第2話

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第2話

第2話:酒場にて  5月18日、私は隣町の酒場で1ヶ月の期限付きで笛吹きとウエイターの仕事を掛け持ちですることになった。  40坪ほどの店の周りには、店を囲むように大きな庭があった。 ある日、その庭で昼食のパンとソーセージをぼーっとしながら食べていると、一匹の猫が近づいてきた。その猫は甘えたそぶりで私の足にすりより、ソーセージをくれとねだった。  その猫の後を追ってみると、そこには生後2週間から3週間くらいのよちよちあるきの子猫が5匹いた。母猫に甘える子猫、子猫をあやす母猫、そのしぐさは生命の尊さと慈愛の心を感じさせた。私はしばらくの間、その光景に見とれていた。  野生の猫の平均寿命は3年くらいだという。その中でも成猫になれるのは、ほんの少しの数の猫らしい。病気になったり、環境に適応できなかったり、自分たちより強い動物に捕食されたりと、猫に襲いかかる脅威はいくらでもある。  そんな中、一見何の変哲もないように思われる生命の営みの影には、何かとてつもない奇跡が隠されていて、一生の中の場面場面において私たちが気づかないほどさりげなく、しかし絶妙なタイミングで絶大な効果をもたらせてくれているのかもしれない。 そう考えるなら、私がいつの間にか大人になっていたことにも、いくつもの奇跡が起きていたのかもしれない。ここで猫にあえたのも奇跡だったり、私が笛吹きになったことも奇跡だったり…つまるところ、生きていること、そして生活したり誰かに出会ったりすることそれ自体が奇跡なのかもしれない。  5月30日、今日は日中から降り出した雨が、やむことなく夜になっても降り続けていた。雨の日の酒場は人影もまばらで、ほんの数人の常連客だけであった。私はいつも通りウエイターをしながら、お客のリクエストに答えて笛を吹いていた。  雨は閉店間際になっても降り続けていた。いつも閉店間際までカウンターの一番奥の席に座っていつも一人で飲んでいる歳は30代半ばの女性に声をかけられ、私はその女性としばらくの間、一緒に酒を飲むことになった。  その女性は30代半ばくらいで、とても美しい女性であった。彼女と飲み交わすうちに、彼女は自分のことを話し始めた。  「私ね、この年になるまで本当に好き放題いきてきたの。恋愛だってたくさんしてきたわ。でも、今はそのすべてが虚しく感じるわ。 私ね、ずっと前にこの場所で天使に出会ったの。私は天使を次第に好きになり、私たちは恋に落ちたの。天使は一身に私を愛してくれたわ。そして一緒に暮らすことになったの。天使は私がどんなひどい仕打ちをしても、次の日になれば私のことを笑顔で許してくれたわ。私、止めておけばいいのに、天使がどこまで私のことを許してくれるのかを知りたくて、いろんな男と浮気したの。最初のうちは天使は知らないふりをしていてくれたわ。でもね、気づいたら天使は私の元を飛び立っていたの。 私、そのときになって初めて自分がどれだけ天使にひどいことをしてきたかってことに気づいたの。私に残ったのは好きでもない男と浮気したという虚しい事実だけ…それから私は天使以外の誰も愛することなく、天使に再び会えることを信じて、天使に出会ったこの場所に通い詰めているの・・ もうそれから5年もたっちゃたけどね・・」  言い終わると彼女は両目に大粒の涙を湛えていた。私自身、人は人と関わる際に、意図するしないに関係なく傷つけ傷つけられるものであるように感じる。 だからこそ、せめて自分は相手のことを思いやり、慈しむ心が大切なのだと思う。どのような理由があったにせよ、彼女は深く後悔し、そして傷ついていることは、私にもよく伝わってきた。  私に彼女にできることといえば限られたものしかない。私は精一杯の癒しの心を込めて[ANGEL]という曲を演奏した。吹き終わって、しばらくしてから彼女は泣き止み、天井を見上げて、それから真っ直ぐに前を向き、そして小さな声で私に「ありがとう」といい、少し酔った足取りで店を後にした。  それから数日後、街の一角で再び私は彼女に出会った。彼女は、少し小柄で細身のとても優しそうな男性と一緒に手を握ってとても幸せそうに歩いていた。彼が彼女の天使なのだと私は感じた。彼女は私に気づき、私に走りよってこういった。  「私、再び天使に会うことができたわ!こんなに幸せってあるかしら?もう二度と天使を傷つけたりはしないわ。いろいろありがとね、モテット!」  といい彼女は再び天使と歩き始めた。私は人を慈しむことにより生じる奇跡を感じた。
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