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有理花の七月①
びっくりした。
あまりにびっくりし過ぎて、帰宅してから何もできなかった。香津に食事会から帰ってきたら連絡するねと伝えてあったのに。心配してるかな。
翌朝になってから『悪い人じゃないのはわかった』とだけ香津に送った。
母の再婚相手の子供、同居する同い年の男の子が佐藤君だと言うのは、まだ早い気がする。素敵な子だなと思っていたことも。
食事会で佐藤君もこの結婚に賛成なのはよくわかった。
私だけが、違うのね。
もう、勝手にすれば?私は従うしかないんだから。
同居する男子が佐藤君だとわかっても、ラッキーとかやったー!とか、浮かれた気分にはならなかった。最悪の事態は避けられそうだって感じ。それに、佐藤君だと厄介なことがある。
夏休みを前に、慌ただしく色んなことが決まって行った。
新居は隣の校区の一戸建て。学校側の配慮があって、私は中山姓のまま、今まで通り佐藤君と同じ中学に通える。友達の家と新居が遠いから、親の結婚がバレる心配も少ない。
いや、別に母が結婚したことは周囲にバレても良いんだよね。
バレて困るのは、佐藤君と一緒に暮らすということ。あれだけ、キャーキャー人気のある佐藤君と同居なんて、私の意志とは関係なくても、女子からやっかまれる。
だから要は、引っ越したという話をできるだけ言わずに過ごせればいい。でも、赤ちゃんが産まれたら、バレるかな。
今日は引っ越しの日。
小さいけど庭付きの一軒家。外壁はレンガのような白タイル。かわいいというのが第一印象。まるで妖精が住んでいそう。
私は自然と微笑んでいた。久しぶりの感覚。
けれど、家の中に入ると、上がった口角は簡単に下がった。
玄関を入ると左手に水回り。正面のドアを開けるとリビングダイニング、そして、右手のドアは佐藤君の部屋。それが一階。二階には私の部屋と、お母さんとおじさん二人で使う部屋がある。
あからさまに思春期の娘と息子を心配する部屋割りだ。ため息が出る。それなら、結婚しないでくれるかな。
荷解きが終わって、母がお茶を淹れ始めた。
私は「明日の部活で必要なものを買い忘れた」と言って、一人で家を出た。
おじさんは車で送ってくれると言ったが、「近所の探検も兼ねて行ってきます」と断った。
私はまっすぐに近所のスーパーへ入った。下調べ済みだ。そして、トイレに入って化粧をした。慣れているわけじゃないけれど、特別ヘタでもないと思う。黒いパンツを履いてきたから、大学生くらいには見えないだろうか。
鏡を見ると、大人っぽくなった自分に自信が出てくる。スニーカーなのに、自然とパンプスを履いたような歩き方で自転車置き場へ向かう。
昨日のうちに自転車を止めておいたのだ。
鍵を挿して意気揚々と自転車置き場から出ると、そこには佐藤君が突っ立っていた。
なんとも言えない顔をしている。こちらを直視するでもなく、見ないふりをするわけでもない。お互いに、しばらく言葉が出なかった。
「なんか様子が変だと思ったから」
佐藤君がたまらず言った。
「着いて来たの?」
私が責めると、佐藤君はたじろいだ。
「…化粧してるの?」
「そうよ。他の子だってしてるわ」
佐藤君は自転車にまたがった私の前に進み出た。とおせんぼだ。
「買い物に行くんでしょ?」
「文具屋さんは遠いのよ」
「じゃあ、走って着いていく」
佐藤君は言い切った。今度は私がたじろいだ。
「いや、いくらなんでも無理よ」
「そうかもしれないけど、有理花ちゃんが行くなら着いていく」
こうやって言い合いしている間にも時間は過ぎていく。私は焦って言い捨てた。
「勝手にすれば」
心では「ごめんなさい」と叫んでいるのに。
そのまま、力一杯ペダルを踏み込んだ。後ろは向かずに漕いだ。最初こそ佐藤君の気配が伝わってきたけれど、途中でよくわからなくなった。元々体力がないから、漕ぐことに集中しなければならなかった。
それに、走っている佐藤君を見たくなかった。見てしまうと、ペダルを漕げなくなってしまう。
佐藤君は何も悪くない。私と一緒で被害者だ。
被害?なんの?赤ちゃんがいるのに。新しい命がそこにあるのに、私が一体なんの被害に遭ったというのか。
自分から出てきた言葉に、自分自身が愕然とした。
母に見せられたエコー写真を思い出す。
豆粒。そう、まだ豆粒みたいだけど、確かにそこに赤ちゃんがいる。私の弟か妹が。
私の豆粒のときの写真も見せてもらったことがある。細かく書かれた母子手帳。育児日記まで!
母は日記をつけていたのだ。大雑把な性格に似合わず。
妊婦検診でどんな話が出たか。つわりがどんな感じで、何を食べたくなったか。途中、とんずらした私のお父さんについて、罵詈雑言が書いてあるのは、私が母親なら娘には読ませないけど。
私が母のお腹をポコポコ蹴る様子が書かれてた。入浴中に蹴ってる様子がよくわかるから、ついつい長風呂になったって。幸せだと、熱い涙が出るんだって。
赤信号だ。
止まると、冷たい涙が出てきた。
赤ちゃんを歓迎できないなんて!どうして私はこんな子に育ってしまったのか。
現状になんの不満があるのか。毎日、ご飯が食べられて、学校に行けて、友達がいて。
今後だって、暗い話は一切ない。逃げ出さないといけない理由なんてない。
私は何をわがまま言っているんだろう。
私は泣いた。頭が痛くなっても泣き続けた。自転車のハンドルに頭をつけて、車道を自動車が行き交ってもどうでも良かった。
顔を上げたものの、信号が青に変わっても、涙で前が見えず進めなかった。
そのとき、後ろから足音が近づいてきた。バタバタ派手な音がして、隣で急に止まる。すると苦しそうな呼吸が聞こえた。ゼーゼー言っている。
「少しは手加減しろよ」
佐藤君だった。
「何度も曲がってたら見失ってたな」
佐藤君は呼吸を整えながら、私にハンカチを渡した。
汗が流れているのは、佐藤君の方なのに。
「化粧崩れてるよ。ゾンビみたい」
佐藤君の紺色のハンカチを私は無言で頬に当てた。
佐藤君は呼吸を整える合間にも、苦しそうな顔をしながら問いかけた。
「どこに行くつもりだったの?嘘なんでしょ、買い物」
私はゾンビ顔が見られるのも構わず、佐藤君を向いて言った。
「どこでもいいから、遠くへ行きたかったの」
「あてがないの?帰らないつもりだったってこと?家出!?」
佐藤君はポカンッと口を開けた。
「それくらい同居、嫌だった?」
「嫌ってわけじゃないの」
「泣くほど嫌だったんでしょ?」
「これは、そういうことじゃないから」
佐藤君が信号の先を見た。
「目の前、海じゃん。日が長くて良かった。女の子一人じゃ危ないよ」
佐藤君はそう言うと、自然と自転車のハンドルに手を置いた。
「どうせなら、海見てから帰ろう」
二人で海辺に向かった。「風が気持ちいいね」と佐藤君は言った。デコボコの段差は佐藤君が自転車を軽々と持ち上げて乗り越えてくれた。
私達はコンクリートの階段に並んで腰を降ろした。
夕日が海を照らしている。
波の音が控えめに聞こえる。
「俺のことが嫌だった?」
思いがけない佐藤君の言葉に、私は言葉に詰まった。嫌だと思ったことはない。むしろ…。
「俺と同居が嫌で逃げ出してきたはずなのに、俺が追いかけてきちゃったのかな」
佐藤君は頭をポリポリかいた。
私は慌てて否定する。
「そんなんじゃない。ただ、いろんな感情が整理できなくて、爆発しそうになったから」
「さっき渡したハンカチは、華奈さんからもらったんだ」
いつだろう?
「もらったのは小学校の卒業式の少し前。俺は、前から華奈さんに会ってたんだ。だから、有理花ちゃんが親父の恋人の子だって知ってた」
え?
私は初めての図書委員会での会合を思い出す。
「そう…なの」
「だから、俺はまぁいいんだ。心の準備をする時間が十分あった。でも、有理花ちゃんには突然のことだったはず。それが気がかりだった。
親父が悪いんだよ。中学生の女の子に嫌われるのが怖くて、会うのを渋ってたんだ。でも、赤ちゃんができて、やっと覚悟が出来たんだと思う」
佐藤君はちらりと私の方を見た。目が合うと、佐藤君は私の視線を離さなかった。
「うちの親父に抵抗があるのはわかる。そもそも、同い年の俺と同居が嫌なのもわかる。だけど、何も始まる前に、諦めたりしないでくれ」
佐藤君は畳みかける。
「親父は確かにむさ苦しいおっさんだけど、華奈さんのことを大事にするよ。もちろん、有理花ちゃんのことも。俺だって、節度持って同居する。中学では他人のフリするよ。変な噂が立つようなことはしない。約束する。だから」
「どうして、そんな大人の発言が出来るの?」
私は思わず口に出していた。
「大人?俺が?」
他にないでしょ!
「佐藤君は親の幸せを願ってる。自分の願いの前に」
「有理花ちゃんの願いって何?」
佐藤君の切り返しは速かった。
あれ?私の願いってなんだろう。
母の言葉がこだまする。「結婚はしないから」いや、違う。母が結婚しようがしまいが、そこはあまり問題じゃなかったはず。
「私の願いは」
私の本当の願いは。
「お母さんにとって私が一番であること」
言い終えてしまって、顔が急にほてってくるのがわかった。中学生にもなって、何を言っているんだろう。お母さんの一挙一動にイライラばかりしてるのに。恥ずかしさで顔が赤くなると、なぜか再び涙が流れてきた。先程のような滝のような号泣じゃない。ポロポロッと本当にこぼれるように。温かい雫が。
佐藤君はそんな私を笑うことはなかった。
「一番だよ、今でも」
優しく言った後、くだけた口調で続けた。
「なんだよ、そこ、誤解してたのか。そのせいで、俺はあんなに走らされたのか」
私は慌てて、顔の前で手を合わせた。
「それは、ごめんなさい。でも、もう、一番じゃない」
「馬鹿言うなよ。父さんから聞いたけど、華奈さんは妊娠がわかっても、結婚はしないと言ったんだ。有理花ちゃんにとって思春期に環境が変わるのは酷だからって。だけど、赤ちゃんは有理花ちゃんの兄弟になる。いつか、自分が死んだとき、兄弟がいるのは良いことだって」
あれ?その話、聞いてない。
「そこを、そうは言っても高齢出産だし、心配だから家族になって助け合おうと説得したのは、うちの親父なんだ。だから、華奈さんにとって一番は今も有理花ちゃんなんだ」
夕焼けの空が退場し始めた。夜がやってくる。帰り道は、佐藤君が自転車を押してくれた。
「佐藤君の願いってなんなの?」
「それは、ナイショ。ただ、お母さんがいる生活ってしてみたいと思ってたし、それが華奈さんなら、うまく行きそうだって思ってた。それに」
佐藤君は一旦言葉を区切った。
「有理花ちゃんを初めて見たとき、この人が俺の姉になってくれるなら、そんな生活もいいなぁって」
「姉!?」
叫んだ私を佐藤君が傷ついた顔で振り返った。
「え。嫌なの?」
「私の方が年上だっけ?」
「2ヶ月ね」
佐藤君は言うなり、にんまり笑った。
「そうなの!?」
なんとなく、佐藤君がお兄さんになるんだとばかり思ってた。佐藤君が弟…。
私は少し前を歩く佐藤君の横顔を盗み見る。
こんなに頼りがいのある弟を持って、私は大丈夫なんだろうか。佐藤君を見つめるときの心臓の震えが、今まで以上に大きくなってる。
私はこの先、どんな毎日を送るんだろう。
「冬には私、お姉ちゃんなんだ」
新しい私の部屋のベッドで寝転がる。天井はクリーム色だ。この景色に慣れるまで時間はかからない気がした。
冬には…じゃなくて佐藤君がいる時点で、私がお姉ちゃんなんだっけ。
「博人君」
一人で呟くだけで赤面してしまう。そう呼ぶことにも慣れなくちゃね。
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