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氷女
ひんやりした洞窟の中、そこに緋色(ひいろ)は居た。血脈の繋がりは無いが、弟分の久那(くな)と共に居た。冬のうちに湖から切り出した氷を此処に貯蔵しておき、今の季節、町に出向き、高貴なるお方の元へ氷を届ける仕事をして暮らしている。もっとも、二人は、高貴なるお方のお屋敷に入ることすら許されぬ身である。身分が低く、町まで氷を運んだ後は、中継を頼むのである。勿論、差金は取られる。それも足元を見られてがっぽりと。二人が子供という事でも下に見られ、大した収入にはならない。子供の足で大きな氷を運んでも、町に着く頃には氷は片手の平に乗る程に小さくなる。生活は山で自給自足をしていた。それは少し聞こえのいい表現で、実際には山の中で食べられるものを探して食う、という事で命を繋いでいたのである。
村の火事で両親を亡くした時、一緒に焼け出されていた久那を連れて、洞窟の前に小さな小屋を緋色はこさえた。父の仕事を継ぎ、氷を背負って運ぶ現在に至ったのである。
「どちら様?」
「…菜菊(なぎく)。」
「へえ。」
「私が怖くないの?」
「まだ十二だし、大丈夫なんじゃねえの?」
ある日の早朝、緋色達がいつものように洞窟の奥へやってくると、その女は居た。透き通るような肌、淡い青でキラキラと輝く髪。そして人間のものと思えない装束。二人はすぐに察した。氷女(こおりめ)という、この地方に住む、所謂雪女である。
「私達は人間を殺すわよ。怖くないの?」
「大人の男を連れ去るってやつだろ。じゃあ関係無い。」
久那は緋色の陰に隠れた。一方緋色はまるで友とでも話すような口ぶりである。氷女は黙った。何をしてくるわけでなく、ただただ美しく輝いてそこに立っていた。
「此処に大人はいねえよ。」
「探してないわ。」
久那が声を震わせながらも言った。
「じゃあなんでこんなところにいるんだよ。緋色兄ちゃんはわたさないぞ!」
「大丈夫よ。私は人間に殺されようと思って正体を明かしていたの。でも駄目ね。外は暑くて苦しくて、ついついこんな奥まで来てしまっていたわ。」
氷女は大きなため息を吐いた。氷の粒がキラキラする。
「お願いよ。私を殺して頂戴。」
冬に男を氷女の村まで連れて帰れず、春になっても、夏にもなってしまって、氷女は弱ってしまっていた。どうしても、男を氷漬けにして連れ帰ることが出来なかったそうだ。子を作った後は、村の場所や秘密をばらされぬよう殺しているんだそう。男を手に入れるまで、村には帰る事が出来ないらしい。村の為にならない女は、口減らしの対象になるんだそうな。氷女にこの夏の暑さは堪えるだろう。しかし、氷女は帰ることが出来なかった。
「じゃあ、此処にいる?」
「兄ちゃん、嫌だよ。」
「優しい妖怪さんじゃんか。」
「罠だったらどうするの?」
「そんときゃ始末するさ。」
「…。私を匿ったりなんかすれば、あなたが村の人間に殺されてしまうわ。何を言ってるの? 私が優しい?」
「ここにゃ誰も来やしねえよ。俺がこの仕事始めてから、ここでは誰とも会ったことねえ。それで、俺らさ、俺ら以外に家族いねえんだ。家族になってくれよ。な、いいだろ!」
「えっ、お姉ちゃんになるの?」
呆気に取られた氷女は、黙ってしまい、この件を飲み込むことになってしまった。緋色が言うには、人を殺さない優しい妖怪が、自分の命を投げてでも貫き通す良い人だと。だから安心なのだと。
それから、氷女をこの洞窟の中で匿った。久那も最初こそ警戒していたが、敵意の無さから、打ち解けた。緋色は、普段は気丈で頼れる兄貴分だが、寂しくて堪らない日もあった。両親を亡くした寂しさは、久那の手前、吐き出す事が出来なかったが、菜菊には打ち明ける事が出来た。菜菊は優しかった。氷女故に寄り添っても暖かくはならないが、かける言葉は緋色を癒した。久那は家族が一人増えた事を喜んだ。菜菊は口数の多い方ではないが、ただ生活するのには必要ないおしゃべりをするようになった。三人は笑っていた。
しかしながら、日に日に氷女は弱っていく。出会った時すでに弱っていたが、今は、空気に溶けてしまいそうな程、存在が軽い。質量が何処かへ分散されている。氷女の村に帰らなくてはどうにもならない事は、二人にも分かる。命が危険だ。積まれた氷にもたれかかって、氷女は言った。
「いいの。私は空に返るだけの事よ。」
「そう簡単に死なせるわけにはいかない。」
「お姉ちゃん、お家はどこにあるの? お家に帰ったら元気になれるよね?」
「帰れないわ。ごめんね。」
緋色は納得いかなかった。そして氷女を殴った。触れた手が冷たくなる。
「ごめん、殴って。俺、父さんも母さんも亡くしてるから…。」
簡単に命を諦めるのは許せないのだろう。氷女を背負って担ぎ、緋色は言った。
「必ず戻る。それまで久那はここで待っていてくれ。」
洞窟を出て、山の頂上付近を目指す。氷女がいなければ入れない村へと。いつもの氷を運ぶのとは勝手が違う。重量は大して変わりがないと感じていたが、重心が上手く取れない。氷を運ぶ時は町に向かって下っていくが、山頂に向かって急な傾斜を登っている。手こずっていたが、休憩はしていられなかった。日光を浴びて、ますます氷女は息絶え絶えになる。緋色の体力だって無限では無い。が、村の入り口までは辿り着く事が出来た。入り口と聞かされたものの、そこは何もない岩壁。菜菊は緋色の背から降りて壁に手を触れた。封印でも解けたように、大きな岩がずれて、中から冷たい突風が吹く。中は冬のようだ。
「菜菊、菜菊なのね、ああ良かった。」
という声が聞かれたのだが、奥の方からしわがれ声が近づいてきた。
「菜菊、それはまだ子供じゃないか。お前は本当に役立たずだよ。外に戻って消えておしまい。」
緋色はすかさず言った。
「菜菊をここへ置いてやってください。男を探すのに、とても苦労してたんです。」
「そんな事は承知しておる。」
「弱ってるんだ。追い出すことなんてないだろ。ひでえ。」
「子を作れぬ者など置いていても村の力が弱るだけじゃ。」
この隠れ里を維持するためには、子供を作り、世襲していかなければならない。いつからか、氷女の産む子は皆おなごなのだ。人間の男が要る。この村を存続させる為には、役に立たぬ者は口減らしになるのだ。
「わかった。指切りをしよう。約束だ。」
緋色は氷を削る為に使っている包丁を取り出し、勢いよく小指をすぱっと切ってみせた。小指がぼとりと雪の上に落ちる。血がそれを追って滴り落ちる。菜菊は慌てて拾い上げた。血が溢れる左手に自分の手を添え、出血点を凍らせ止血した。
「何故こんな事を?」
「三年後、俺が元服したら一緒にここで暮らそう。本当の家族になってくれ。」
菜菊の頬が赤らむ。緋色は長老に向き直って、
「それなら文句ないだろ。」
と威圧的に言葉を足した。
「小僧。掟により村の秘密を守る為、村から出す訳にはいかんぞ!」
「俺が変えてやる。秘密は絶対に守る。とにかく三年待ってくれ。弟を置いて来た。それまでに一人でも仕事が出来るように仕込む。小指は身代わりに置いていく。」
菜菊は小指を凍らせ、懐にしまった。長老は緋色を殺すように命じるが、誰も動こうとはしなかった。この者にかけてみたい。心まで冷え切ったこの村に光を与えてくれるかもしれない。長老は瞬時呆れた顔を見せると、そそくさと奥の方に引っ込んだ。
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