてくれた。  それでいて、同い年の友だちとはちがう大人っぽさや頼りがいもあって、切り分けたすいかは大きくて種の少ないほうを譲ってくれたし、転んでひざに擦り傷を負えば、おぶって連れ帰ってくれた。英恵ちゃんは、友だちで、お姉ちゃんだった。  あれはたぶん、私が小学二年生のときだ。  その日はひどい雨で、ずっと家のリビングでトランプをしていた。  ばば抜き、スピード、神経衰弱、とひととおりやったあと、最後に、私がいつも勝っている七ならべで負けてしまった。  くやしくて、どうしてももう一度勝負したくて英恵ちゃんにお願いしたけれど、英恵ちゃんは少し休憩、と寝ころび、応じてくれなかった。  英恵ちゃんをその気にさせるため、私は、うちに来るたび欲しがっていたペンギンのぬいぐるみを勝負の景品として差し出した。英恵ちゃんは、それなら、と勝負に乗ってくれた。  私は負けた。負けて、ぬいぐるみを探してくるから、とリビングから自分の部屋に戻った。そして、ぬいぐるみを隠した。  衣装だんすの奥の奥に、服を何枚もかぶせて、絶対に見つからないように隠した。ペンギンのぬいぐるみは、普段お土産なんて買わない悟くんがめずらしく水族館で買ってくれた、お気に入りのものだった。  英恵ちゃんには、探したけれど見つからなかったとうそをついた。  ほんとうにごめんなさい、と心から申し訳なさそうに謝った。そうすれば、「仕方がないね」と言ってもらえると思っていた。  英恵ちゃんは、ふうん、とつぶやいただけだった。  私はそのたった一言で、すべてを見透かされたことを悟った。  鎖骨から生え際のあたりまで一瞬で熱くなるのを感じる。  うそ、ごめんなさい、ほんとはあげたくなくて、隠したの。もとからあげる気なんてなかったの。負けても、こうやって謝ればゆるしてもらえると思ったの。  叫び出したい気持ちをこらえて、英恵ちゃんの様子をうかがう。英恵ちゃんはただじっと、私のうそを見つめてくるだけだった。  「ほんとに?」でも、「もう一回探して」でもいい。なにか一言でも言ってくれれば、私はわっと泣き出して、ほんとうのことを言えたにちがいない。自分の卑怯なやりくちを懺悔できたにちがいない。  でも、英恵ちゃんはそれ以上なにも言わなかった。  私という人間の、幼さに甘えた卑劣さを見抜いて、ただじっと、見つめてくるだけだった。  英恵ちゃんは、その後もかわらず遊んでくれて、中学校に上がって部活で忙しくなるまではこちらに遊びに来てくれていた。英恵ちゃんがあの目で私を見つめることはなかったし、その話題に触れることもなかった。二度と、ペンギンのぬいぐるみを欲しがることもしなかった。  およそ十年ぶりにあの目で私を再び見つめたのは、晴彦だった。  あの後、重い足取りで家に帰った私は、晴彦の態度に拍子抜けした。  いつも通り愛想はなかったが、それでも必要があれば言葉は交わした。怒りや悲しみなんて、どこを探しても見つけられなかった。   ただ、私が昼間のことについて、少しでも触れようとしたその瞬間、晴彦は明らかにたたずまいをかえて、私を見つめた。 「なに?」  今さら、と聞こえた気がしたし、実際、晴彦はそう言っていたのだと思う。昼間のことはもう晴彦の中で結論が出たことなのだ。  晴彦にとって私は「そういう」人間で、それは私が今からなにを言ったところでかわるものではない、と目が告げていた。  その日の夜は、まともに眠れなかった。  晴彦のこともだったが、学校に行くのも気が重かった。  晴彦に去られた私に、二人は買い物をしないかと誘ってくれたが、とてもそういう気分にはなれなかった。断って、その姿を見送りながら通路横の長椅子に倒れこむように腰を下ろす。  「やばくない?」という笑い声が風に乗って聞こえた気がした。それが絵美たちのものだったかはわからない。  朝、夜通し考えたたくさんの言葉を準備して、学校に向かった。  私のことは、いい。ただ、晴彦がもし悪く言われるようだったら、私はその言葉でもって戦うつもりだった。  教室に入ると、席に着いている絵美の周りにクラスの女子が何人か集まっていた。思わず身をこわばらせる。  誰かが、中川さん来たよ、と言って、一斉にこちらを向いた。 「ちぐさ、一限の予習やってる? グラマー、今日から新しいところ入るじゃん? 日付的に当たりそうなんだけど、忘れちゃって」 「……ちょっとなら、やってるよ。写す?」 「やった!」 「よかったね、絵美」 「ほら、中川さん待ってて正解じゃん。うちらじゃ役に立てないって」  がんばれー、と、女子たちが散開していく。  席に着いて、ノートを取り出し絵美のところへ持って行く。絵美は、ありがとう、と笑ってノートを受け取り、自分のノートの左手に置きシャープペンシルをはしらせ始めた。 「絵美、朝練は?」 「今日は無し。そこ座りなよ。島田、まだ来ないし」 「いいよ、立ってる」 「そう? ま、やめといたほうがいいかもね。あいつ朝練の後いつも汗臭いし」 「……そんなことないよ」 「そんなことあるでしょ。ま、でもほんとに助かった。マリはいつも遅刻ぎりぎりであてにできないし。というか筆記体で書くから読めないんだけど」  写す手の遅さにそぐわない早口で絵美が喋り、はは、と笑う。  うん、と短く返事をしたきり、沈黙が落ちる。  そういえばさあ、と写す手はそのままに絵美が切り出した。 「あの後大丈夫だった? 弟くんとちゃんと仲直りできた?」 「……ううん」 「そっか。あたしもトモとしょっちゅうけんかするけど、なんていうか、大丈夫だよ。そういうのって気づいたら仲直りしてるもんだし」  薄く笑いながら言う絵美に、そうかな、とぼんやり返事をする。  絵美たちのきょうだいげんかは、ほんもののきょうだいたちのけんかだ。くだらないことで争って、言葉もなく元に戻れるのは、ずっといっしょに暮らしてきた人間同士だからできる芸当だ。  私たちはついこの間まで他人で、友だちですらなかった。  大人の都合で心の準備もないまま家族という枠できょうだいとして括られただけ。お互いが異物で、今までの生活をゆがめる侵入者だ。  でも、そんなこと、絵美に言っても仕方がない。私がほんもののきょうだいを知らないように、絵美もまた、できあいのきょうだいなんて知らない。  私たちはそれ以上なにも喋らなかった。絵美はいつもよりことさらゆっくりと、丁寧に答えを書き写し続け、私はそれを見続けた。  ひゅっ、とつめたい風が頬を打つ。  窓に目をやると、うぐいす色のカーテンが激しくたなびいていて、窓際の席の子や手すりにもたれていた子たちが急いで手を伸ばし束ねた。視界が開け、高い青空とうろこ雲が見える。  誰も近くにいなかった後方部のカーテンだけ、風を受けたなびき続けていた。    智くんに呼び出されたのは、その三日後の昼休みだった。  待ち合わせ場所に指定された旧校舎への渡り廊下の真ん中に、智くんはいた。  コンクリートの柱にもたれて、携帯を見ている。辺りには誰もおらず、雲を追い立て、ごうごうと木々を薙ぐ風の音しか聞こえない。美術や書道など、選択芸術の授業がないかぎり誰も旧校舎へは赴かない。話をするにはうってつけの場所だった。 「智くん」  声をかけると、ああ、とこちらに目だけやって、携帯をポケットに入れた。  湿った風に髪をさらわれ、首を振る。柱と柱の間からは、たっぷりと水をふくませた絵筆で塗ったような、灰青の滲んだ空が見える。今にもしずくが垂れ落ちてきそうだ。  近づくと、智くんは柱から身体を起こして、絵美から聞いたんだけど、と切り出した。  早口で、抑揚のない喋り方。なにをどういうふうに聞いたか手に取るようにわかる。 「弟と下着を買いに行ってたって?」 「うん」  真正面から向かい合って、はっきりと返事をする。  自分の声の力強さに、私はここに来るまでの間に一つ、なにか覚悟のようなものを決めていたのだと気づいた。  智くんは、はあ、とわざとらしくため息をついた。  俺は怒っているんだよ、という明快な意思表示だ。 「なんで弟とか連れていくわけ? そういう所に」 「駄目かな?」  つい挑発的な物言いをしてしまう。智くんが苛立っているのはわかっているけれど、いつもみたい機嫌をうかがう気になれなかった。 「なんだよその言い方。ちぐさ、男のことなにもわかってないから、注意してやってるんだよ。そういう所についてくるなんて、下心があるに決まってる。そいつ、ほんとうのきょうだいってわけじゃないんだろ」 「ついてきたんじゃないよ。ついてきてもらったんだよ」 「ついてきてもらった? ちぐさが頼んだってことか」  信じられない、と目を見開く。 「なんで弟にそんなこと頼むんだよ!」  強い語気で問い詰められて、思わず下を向いた。焦げ茶色のローファーが目に入る。  本音を言えば、智くんとけんかしたくなかった。これはたぶん、やきもちだ。  今まで何度か言い争いになりかけたことがあるけれど、どれも智くんのやきもちが原因だった。他の男の子と仲良くする姿に腹を立てる智くんをなだめて、事を収めてきた。今回も、ごめんねこれからは気をつけるよって、こちらが折れればすむ話だ。  でも、晴彦には下心なんてもの、ひとかけらもないってことをどうしてもわかってもらいたかった。  だから、晴彦はファッションとしての下着を愛しているのだ、と説明した。  純粋にデザイン性の高さに惹かれているだけで、やましい理由ではないからこそ、一緒に買いに行ってもらったのだと。  言葉を尽くして説明すれば、わかってもらえると思ったけれど、智くんの表情はより一層険しくなっただけだった。 「ちぐさ、それ、本気で信じてるわけ?」 「本気で、って、ほんとうなんだよ。晴彦はほんとうにファッションとしての下着を愛してるんだよ」 「それを鵜呑みにするのが危ないんだって。そんな男いるわけないだろ」  駄目だ。決めてかかっていて、全く信じてくれない。智くんの話や考えに異を唱えず笑って流してきたツケが今、まわってきている。  今まで引っかかることがあっても、あなたの「絶対」や「当たり前」がすべてではないのだと、私は一度も言わなかった。私が飲みこめばすむのだと考えていた。  それでも、今回ばかりは、折れるわけにもあきらめるわけにはいかない。 「晴彦ってね、ものすごくおしゃれなんだよ。あの子にとっては、下着だって、服の一部なの。智くん、この間、時計買ってたでしょう。ベルトの部分がかっこいいって。それと同じなの。私がかわいいな、と思った服を買って着るのと同じなの。だから、そういう、やましいことは一つもないの」 「そいつ、まさか自分でも着けてるのか」 「そう、そうなの! 晴彦はほんものなんだよ。だから、智くんが心配するようなことはなにもないの」  実際に着けているってことを知ってもらえれば、信じてもらえるかもしれない。  そう思ったのに、智くんはなにか考えこみ、ひどく気遣わしげな表情を浮かべた。 「ちぐさ、おまえ、自分のその、下着が減ってないかちゃんと数えてる?」  落ち着いて話そうと思っていた矢先だった。  かっ、と頭に血が上るのがわかる。 「減ってるわけない! 私の下着なんて晴彦は興味ないの! あの子は、そういう低レベルな子じゃないの!」 「低レベルってなんだよ。俺はちぐさが心配で言ってるんだよ。もし再婚相手のこどもだから言いにくいっていうなら、俺が一回きっちり言ってやるから。今度会わせろよ。な?」 「やめてよ智くん。そういうのじゃないの。ほんとうにちがうんだって。晴彦は、ちがうの」 「ちがうってなにがだよ!」 「晴彦は智くんとはちがうの! あんたとちがって、そんなことばっかり考えてないんだよ!」  あっ、と口を押さえる。  何秒かかけてその言葉の意味を理解した智くんの顔がみるみるうちに赤くなる。咄嗟に目をつむって身構えた。  予想した痛みは訪れず、目を開くと、智くんの顔は青ざめていた。 「ちぐさって、そういう言葉遣いもするんだな」  智くんの声は震えていた。  初めて聞く声の震えに謝りかけて、やめる。  智くんは謝罪を望んでいないし、私も、それが形ばかりのものになってしまうことを知っていた。  傷ついた表情に息が止まるほど胸が苦しくなったのはほんとうだった。  私は、智くんのことが確かに好きで、好きだった人にこんな顔をさせて平気でいられるほど達観してもいなかった。  きっともう、二人で手をつないで帰ることも、笑い合うこともない。  目頭が熱くなるのを感じたけれど、自分が失うものにだけ思いを馳せて泣くなんてことをゆるしたくなくて、ぐっとこらえる。  黙っていると、もういい、と智くんが力なくつぶやいて、私の横を通り去っていった。  考えがなにもまとまらなくて、その場に立ち続けていると、授業の移動と思われる人たちが談笑しながらやってきた。  端に寄って、道を空ける。廊下で立ち止まっている私をふしぎそうに横目で見ながら、旧校舎へと消えていく。  その後、何人もの生徒が通りすぎて、私を見るのがわかったけれど、動けなかった。  しばらく経って、遠く響いた予鈴に、なんとか身体を起こして、教室に戻った。
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