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蝉時雨
三年前、俺は記憶を失った。理由は分からない。病院のベッドで目を覚まし、退院後は孤児院の職員として働かせてもらうことになった。住み込みだ。
鏡で自分を見るかぎり、年齢は二五歳くらいだと思う。事故に遭ったらしいと言われたが、傷跡は目立たない。身分証なんて持っていなかったから、生年月日も分からない。体力には問題がなく、孤児院からも歓迎された。
二ヶ月前、孤児院に新しい女の子が来た。中学生。早くに両親を亡くし、唯一の身寄りであった祖母が、先日亡くなったのだという。
その子は初めて会ったときから、俺を警戒している。少なくとも、そう見える。近づけば距離を取られるし、話しかけても睨まれるだけ。
同僚の中年女性に相談すると、
「年頃だから、仕方ないんじゃない」
と軽く言われた。
「それとも逆に、あなたに気があるとか?」
笑って返したが、ありえないと思う。彼女の眼は、そういうものではない。
「もしかしたら、記憶を失う前の俺を知っているかも」
「それなら、会ってすぐに言うわよ」
「少なくとも二年以上は会ってないはずですから、その間に俺の風貌が変わって、確証が持てないとか」
「なるほどね。直接聞いてみたら?」
「いや。そもそも、あんまり興味がないんです。昔の自分に」
ここで過ごした三年。その月日が、自分の人生だ。それ以上のものが必要とは思えない。
このままでいいか。そんなふうに考えていたら、彼女の方から急に話しかけてきた。金曜日の夜のことだ。
「明日、図書館に付き合ってください。調べ物、手伝って欲しいんです」
「調べ物?」
「宿題なんです」
「学校のか」
相変わらず、壁を感じさせる眼をしている。断る理由はなかった。
土曜日の図書館はそれなりに混んでいた。彼女は新聞の縮刷版を何冊か机の上に置き、ある記事を探すよう俺に言った。。彼女も、一冊を開いて捲り始めた。
なぜ、そんな記事を。
疑問はあったが、彼女の真剣な横顔に、何も言えなかった。諦めて、縮刷版特有の薄い紙を捲る。索引を見れば、目当てのページはすぐに見つかった。
四年前にG県で起こった殺人事件。民家に押し入った男が、夫婦を惨殺した事件だ。夫婦には小学生の娘がいたが、友人の家に遊びに行っていて、巻き込まれることはなかった。犯人の男は逃走中で、名前と顔写真が載っている。
「なるほど」
呟き、顔をあげた。彼女と目が合う。静かに席を立ち、ゆっくりと外に出た。
「あれ、俺か?」
静かだな、と思った。夏なのに、蝉の声も聞こえない。
新聞に載っていた男は、確かに俺に似ていた。だが、髪型や肉付きはかなり違う。鼻や顎の形にも、差異が見られる。
「きっと」
冷めた口調で彼女はいった。
「似てるけど、微妙に違うだろ」
「逃亡犯が整形するなんて、よくあることですよ」
「なるほど」
納得はできる。客観的に考えれば、俺と犯人が同一人物であることは十分考えられることだ。
「俺にあれを見せたくて、誘ったのか」
「あわよくば、思い出してくれればと」
「それは残念だった」
何も変わらない。俺じゃない俺が、新聞で騒がれていた。それだけだ。記憶は戻らない。
図書館の前にある公園まで歩き、ベンチに腰掛けた。
「生き残った娘ってのは」
「私です。事件の前から、あなたは私たちとよく会っていました。だから、ちょっと整形したくらいじゃごまかせません。まさか、孤児院で再会するとは思いませんでした」
「嫌われるわけだ」
自分の両親を殺した男。懐くはずがない。
「なぜ、すぐに警察に通報しない?」
「意味がありませんから。記憶のないまま捕まって、死刑になっても。それじゃ、あなたは何も悔やまない」
「だから、思い出させようとしたのか」
危険なことをする子だ。
「これからも、このままでいる気か?」
「あなたが記憶を取り戻すまでは」
「記憶が戻ったら、お前を殺すかもしれないぞ?」
人ごとのように思えてしまう。記憶が戻ったとき、俺はもう俺ではないのだ。
「それでも、あなたを楽には死なせたくない。悔やんで悔やんで、死んだお父さんとお母さんに泣いて詫びて、それでも死刑。それ以外は認めない」
涙が両目に溜まっている。大きな眼をした子だと、今気づいた。
「そうか」
彼女の怒りも悲しみも、受け止めようがない。ただ、言われるがままにするしかないのだと思う。
「今日は、もう帰ろう」
立ち上がると、彼女もそうした。眼を隠すように俯いている。歩き出す。
孤児院までの帰り道。背中から、ときおり鼻を啜る音が聞こえた。
俺はこれからも、彼女から嫌われ続けるのだろう。逃げる気はない。記憶が戻ったとき、そのときの俺がどうするかは分からない。
ただ今の俺は、彼女が冒した危険や覚悟に報いたい。それだけが、かろうじて言語化できる気持だった。
不意に蝉が鳴き出した。おかげで、背中からの音は聞こえなくなった。
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