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強くなりたい
兄の指す将棋には、あるべき「色」や「音」がまるでなかった。
コンピューターと対峙するような無駄のない、無機質な駒の動き。目尻の火照りや呼吸の乱れを「寡黙」という鎧の内にひそませ、投了の合図をじっと待ち続ける。
勝負どころで大胆に飛車を切り捨てる度胸。
息継ぎを欠いた相手の攻めを分断する妙手。
王将を追い詰めていく閃光のごとき指し筋。
どのような表現を用いても物足りなさばかりが先立つ。兄の指す将棋の根強さを語ることは、駒が盤を叩く「パチリ」という簡素な響きにだけ許されていた。
駒は兄の指示に従い、進むべきマス目に移動する。決して犠牲をいとわず、後につづく者はその屍を踏み越えて目的の場所をめざした。
長い戦いの中でおよそ活躍を期待しえない駒が伏兵となって手強い敵を討つこともあれば、睨みを利かすだけで盤面を停滞させてしまうこともあった。
戦況は刻一刻と変化し、新たに加えた手駒を容赦なく相手陣地に打ち込むことで内地から戦力を削いでいく向きも珍しくない。
「歩兵」「香車」「桂馬」「銀将」「金将」「角行」「飛車」、それから「王将」。
自らの命を顧みない十九名の戦士と、一人の王。
八十一マスの戦場。
相手の「王将」を倒す――
たったそれだけのゲームに宇宙を構成する要素より広い選択肢と、人類が解き明かせない無限のパズルが秘められている。
兄の将棋は「銀」が躍動する棋譜にその強さの絶頂を見せた。
飛車をサポートするために身を呈して玉砕する「攻めの銀」。
王将の傍らで鉄壁の堅さをほこる金将に寄り添って生涯を全うする「守りの銀」。
兄は相手から奪った「三枚目の銀」にも非情さを授け、避けては通れぬ役目を課した。
指令を受けた「銀」が、つい先ほどまで仲間であった駒たちを次々に葬っていく様には背筋が凍る思いだった。
元より温かみの感じられない兄の将棋の中にあっても「三枚目の銀」が放つ、ひんやりと尖る冷たさは盤上でことさらに際立っていた。
無口で将棋の強い兄。
序盤の定石も終盤の詰め筋も、道中の状況判断だって誰にも負けちゃいない。
無類の強さを見せる兄の将棋と、その強さを鼻にかけない謙虚さが、あの頃のぼくはたまらなく好きだった。
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