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午後8時半。今日は早く帰って来れた。……明日怒られないといいな。仕事を同僚に投げつけて早帰り。あの恨みがましい目を思い出す。……今度何か美味しいお菓子でも買って謝らなきゃ。
「お帰り。ラインみたけど本当今日早いね」
夕飯を出そうと冷蔵庫の前に立つ文乃が、不思議そうに私を出迎えた。
「うん。ちょっと仕事投げて早めに帰ってきた」
「……あんた殺されないといいね」
「あ、謝る! ちゃんと後日謝るから! ……その、今日は大事な話をしたくて」
すっ、と文乃が冷蔵庫から視線を上げた。一条の線が私と文乃の間に通る。
「あれからいっぱい考えた。苦しかったけどちゃんと、考えて決めた」
拳を胸に当てる。決然と顔を上げる。
「……私、やりたい。カメラの前に立ちたい。もう……隠したくない。お願い、文乃。私と一緒にやってくれる?」
「……いいよ」
えっ? あまりにもあっさりとした返事に目を丸くする。あんなにごねていたのは文乃なのに。
「……あんたが本気なら私は構わない。最初から異論はないよ」
「でも色々言っていたのは文乃じゃん!」
「そうだよ。だってあんたが迷っていたから。そんな中途半端な気持ちでしたくないし」
覚悟が決まるまで待ってくれた、ってこと? 口を開きかけた私を制して文乃が続ける。
「ちゃんと納得してからやるべきなのは当たり前でしょう。特に今回は本当に大ごとだから」
こくこくと頷く。
「私だってこの数日、結構悩んだよ。私は女性が好きだ、って示すことが怖くないって言ったら、嘘だ。だからこそ、あんたの希望に従って、関係を隠してきた。…………あんたを、隠すための言い訳にしてた」
悔しそうに目線を落として、拳を握りしめた。その苦しそうな表情が、私にはどこか愛おしく思えた。
「けど、最近では色んな人たちが表に出て、自分の思いを伝えようとしてる。私たちが訴えることで何かが変わるなら、やらなきゃいけない。今まで私たちを助けてくれた人たちがしてくれたように。……それに」
そこで文乃はいつもの彼女らしく、呆れたように鼻を鳴らした。
「他人同士の振りをするのはもうたくさん。私たちだって愛しあっていいじゃん。人前で手を繋いだっていいじゃん。……もっと愛し合いたいよ。ま、節度は守るべきだけど」
不機嫌な顔で、素っ気ない言い方なのに、台詞はものすごく情熱的で。
「栞? 顔真っ赤だけどってうおっ」
「……あやのぉ」
思わず文乃に抱き着いて泣き出してしまった。……嬉しくて、嬉しくて。幸せってこういうことなんだって、思い至る。
「ありがとう……!」
だからぎゅーっと強く、強く抱き締め……たんだけど。
「あぁ、どうもって、うげ、くるし、あんた、力つよ、すぎ……ぐえっ」
「うわぁっ、ごっ、ごめんごめん!」
……やりすぎた。ちょっとは加減しろ、と額にデコピンを打ち込まれる。けれど私も文乃も心から笑っていた。その笑顔は資料に乗っていたあのモデルさんたちにそっくりだった。
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