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「今日に限って、なんで寝坊なんかするんだよっ」  今年大学を卒業し、厳しい就職戦線をくぐり抜け、晴れて新社会人となった桐村(きりむら)大智(だいち)は、やり場のない怒りを口にしながら通勤用の鞄を握りしめ、息を弾ませて最寄駅へと向かっていた。  入社してから研修に明け暮れた二週間が過ぎ、各部署へと配属になるという今日という日に限ってスマートフォンのアラームが鳴らなかった。電源が切れていたわけでも、アラームをセットし忘れていたわけでもない。  前日の夜はクリーニングに出しておいたスーツをハンガーに掛け、飲酒することもなく早々にベッドに入った――つまり、大智には一切責任がないと思われる理由で遅刻しそうになっているのだ。  セットもままならなかった柔らかな栗色の髪をなびかせて、歩道を歩く人たちを巧みにかわしていく。  大智が暮らす単身者向けマンションは『駅チカ』が一番のセールスポイントで、間違いなく最寄駅から徒歩十分ほどだ。しかし、それが直線距離での話であったことに気付いたのはマンションに引っ越した大学三年の時だった。その途中には開かずの踏切があり、それを回避するためには少々遠回りする必要がある。  多少リスクのある立地ではあるが近くにある商店街の人々は皆気さくで、新参者だった大智を温かく迎えてくれたことが就職してもなお住み続けている理由だ。 「ヤバい! マジで遅れる……っ」  顔を上げたはるか先にホームを繋ぐ跨線橋が見える。道路と並行する線路には通勤時間帯ともあって数本の電車が乗り入れていた。近くに見えているのに、そこにたどり着くまでには全力で走ってもあと数分はかかる。  腕時計を睨みつけ、走りながら露骨に顔を歪ませた時だった。  不意に目の前に現れた黒い壁に弾かれるように、大智は歩道脇のフェンスにぶつかってしたたかに体を打った。 「――ってぇ」  ボソッと呟いた瞬間、大智の足元に落ちたのは黒いスマートフォンだった。  カシャンと軽い音を立てて落ちたそれに気づき、自身の持ち物かと慌ててポケットの上に手を置いて確認する。薄い生地を通して触れた硬質な感覚にホッと胸を撫で下ろした時だった。  大智の視界に入り込んだのは黒い壁――いや、見るからに上質なスーツを着た男性が長い指先でそれを拾い上げる姿だった。  優雅な落ち着きを纏った三十代前半と思しき男性。少し長めの黒髪をきちんと整え、身じろぐたびにブランド物であろう香水がふわりと香る。袖口から覗いたシャツには青い石が埋め込まれた上品なデザインのカフスリンクスが輝いていた。 「あ……。あの。す、すみませんっ」  大きな手が落ちたスマートフォンを拾い上げると、大智の頭上であり得ないほど大きなため息が聞こえた。 「何てことだ……。これじゃあ、俺がここに来た意味がない」  女性が聞いたら卒倒するであろう甘い低音で紡がれる流暢な日本語が、線路を走る電車の轟音などものともしない響きで大智の鼓膜を震わせる。  大智はフェンスに凭れていた身体を起こしながら、恐る恐る彼の手の中にあるモノを覗き込むと、ヒュッと喉を鳴らして息を呑んだ。黒い液晶画面には無数のヒビが入り、画面には何も映し出されておらず、彼が何度か電源ボタンを押してはみるが期待している反応は全くない。 「まさか……だろ」  電車に乗り遅れることばかりを考え、周囲を見ることなく走っていた大智が彼にぶつかり、その衝撃でアスファルトに落ちたスマートフォンが壊れたのは誰が見ても明白だった。  大智よりも十センチ以上うえにある顔がゆっくりとフリーズしたままの彼を捉えた。彫が深く端正ではあるがどこか甘さを含んだ顔立ち、くっきり二重の奥にある感情の読めない灰色の双眸は日本人ではないことを意味していた。  その目をすっと細め、眩しいものでも見据えるかのように大智を凝視した彼は薄い唇を優雅に笑みの形に変えると、動揺して視線を彷徨わせていた彼の顔のすぐ横に大きな手をついた。  古いネットフェンスがガシャンと音を立てて軋む。 「――困ったな。どう責任を取ってくれる?」  男性に『美しい』と形容することは憚れるが、大智の目の前にいる男性はため息が出るほど美しく、いい香りがした。後ろに緩く流した長い前髪が利発そうな額を隠し、その奥で野性味のある鋭い目が大智を射抜く。 「どうって……。俺のせい……ですよね?」 「見ての通りだ。お前がぶつかって来なければ壊れることはなかった。ここには俺にとって大切なデータが入っていた。これからの人生を左右するほどの重要なデータだ」 「人生って……。それはちょっと大袈裟なんじゃ」 「お前が決めることじゃない。電源が入らないほど破損したスマホで、どうやってそのデータを見ろと? 俺にはこれしかツールがない」  背中にはネットフェンス、目の前には長身のイケメン外国人。大智には逃げ場も時間もなかった。  このまま振り切って逃げるか。でも、そうしたら良心の呵責に耐えかねて一生その苦しみを背負って生きていかなければならない。たかがスマホ、されどスマホ。だが、この現代で今欲しい情報をすぐに手に入れる画期的な手段としてなくてはならない存在になっていることを大智自身も気づいていた。 「じゃあ……弁償、しますか? あぁ! あの……非常に言いにくい事なんですが。俺、今……めちゃくちゃ急いでいて――いえっ、弁償しないとは言ってないです! 名刺……俺の名刺を渡しておくので、後で連絡ください」  上着の内ポケットに手を入れ、名刺ケースを取り出そうとした時、彼の大きな手がそれを阻止するかのように大智の手首を力強く掴んだ。 「い……った!」 「俺の方から連絡させる気か? いい度胸だな……貴様」 「き……きさ、ま?」  大智の背中に冷たい汗が流れ始める。一見、外資系企業の関係者にも見える彼。実は一番関わってはいけない組織の人間なのかもしれないと思い始めた。  大規模なマフィアのボス、はたまた反社会勢力が招いた凄腕のヒットマン……。 「――この俺にそんな軽口を叩いたのはお前が初めてだ」 「ごめんなさい、ごめんなさい! ちゃんと弁償しますっ。何でもします! だから命だけは……っ」  自棄になって叫んだ大智の背後を銀色の車体の電車が駅に向かって走っていく。それを視線の端に捉えた大智は大きく目を見開いたまま絶望の淵から突き落とされたような気持になった。 (間に合わなかった……)  これで配属初日の遅刻は確定した。その瞬間、すべてが終わったかのように脱力して項垂れた大智に気付いた彼が不思議そうな顔で覗き込んだ。 「どうした?」 「――弁償します。何でもしますから……許してください」  先程までの勢いを完全に失った大智の弱々しい声に、彼は口元を緩ませながら掴んでいた手首から手を離し、その手を大智の頬にそっと押し当てると、何かを確かめるように形のいい唇をゆっくりと動かした。 「何でもするか?」 「はい……。もう、煮るなり焼くなり、好きにしてください……」 「いい心がけだな。じゃあ――」  言いかけた言葉をそのままに、彼は顔を傾けると突然大智の唇に自身の唇を重ねてきた。 「んんっ!!」  驚いた大智はそれを振り払らおうともがいていたが、不思議なことに体が思うように動かない。  まるでフェンスに縫いとめられているかのように自由を失った体は、彼のキスに反応して徐々に熱を持ち始めていく。 「う……やめっ、ろ」  抗い、口を開けた瞬間、彼の厚い舌が口内に入り込み、歯列をなぞる様に動いてから逃げる大智の舌を捉えて絡みついた。  キスは初めてではない。しかし、その生物のような動きに翻弄され下半身に熱が集まっていく。男性とキスをして欲情したことなど今までに一度もない。それなのに彼のキスは大智の理性をいとも簡単に突き崩していく。 「ん……っはぁ」  彼の手が大智の身体のラインをなぞる様に下りていき、スラックスの生地をはしたなくも持ち上げていた場所に到達すると、そこを掌で円を描くように撫で上げた。 「はっ!」  驚きと衝撃で大きく目を見開いた大智の目に映ったのは、朝の通勤ラッシュ時の何気ない光景――いや、その動きのすべてが制止していた。耳を澄ますと電車の音も道路を行きかう車の音も、大智たちのすぐ後ろを歩いていた女子高生たちの笑い声もすべて消えていた。  塞がれたままの唇を震わせ「嘘だろ……」と呟くと、チュッと唇を啄みながら彼の唇が離れていった。 「このキスで俺との契約は成された。お前は何でもすると言った……。もう違えることは出来ない」 「なに……言ってんのか、分かんない」 「俺の名はセリオ・ラドクリフ。闇を統べる魔王だ……」  セリオと名乗った彼は象牙色の短い犬歯を覗かせて笑うと、大智の唇をなぞる様に指先で拭った。その指先には長く鋭い爪が伸びていた。 「魔王……って。ちょ、ちょっと待って! 俺、厨二じゃないから、そういう世界観ってよく分からないんだけどっ。えっと……例えばの話だとして、貴方が本当に魔王だとしてだよ? 今、この状況――俺たち以外全部止まって見えてるのは貴方の仕業ってことでいいのかなぁ?」 「今現在、この地球上で動いているのは俺とお前だけだ。俺たちは時の狭間にいる」 「え? ええっ? じゃあ、本当は動いてるけど止まっているように見えているだけってこと?ちょっと待ってよ……マジなのか、これ」  大智は、目覚ましのアラームが鳴らなくて慌てて家を飛び出したことも、彼にぶつかってスマートフォンを壊したことも、そして自分たちが時間の狭間にいることも、全部夢だと思った――いや、夢であってほしいと願った。  しかし、キスで濡れた唇はやけにリアルで、体中を支配する熱はまだ冷める様子もなく下半身を疼かせている。 「――面白い男だな。お前の名は?」 「桐村大智……だけど」 「大智……。今日からお前は俺の奴隷となった。主の命令は絶対だ……いいな?」 「へ?」 「何でもすると言ったのはお前だ。大切なスマホを壊した代償で首を撥ねられなかっただけでも有り難く思え。お前の身体には奴隷の証を施す。この証がある以上、他の魔族はお前に手は出せない。もちろん人間もだ」 「魔王専用の奴隷ってこと……?」  そう問うた直後、ぐっと顔を近づけたセリオにまたキスをされるのかと思い、ギュッと目を閉じた大智は下半身に当てられた彼の掌の熱さに驚いて目を開いた。スラックスの上から下腹部に押し当てられた部分が焼けるように熱い。微かな痛みを伴うそれが、彼のいう『奴隷の証』だということに気付いたのは再び重ねられた彼のキスを受け入れた後だった。 「――逃げようと思うなよ。お前は俺のモノなんだからな」  逃げられるわけがない。そう大智の本能は悟っていた。  相手は時間さえも操れる魔王だ。そんな彼に盾突いたところで自分が不利になることはあっても、彼に一矢報いることは出来ない。  セリオの冷たい唇が離れると同時に体が解き放たれように軽くなる。すっかり兆してしまった自身のモノをぐっと押えこみながら上目遣いでセリオを睨むと、彼は鼻を鳴らして笑った。 「俺の奴隷がつまらないことで上司に叱られるのは癪だ。お前が電車に乗り込むまで時間を止めておいてやる。さっさと行け!」  吐き捨てるように言い、大智に背を向けたセリオは颯爽と歩き出した。  その背中に見えたのは大きな漆黒の翼。その翼に包まれたい――そう思ってしまったのは、彼の奴隷になったから。  望むものも与えられず、ただ傅き許しを乞いながら生きる魔王の奴隷。  大学を卒業し、就職先も決まり、新たなスタートラインに立ったはずの大智の足元に敷かれたレールは、行き先の見えぬ闇へとただ続いていた。
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