【3】

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 社内の一画に設けられた喫煙室。そのカウンターテーブルに置かれた紙コップに注がれたコーヒーはすっかり冷めきっていた。それを口に運んではため息をつくことを繰り返していた大智に気付いたのは、その隣で電子煙草を咥えていた同じ部署の先輩である伊藤(いとう)だった。 「さっきからため息ばっかりついてるな、お前。何かあったか?」  胡乱な目で伊藤の方を見た大智は、伊藤の顔を見るなりまた大きなため息をついた。 「おいおい。原因はまさかの俺か?」 「違いますよ……。でも、ため息しか出ない状況に悩まされているんです」 「そういうのは吐き出してスッキリした方がいいぞ」  大智が営業部に配属して以来、伊藤には何かと世話になっている。元来、面倒見がいい伊藤のお蔭で、理不尽とも思える残業も少しだけ気が楽になっていた。  一緒に呑みに出かけるほど親しくなった伊藤に、抱え込んでいる大きな悩み事を話そうか話すまいか、大智は顔を何度もチラチラと窺いながら思案していた。 「――なんだよ。気持ち悪いなぁ」  露骨に顔を顰めた伊藤が、煙草の吸い口を指先で摘まんでわずかに身を引いた。 「伊藤さん。俺、すんごく悩んでいることがあって……」 「悩み? 部長にパワハラされたか?」 「違うんです。プライベートで!」  大智の答えに伊藤は「はあ~ん」と興味深げに目を細めて覗き込むと、ニヤニヤと口元を綻ばせた。 「まさかの恋バナってやつですか?」  彼の反応に勢いよく顔を上げた大智は、眉間に深い皺を寄せて唇を尖らせた。 「違いますっ」 「何をムキになってんだよ。冗談だろ……。それとも図星か?」 「断固として違います! 恋なんかしてない! あんな傍若無人な男に恋するなんて……あり得ない!」 「は? 男?」  大智の言葉に茫然とした伊藤は、咥えていた煙草を落としそうになって慌てて我に返った。 「いきなりマンションに乗り込んできて居座り続けている男です」 「桐村、それって……」  もしかしたらマズイことに巻きこまれてしまったのかと苦虫を潰したような顔で見つめた伊藤に、大智の口は堰を切ったように現状を語り始めた。 「もう、ここまできたら話しますけど。俺、魔王に付き纏われてて……。ちょっとトラブっただけなのに、いきなり奴隷にされちゃったんですよ。そしたら、側近と一緒に俺の家に転がり込んできてやりたい放題。自分を養うために働けって強要されて……。しかも、同居してるのに食費も家賃も一切出さないんですよ? もう生活費ギリギリの生活に耐えられなくて……」  涙目になりながら積りに積もった鬱憤を一気に吐き出した大智は、紙コップを掴むと冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。  それを無表情のまま呆然と聞いていた伊藤がやっと口を開いたのは、それから数分後の事だった。 「魔王……って」 「あ、伊藤さん。今、俺の事「相当痛いヤツ」って思ったでしょ? RPGやりすぎてリアルと仮想の区別つかなくなってる厨二病のヤバいヤツって……。言っときますけど! おれ、ゲームもやらない、ラノベも読まないリアリストですからね。でも――魔王がいるんです、家に……っ」  伊藤は吸っていた煙草を指先で弄びながら、何かを思案するように天井を見上げてからゆっくりと息を吐き出した。そして大智の顔をまじまじと見つめると、何かが腑に落ちたような顔で傍らにあった自身の紙コップを引寄せながら言った。 「あー。そういう事か……」  二十三歳にもなってファンタジーの世界にどっぷりハマりこんだ憐れな後輩を揶揄する伊藤の姿を想像し、軽蔑されることを覚悟していた大智は、彼の予想外の反応にポカンと口を開けた。  大智を観察するように上目遣いのままコーヒーを啜った伊藤は、カウンターに片肘をついたまま言った。 「――それは仕方ないことだと思うぞ?」 「は?」  思わず出てしまった素っ頓狂な声に、大智は口元を掌で押えこんだ。 「しかし、なんだな……。あの魔王様がお前と奴隷契約を結ぶなんて……滅多にあることじゃないぞ」 「はぁ?」 「誰にも触れさせることを許さない。まして手を出すなんてもってのほか。魔王様の独占欲の塊みたいな存在……。あぁ、だから桐村を狙ってた女子社員が大人しく撤退したのか。納得……」  腕を組みながら自己完結している伊藤に大智は焦りを感じた。先輩である伊藤がなぜセリオの存在を知っているのか。人間であれば魔王などこの世に存在しない架空の存在であると思うのが普通ではないのか。 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 伊藤さん、魔王の存在を認めるんですか? もしかして俺のこと、ちょっと病みぎみで可哀相だって思って、同情で話を合わせてくれたりとかしてます? そんな気遣いいりませんからっ」 「気遣い? そんなこと、お前にするわけないだろ? 普通に生活してれば魔王様のこと知らない奴なんていない。もしかして……お前、そんなことも知らないで生きてたのか?」 「えぇぇぇっ!」  これは夢だ。夢に違いない。  そう思い、自身の頬を思い切りつねった大智はその痛みに顔を歪ませた。動揺する気持ちを何とか落ち着かせようと、もうすでに底が見え始めていた紙コップを握りしめると、わずかに残ったコーヒーを一気に流しこんだ。 「――あの方は奴隷契約はしないって聞いてたけど、お前……一体何をやらかしたんだ?」 「えっと……ぶつかって……スマホを、壊し……」 「マジか! それで良く生きていられたな! 短気で鬼畜、気に入らなければ即刻処刑するっていうあの魔王様のスマホを壊したとか……。あり得ないだろ」  驚きを隠せないというように声を上げた伊藤に、大智は訳が分からずに狼狽えた。  自分以外のすべての人間がセリオの存在を知り、認めている。この世界は魔界とは違う。それなのに……。 「まあ……奴隷契約は魔王様が死ぬまで解除できないって言うしな。契約の証を受けたお前も死ぬことは許されない。生かしてもらってるだけ有り難いと思えよ。不老不死のまま魔王様の奴隷として生きるしか道はない。諦めろ……」 「そんな……っ」 「下手に逆らって逆鱗に触れることだけは気をつけろよ。魔界だけじゃない、この世界すべてを牛耳ってるのはあの方なんだからな」  ゾクリと背筋に震えが走った大智は、何かに怯えるように後ろを振り返り、そこに何もいないことを確認すると伊藤の方を振り仰いだ。  これがセリオの力なのか……。この世に存在するすべての人間を我が物とし、自由自在に操ることが出来る闇の支配者。  あの冷酷ともいえる灰色の瞳を光らせてニヒルに笑う彼を思い出すたびに、下腹部に刻まれた奴隷の証がズクリと疼き、腰から全身に甘美な痺れが広がっていく。 (俺は一生、彼に自分の精液を与え続けなければならないのか……)  いつかの夜を思い出し、大智は恐怖と体に植え付けられた快感に体を震わせた。  大智の鎖骨に牙を押し当て、真っ直ぐ見つめたままセリオが口にした言葉――。  それが今も耳の奥に残ったまま離れない。  不意に感じた息苦しさにネクタイを緩めた大智に気付いた伊藤が驚いたように目を見開いた。 「おい……。こんなところで……やめろっ」 「伊藤さん?」 「お、俺……先に戻るから! じゃあなっ」  電子煙草を上着のポケットに捩じり込むようにして、まるで大智から逃げるかのように喫煙室を去った。  彼が吸っていた煙草の匂いに混じって、微かに甘さを含んだ香りが室内に漂っていた。  大智が使っている香水とは違う。まして伊藤のモノとも違うその香りは、大智が身じろぐたびにふわりと広がる様にも感じた。  オフィスビルを見下ろすガラス張りの窓に薄らと映し出された自身の姿に大智は息を呑んだ。  気怠げに目を細め、わずかに開いた唇はまるで相手を誘う娼婦のように艶めいている。  だらしなく緩められたネクタイが童顔の大智を大人びて見せる。  心臓が高鳴り、下腹部にツキンとした痛みが走った。 「――っ」  顔を顰め、再びガラス窓に視線を移した時、大智は自分の背後に佇むセリオを姿を見つけて瞠目したまま動きを止めた。  ブランド物のスーツに身を包み、スラックスのポケットに浅く手を入れたままガラス越しに大智を見つめる彼の姿に、より一層鼓動が激しくなった。  慌てて後ろを振り返ってみるがそこには誰もいない。  もう一度ガラスを見ると、そこには大智しか映ってはいなかった。 「監視……されてる?」  声を震わせて呟いた大智は、自分の逃げ場はこの世界のどこにもないということを悟った。  もしセリオを裏切るようなことをすれば、周囲の誰かが――いや、今の時代SNSを使えば簡単に拡散することもセリオに知らせることも不可能ではない。  魔王の命令は絶対――。大智はこの時初めて、自身の運命を呪った。  *****  ここ数日、大智は不眠症に悩まされていた。夜明け近くになってやっと眠れたかと思えば、目が覚める頃には太陽はかなり高い位置にまで上がっていた。  久しぶりの休日となった週末。気怠い体を何度か寝返らせて、カーテンの隙間から差し込む光から逃げようと試みたが、あっさり敗北を認め体を起こした。  毎朝リビングから聞こえるテレビの音は今日はない。その静けさに違和感を感じて、自分の部屋から顔を覗かせた時、エプロン姿で掃除機を片手に歩くクレトと目が合った。 「おはようございます。大智さま……」  パッと輝くような笑顔を見せた彼に「おはよう」と小さく応えて部屋から出た大智は、周囲を見回してそこにセリオの姿がないことに気付くと、寝不足の上手く働かない頭で言葉を選んだ。 「セリオは……?」 「セリオ様は魔界の方に行かれておりますよ。お戻りは夕方になるかと……。大智さまのお世話はこのクレトに任せられております」  胸を張って自慢げに言うクレトに「はいはい」と適当に返した大智は、ぐしゃぐしゃになった髪を何度かかきあげて洗面所に向かった。 (お世話じゃなくて監視だろ……)  冷たい水で顔を洗い、鏡に映った自身を睨みつける。クレトには罪はない。彼は側近としてセリオの指示に従っているだけだ。それに抗えばクレトもまた酷い目に遭うことは分かっているから。  折角の休日だというのに、セリオの不在中、この部屋から出ることを禁じられている。自分の部屋の中は自由に動くことは出来る。しかし、大智の足には見えない枷が嵌められ、鎖に繋がれていた。 「朝食のご用意は出来ておりますよ」  リビングから聞こえたクレトの声に、濡れた顔を乱暴にタオルで拭いた大智が小さくため息を吐く。  正直、何も食べたくない。だが、セリオが帰宅して再びあの夜のように精液を求められたら……。今の体力では到底自我を保っていることは出来ない。  力任せに自由を奪われ、強制的に発情させられてしまう体の疲労感たるや、連日の残業の比ではない。  リビングを抜けてキッチンに向かった大智は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、キャップを開け、渇いた喉に流し込んだ。  ひんやりとした水が胃の入口をキュッと締め付け、その痛みにわずかに顔を顰めた。 「――ねぇ、クレト。セリオは何しに魔界に行ったの?」 「審官にお会いになるとか……」 「神官? それって神様に使える人じゃ……。魔界にそんな人いるの?」  ボトルのキャップを閉めながら、掃除機を傍らに置いたクレトが振り返りながら言った。 「神官ではなく『審官』です。魔界の最高幹部であり、セリオ様に次ぐ権力を持つ方々です。魔界は闇が支配する世界。セリオ様お一人では隅々まで監視出来ませんからね。時に審官の力を借りて統治なさっているのですよ」 「ややこしいなぁ……。ってことは、アイツがこっちでフラフラしてる間の留守番ってところか……」 「違いますって! まあ、そういう時もありますけど、基本的に審官には最終決定権はありませんからね。何か重要な事柄が起きた時はセリオ様直々に決定を下さなければならないんです」  ここの所、大智の帰宅時間が遅いことから、ヒョウ柄のガウン姿の彼しか見ていない。しかし、日中はブランド物のスーツに身を包み、どこかに出かけていることはそれとなくクレトから聞いていた。  大智はペットボトルを手にしたまま、リビングのソファの上で粘着テープのついたカーペットクリーナーを転がしているクレトを横目にダイニングの椅子にどかりと腰かけると、テーブルに片肘をついた。 「――ねぇ。セリオって日中はどこに出かけてるの? ブランド物のスーツ着て、初めて会った時どこかのマフィアかヒットマンかと思った」 「ぶはっ! さすが大智さまっ。面白いことを仰いますね!」  思わず我慢できずに吹き出したというように、口元に手を当てて肩を揺らしたクレトはゴミがついた粘着テープを丁寧に剥がしながら大智の方を見た。 「まあ、そう見られても仕方がないですが、おそらく……そのように見えたのは大智さまだけですよ。下々の人間にはセリオ様のお姿は見えませんから」 「マジで? じゃあ、なんでみんなセリオの事知ってるんだよ? 見えない魔王なんて空想上のそれと変わらないじゃん。それに、どうして俺に見えたんだよ? 奴隷契約した後だったら納得出来るけど、俺だってアイツに会ったのはあの時が初めてだったし、お前が言う『下々の人間』の一人だったわけだろ? 」  クレトは指先に巻きついてしまった粘着テープを剥がそうと苦戦していた様子だったが、大智の方に顔を向けると少し困惑したような顔で問うた。 「――大智さま。セリオ様から何もうかがっていないのですか?」 「うかがうも何も……。いきなり転がり込んできて、まるで自分の家みたいに寛いで、俺には「働け」だの「養え」だの命令しかしない。そんな状況でアイツと何を話せって言うんだよ? それに正直、スマホ壊したぐらいで奴隷にされるとか……おかしいことだらけだ」  大智はクレトが用意した朝食のパンを手に取ると、それを小さくちぎって口に放り込んだ。馴染みのある味が口内いっぱいに広がって、それが近くの商店街にあるパン屋のものだとすぐに気づいた。  少しだけ幸せな気分に浸っていた大智だったが、クレトの一言でそれは一瞬で消えた。 「じゃあ、セリオ様がどうしてこの世界におられるかということも……知らないのですか?」 「知るわけないだろ。俺がセリオと出会ったのはまったくの偶然で……」  大智の言葉に力なくソファに座り込んだクレトは、小柄な体をより縮めるように項垂れた。  長い睫毛を揺らして深海のような青い瞳をわずかに伏せたクレトは、手にしたままのクリーナーを落ち着きなく回転させている。 「――偶然。大智さまは候補者ではないから奴隷契約を結ばれたわけですよね……。ごく稀にセリオ様と同調してお姿が見える方がいらっしゃると聞いたことがありましたが、それ……なんでしょうか」  独り言のようにブツブツと小声で呟くクレト。大智は椅子から立ち上がると彼の隣に座り、覗き込むように身を屈めた。 「候補って何だよ?」  すぐそばにあった大智の顔に驚いたクレトは、あたふたしながらソファの端に身を寄せると、弾んだ息を整えるかのように胸元に手を当てて何度か深呼吸を繰り返した。 「驚かさないでください。大智さまに触れることは許されていないんですから……」 「もしも俺に触れたらセリオの逆鱗に触れる――。そのおかげでラッシュ時の電車の中でも、誰も俺に寄り付かない」 「魔王様の奴隷は特別な存在でもあるんです。彼を生かすも殺すも、奴隷が作り出す精によって左右されるんですから」 「まさか……。俺がセリオの生命を握っているとでもいうのか? 通りすがりの人間だぞ? どんな基準でそれを選ぶって言うんだよ。それに……セリオは誰とも奴隷契約をしないって聞いた。今までどうやって生きてきたんだよ」 「契約はせずとも精は摂取することは出来ます。ですが、強大な力を蓄えるにはそれなりの人数が必要で……」  なぜか頬を染めて俯いたクレトが言わんとしていることがその表情で理解出来てしまった大智は、顔を背けて小さく舌打ちした。  あのセリオが自ら脚を開いて、大智をけしかけた様に人間に抱かせたというのか。  想像しただけでわけの分からない苛立ちが募る。あの鍛えられた体に触れ、滑らかな白い肌に覆いかぶさるようにペ|ニスを突き込んだというのか……。 「――セリオは、手当たり次第連れ込んだ人間と関係を持ってたってことか? 逆レイプで……」  腸が煮えくり返るような怒りがじわじわと全身を包み、大智は溢れ出す怒りを抑えこむかのように細く息を吐き出しながらクレトに問うた。その異様な気配を感じ取ったのか、クレトは小柄な体を震わせて大智の方を見やった。 「ち、違います! あのドS鬼畜なセリオ様が下級種族である人間に脚を開くようなことをするとお思いですか?! 確かに……毎日三十人から四十人の成人男性の精液を集めさせたのは事実ですが、それは淫魔が請け負い、セリオ様に献上していただけのことですからっ」 「そんだけの人数分の精液が俺一人で賄えると本気で思ってるのか、アイツは……。それに、直接体内に入れた方がいいとセ|ックスを強要された俺の立場は一体……」 「――え?」 「あ……いや、何でもない。――で、さっきクレトが言っていた候補って、なに?」  セリオが他の人間と肉体関係がなかったと分かっただけで体中に渦巻いていた怒りがすぅっと消えていく。まるで先程までの怒りが嘘のように、大智はじつに穏やかな気持ちになっていた。  その気配をいち早く察知したクレトは、ホッとしたように胸を撫で下ろした。 「セリオ様がこの世界に来ている理由――それは花嫁探しです。審官がセリオ様と最も相性が良い花嫁候補を何名かリストアップし、一人一人その目で見極めるために来ているんです。しかし、そのデータが入ったスマホを大智さまとぶつかった時に破損されて……。その件で魔界へ行かれているという次第です」 「花嫁探し? 魔王が人間と?」 「ええ。審官の話によると、魔界とこの世界を未来永劫統治し、栄華を築くには人間を花嫁に迎えることが最善ということらしいです。しかし、それも期限があって……。あと一ヶ月以内に候補者全員に会い、婚姻を決めなければセリオ様は魔王の座を誰かに譲らねばなりません。魔王の座を虎視眈々と狙う輩は多く、そのほとんどがロクでもないクズばかりだとか……。それ故に審官たちも焦っているのですよ。魔界の未来がかかっていますからね。候補者として選ばれた者はセリオ様のお姿を見ることが出来るんです。ですが大智さまの場合は偶然……なんですよね? だから、さっきも説明したように……」 「アイツと同調したってだけだろ? 花嫁候補を奴隷になんかするはずないもんなっ」  吐き捨てるように言った後で、なぜか大智の心は大きく揺れていた。  もし花嫁が見つかり、その人との生活を一生見せつけられるのかと思うだけで胸が苦しくなり始める。  彼が真剣に花嫁を見つけるためにこの世界に来たとすれば、あの夜、セリオが大智に言った言葉は、大智の機嫌を取るための演技だったということになる。  安易に口にするような言葉では決してない。しかし、それをサラリとその場の雰囲気で口にしたセリオに無性に苛立ち、そしてなぜか切なさを覚えた。  一瞬でも彼に対して抱いた感情。それを否定し続けながら彼と接する大智。  日に日に膨れ上がり、それが暴発する前にセリオの元から離れようと密かに思っていた。だが、奴隷である大智は世界中どこにいてもその居場所を突き止められてしまう。  それならば――。 「――クレト。奴隷契約ってセリオが死ぬまで解除されないんだったよな?」 「はい……。いわば呪縛のようなものですから」 「じゃあ……さ。その奴隷が不慮の事故で死んじゃったら、どうなるんだ?」 「あぁ……その点はご心配なく。たとえ死のうとしても本人が痛いだけで死ぬことは出来ません」  その言葉にがっくりと肩を落として項垂れた大智は上目遣いで彼を睨みつけた。大智の気持ちを汲むことなく、例外など存在しないと言わんばかりにきっぱりと答えたクレトをこれほど恨めしいと思ったことはなかった。  クレトは手にしていたクリーナーを大智に突きつけるようにして、上目遣いで訝るような目でじっと見つめた。 「――まさか。奴隷の分際で、セリオ様に精子の供給を行わないで暗殺しようなどと考えてはおられませんよね?」 「そ、そんなこと考えるわけないだろっ! 俺がセリオを餓死させるとか……あり得ない」 (ああ……そうか! その手があったかっ)  自分の命を絶つまでもなく、セリオに精液を与えなければ自然と彼の魔力は弱り、奴隷の証の力も薄れていくのではないかと気付いた。または一ヶ月間、花嫁候補に接触させないようにすれば、彼は自動的に魔王の座から退く。そうなれば奴隷である大智を囲っておく余裕はなくなるはずだ。  我ながら冴えていると思ったのは一瞬で、大智は心のどこかでセリオの幸せを願うようになっていた。  魔界を統べる偉大な王として彼の王座存続を願う者は多い。この世界にも彼の名は知れ渡っている。人間であってもそう望むものはいるはずだ。  彼がいるからこそ人間界と魔界の均衡が保たれ、平和な暮らしが出来ているといえよう。 「――そっか。俺、悪いことしちゃったんだな。あのスマホ、修理出してもダメかな」 「おそらく……。電源も入りませんし、液晶画面も深部まで壊れてしまっていますから」  クレトが大きなため息と共にボソリと呟く。失望にも似た表情に、大智は自身が犯してしまった罪を悔いた。 「ねぇ……クレト。もし、セリオが王の座から退いたら、お前はどうするんだ?」 「無職になります。私なんて地位も何もないただのモブ魔族ですから。セリオ様に拾ってもらわなければ今頃……」  切なげに睫毛を震わせたクレトの手を咄嗟に握りしめた大智は、彼の顔をまっすぐに見つめた。  深海のような青い瞳がわずかに潤み、まるでそばにいる大智に助けを求めるように愛らしい顔を傾けた。同時にクレトは、掴まれた手を汚いものでも触ってしまったかのように慌てて振り払った。 「俺、花嫁候補探すの手伝うから! 有能なお前をクズニートになんてさせないから!」  大智の言葉に、すうっと目を細めたクレトは抑揚のない冷めた声音でボソリと言った。 「クズニート……って。そこまで言ってませんよ」 「あれ? 言ってなかったっけ?」 「言ってないです」 「ごめん、ごめん!」  照れ隠しに頭を掻きながら笑っってみせた大智だったが、顔には消して出すことのないセリオへの想いがまた膨らんでいくのを感じて、チクリと刺すような胸の痛みを誤魔化すことに精一杯だった。  これほど誰かに対して余裕をなくしたことがあっただろうか。  進学も恋愛も就職も、何も考えずにその流れに乗ってきた大智。  でも、今回だけはその流れを堰き止めなければいけないようだ。しかし、その想いが募れば募るほど水嵩は増し、いつかは決壊する。  それがセリオの結婚間際にならないことを切に祈るばかりだった。  *****  心なしか疲れた表情でセリオが帰宅したのは太陽がすっかり沈んだ後だった。  主人の帰りを待ちわびた子犬のように、労いながら彼の周囲をうろつくクレトを軽くあしらいながら、セリオはリビングのソファで寝そべっていた大智にちらっと視線をやっただけで、すぐに自室へと姿を消した。 「――なんだよ、あれ」  大智に対しては、やれ「挨拶をしろ」だの「キスをしろ」だのと煩い男が、自分が帰宅した時には一瞥だけをくれるという冷酷さ。魔王だから――と言ってしまえばそれまでの事なのだが、大智はなぜか苛立ちを隠せずにいた。  勢いをつけて体を起すと、下階の住人の迷惑など構うことなくドカドカとわざと大きな音を立てて廊下を歩き、セリオの部屋のドアを力任せに叩いた。 「おい、セリオ! 帰って来るなり、なんだよその態度は! 奴隷に挨拶ぐらいしろっ」  大智の剣幕に驚いたクレトが慌てて駆け寄り、大智のシャツの裾を引っ張って声を上げた。 「大智さま、落ち着いて! セリオ様はお疲れのご様子……。今はそっとして……」 「人には挨拶しろだのキスしろだの言うくせに、なんだよっ! それが魔王の器かっ!」  一度頭に上った血はなかなか落ち着いてはくれない。大智は縋る様に制止するクレトを突き飛ばし、更に声を張り上げた。 「アンタみたいなデリカシーのかけらもないような男と結婚したいって奴なんかいるわけないだろ! 自分勝手にやりたい放題しやがって……っ!」  大智が拳をドアに叩きつけようとした瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。危うく顔面に直撃するところを咄嗟の瞬発力で逃れた大智は、廊下の壁に背中を押し付けて入口に佇むセリオを睨みつけた。 「危な……っ」  いつ見ても悪趣味な部屋を背に、何も言うことなくただ大智を見つめるセリオ。  端正な顔立ちが苦渋に歪み、グレーの瞳にはいつもの意地悪げな光は宿ってはいなかった。 「セ……リオ?」  その姿を見た大智の戦意は一気に消失し、だた茫然と彼を見つめ返す事しか出来なかった。 「――悪かった」  思いつめた表情でたった一言だけそう呟いたセリオにただならぬ雰囲気を感じて、大智は足を大きく踏み出して彼に近づいた。  そして――。 「キス、しろよ。ただいまのキス……」  その言葉は誰が聞いても力強く、セリオの魔力で無理やり言わせられてるとは思えないほどハッキリとしていた。大智が自分の意思で口にした“望み”だった。 「奴隷は……主人に対して「おかえり」も言わせてもらえないのか?」  セリオを真っ直ぐに見つめる大智の目は鋭い。その視線から逃れるかのようにすっと目を逸らしたセリオは、何の前触れもなく目の前に立つ大智を強く抱きしめると、形のいい薄い唇を大智の唇に押し当てた。 「うぐ……っ!」  突然のことで呼吸もままならない大智は背中に回した手を何度もばたつかせて抗議したが、深くまで差し入れられた彼の舌が大智の舌を絡め取って離さない。  息苦しさと、彼のキスで素早く反応してしまう奴隷の体に焦りを感じ、密着する二人の間に無理やり腕を挟み込んで力任せにセリオを引き離した。 「やめ……ろっ!」  反動で廊下の壁に背中を打ち付けた大智はその場にへたり込むと、濡れた唇を乱暴に拭った。 「お前がキスを求めたんだぞ?」 「誰が……舌、入れろって言ったよ?」  表情を変えることなく言ったセリオに、大智は肩を上下させて息を整えながら、腰のあたりにわだかまっている甘い痺れを払拭するかのように言い返した。その声に応えるかのように、わずかに視線を上げたセリオは皮肉げに口元を歪めて見せた。 「――さあ、主を労え。奴隷よ」 「なんだよ、その態度……。俺がスマホを壊したせいで、アンタが花嫁候補を探せずに困ってるって聞いたから心配してたのに……。マジでむかつく……。アンタみたいな魔王に誰が従うっていうんだよ。この自己チュー野郎っ!」  ふらつく体を立て直しながら吐き捨てるように言い放った大智は、クレトの制止を押し退けるようにして自分の部屋へと走り込んだ。  後ろ手にドアを閉め、そこに凭れたまま床に座り込んだ。 (こんなはずじゃなかった……のに)  項垂れたまま膝の上で握られた拳の上に透明の滴が落ちては流れていく。  それが涙だと認識するまでに少しの時間がかかった。  どうしてセリオのことで泣いているのかが分からなかった。自分勝手で、権力を振りかざしては大智を屈服させるドS魔王。今までだってムカつく事は数えきれないほどあったのに、こんなに大声を張り上げてやり合ったことは一度もなかった。何より、言い争いの後でこれほど自身が悲しくなることもなかった。  自分よりもはるかに年上であるセリオはいつも余裕の表情で大智の怒りを受け流してきた。それなのに今日に限って更に煽るような態度をとったことが、大智の心の奥底に眠っている感情を逆なでたのだ。  感情的になったのは自分のミスだ。でも、それ以上に普段のように接してくれないセリオも悪い。 「おかえり……って、言いたかっただけ、なのに」  乱暴なキスなんか望んではいない。ただ唇を触れ合わせるだけで良かった。  たったそれだけのことで、大智の気持ちは穏やかになる――はずだった。 「――大智さま? 大丈夫ですか?」  ドアの向こう側でクレトの声がする。しっかり者ではあるが人一倍ビビり症の彼にとって、セリオと奴隷である大智の関係がこじれてしまうことが一番怖い。  力を維持するために必要な大智の精子が供給されなければセリオの力は衰退していく。また、その精子を甘く強力なものにするためには、セリオは大智に快楽を与え、悦ばせなければならない。  持ちつ持たれつの関係が崩れた時、奴隷としての大智の必要性はなくなる。つまり――不要なものとしてこの世から消されてしまうのだ。 「――大智さまのお気持ちはよ~く存じております。しかし、ここは素直に謝ってお許しを頂いた方が……」 「ヤダ……。絶対に謝らないっ」 「そう意地を張らずに。お怒りを静めてくださいっ」 「なんで俺が謝らなきゃいけないんだ……。アイツが……アイツがいけないのにっ」  涙が止まらない。嗚咽を堪えながらも強気の口調で応えていた大智だったが、もう限界だった。  目を閉じると、セリオの自信ありげな顔が浮かんでは涙で滲んでいく。  ベッドの上で俺を押し倒して言った言葉――。  それが耳の奥で何度も繰り返され、気が狂いそうになる。奴隷を悦ばせるための常套句。それを鵜呑みにした自分の愚かしさに、悔しくて……また涙が零れた。 「――クレト。そんな出来損ないの奴隷など放っておけ」  冷酷ともいえるセリオの低い声がドアの向こう側から聞こえ、大智はビクッと身を強張らせた。 「出来損ないって……。セリオ様がお選びになった方でしょう?」  セリオからの容赦ない攻撃から身を挺して大智を守ろうとするクレトの声に、堪えていた嗚咽が堰を切ったように零れた。 「うぅ……ぐ……。もう、いい……から。クレト、もう……放っておいてくれ」 「大智さまっ」  大智は悲痛なクレトの声を遮断すべく、自身の両耳を掌で塞いだ。  こめかみから聞こえる激しい鼓動が、頭痛を呼び寄せる。何度も鼻を啜りあげては、嗚咽と共に息を吐き出す。  そのまま冷たい床に横たわると、肩を震わせて泣いた。  いつになったら涙が枯れ、セリオに対して非情になれるのだろう。  自身の中に息づいた彼への想いは小さくなるどころか、より大きな炎となって大智の体を包み込んでいた。
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