第一章 あ

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第一章 あ

「おはよう! 何してるの?」 中学生の僕に最初に話しかけてきたのは君だった。僕はいつものように窓の外から校庭を眺めたまま何も答えずにいた。君はさらにいくつか他の質問をした後、 「本当に全然喋らないよね。じゃあ、『あ』って言ってみてよ」 と、言った。もうこれで何回目だろうか。僕は数年前まで、何故喋らないのかと聞かれることはあったが、こんなことを何度も言ってくるのは君だけだった。 「あ〜、やっぱり喋ってくれないんだね……」 僕達はこの無意味なやりとりを何度繰り返すのだろう。そう思ってはいるけれど、まだ、声を出すには少し息を整える時間が必要だった。中学生になっても僕はまだ何も変われていない。 「――あ」 僕が声を出すと、君は一瞬不思議そうな顔を見せた後、笑顔になった。 「うおお! 声は出るんだね!」 君は、僕が声を発したことに喜んでいるように見えたが、僕はまるでロボットみたいに声を発するだけの自分のことが、ずっと気持ち悪かった。「一文字くらいなら簡単に言えるにきまっているじゃないか!」と、君に言い返したくなった。でも、そんな時に限って声は出せなくて、勝手に恥ずかしくなる。僕は少し開きかけた口を閉じて、小さく頷いた。 いつもならこれでさよならして、君はどこかに消えていくのだが、今日はなかなか立ち去ろうとしない。中学生になって君は少し変わったらしい。 「じゃあ、今から私が言うこと全部真似して言ってみて! いくよ!」 君は、急に難しい要求をしてきた。絶対に長い言葉を言わされるに違いない。どんなことを言わされるかわからない。そんな恐怖で僕は逃げ出そうとした。しかし、君は逃げようとする僕の目の前まで近づいてきて言った。 「あ!」 どんな長文を言わされるのかと思えば結局、「あ」だけだった。僕はほっと一安心して、言われた通りに応えた。 「――あ」 「い!」 「――い」 「う!」 「――う」 なんだこの時間は、こんなことをして君は恥ずかしくないのか。いや、言いなりになっている僕が一番恥ずかしい。とりあえず君は僕に「あいうえお」と言わせたいようだったので、僕はなるべく早く言うことにした。 「え!」 「え!」 「お!」 ――しまった! 僕は焦るあまり、君に言われる前に「お」と言っていた。僕は初めて自分から声を発してしまったことに動揺した。これは夢であってくれ。できることなら「今の発言を忘れてくれ」と君に頼みたい。何故か、急に恥ずかしさと罪悪感がこみ上げてきて、咄嗟に咳払いをして誤魔化そうとした。 「ごほんっごほんっ」 「あれ? 私何も言ってないよ? 急に『お』とか言っちゃってどうしたの〜?」 君があまりにもわざとらしく、そう言ったから、これが僕を喋らせる為の作戦だったということがすぐにわかった。君はきっと、最初から「お」は言わない予定だったんだ。もし、ここで僕が慌てて、「間違えた! 今のは忘れてくれ!」なんて君に言ったならば、それだけで会話が成立する。君はその一言を待っているに違いない。しかし、僕はそんな君の作戦に流されるだけで人生初の会話をしてしまうのか。こんな形でしか僕は会話できないのか。そんなことを考えながら、数分間の沈黙が流れた。しかし、僕はただ頭で考えているだけだった。いつまで経っても君に伝える言葉を決められず、ずっと無言のまま口をぱくぱくさせているだけの自分が情けなくなった。君はこんなにもがんばってくれたのに、僕はまた逃げることしかできない。僕は君に背を向けて、顔を見られないように、一度強く瞼を閉じた後、廊下を走って逃げた。 「ごめん! そんなつもりじゃなかったんだ……」 微かに、君が謝る声が聞こえたが、本当に謝らないといけないのは僕の方だ。僕は君から見えない所まで行くと、しゃがみこんだ。心臓を両手で押さえて、息を殺していた。
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