500マイルの旅人

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500マイルの旅人

別れとは、悲しいものではない。 今まで心の拠り所としていたもの、依存していたものから少し距離を置くと、見たことのない世界が見えてくる。 視野が広がるからこそ、新しい人々との縁が生まれる。 だから僕はこの慣れ親しんだ環境の、慣れ親しんだ光景で、慣れ親しんだ人と最後の夕食をすることに、大きな感動すら覚えた。 食器も調理器具も片付けてしまったから、最後の晩餐は出前のピザ、フローリングの上にて。 僕はマルゲリータピザを、杏果はミックスピザを。 最後まで食べ物の好みが合うことのなかった僕達をよく象徴していて、僕たちの別れにお似合いだと思ってしまったのは、傲慢か、欺瞞か、それとも僕がこのあるがままの現実に勝手に解釈を加えているだけなのか。 事実などない、あるのは解釈だけである。 ニーチェの言葉だ。 感傷に浸るふりをして夜の街が煌めくベランダを見つめる。 スマホを見ながら黙々とピザを口に運ぶ杏果と、それをガラスの反射越しに見つめる僕と、それから、何もない部屋。 何も、なくなってしまった部屋。 もう、何もない、そう、なのだろうか。 視界がぼやけて、それを誤魔化すためにあくびをする。 別れとは悲しいものではない、それは、嘘だ。 ニーチェの言葉など、糞食らえだ。 何度自分に「終わりだ」と言い聞かせても、心の奥底では、これは夢なのではないか、なんとかやり直せるのではないか、などと絶望的な状況においても持ち味の希望的観測を発揮してしまう。 でもそんな僕をよそに、近頃彼女が僕に送る視線は、僕を「過去の産物」として見ていた。そしてその視線に晒されるたびに、僕はどうもそのパンドラの箱に残っていた砂つぶほどの「希望」というやつが、ただの幻想だったことを思い知らされるのだ。 訂正しよう、感動なんて、何一つ覚えちゃいない。 僕はただ、認めたくないだけなのだ。感動とか名言とか哲学的な言葉でいくら自分を偽ろうとも、僕のこの根底にある想いはやっぱりやるせなくて、そうして今にも壊れそうなくらい脆いのだ。 そんな僕を他所に、杏果はスマホを見ながらクスリと笑う。 そして僕以外に見せるその幸せそうな顔を見るたびに痛感するのだ。 ああ、もうこの人は僕になんの興味もないのだと。 初めて会ったのは中学の頃で、テンションの高い、騒がしい人程度の認識しかなかった。 いつもクラスの輪の中心にいて、孤高こそが正義と自負していた中二病全開の僕とは大違いだった。 だがそんな灯りのような存在にも、誰にも見せない影がある。 それを知った時、僕は驚きよりも先に喜びを覚えた。 何故僕がそんな感情を覚えたのかは今だに分からないし、果たしてそれが喜びだったのかも今となっては断言すらできない。だがその印象が心に何年も残り続けている限り、きっとそれは僕にとって特別な衝撃だったのだろう。 そして僕は彼女の影を引き出すことに努めた。 もちろん、それで彼女が変わったとか、僕に人の性格を変えるほどの驚異的な能力がある、などという傲慢な思い上がりをするわけではない。 でも僕が初めて抱いていた印象と、付き合い始めてからの印象が違う以上、僕の推理もあながち間違いではないのだろう。 そう考えると、今僕の目の前にいる杏果は、昔の杏果に戻ったのかもしれない。 昔の杏果は、サバサバしていて、芯が強かった。女々しい僕には、それが眩しかった。僕は、杏果のそんなところに惹かれた。 でもその惹かれた部分が、この別れを促しているのだとしたら、僕は少し遣る瀬無い気持ちになる。 付き合って、結婚した後は、人が変わってしまったかのようだった。わがままで、甘えん坊で、僕になんでも任せてしまうような、真反対の人。 人の世話を焼くのが大好きだった僕はそれはそれで楽しかったし、杏果の意外な一面を知ることができたのは嬉しかったが、やはり心のどこかで、昔のあの「強い」女の子を望んでいたのだ。 そしてその強さを阻んでいたのは、他でもない、僕自身であった。 詰まる所、僕がい続ける限り、僕が憧れた彼女の姿は影を潜めてしまうのだ。 そう考えると、この別れは必然のように思われた。避けることのできない定め。 そんな運命を恨んだところで、そんなものは本当に、本当にどうでもいいのだが。 「...またピザのミミ残してる」 その言葉に、はっと意識を現実世界へ戻す。杏果が最後の一切れを食べながら、僕の方を呆れた様子で見つめていた。 そういえば、昔ピザのミミで口論になったことがあった。彼女が初めて作ったピザのミミを、僕はいつもの癖で残してしまった。 『私の作った料理がそんなに食べられない?!』とその時はとても御立腹だったのが懐かしい。そんなことないと慌てて残したパンの耳を全部口に詰め込んで、それでも機嫌が治らない杏果の肩を揺すって一時間くらい謝って、やっと許してくれたんだっけ。 思い出すと、少し笑いがこみ上げてくる。 もしこの先僕に明るい未来が訪れて、真っ当な人生を歩んでいたとして、このピザのミミのことを思い出す時が時が来たら、僕はそれをどのような思い出になっているのだろうか。 それとも、そんな未来など来ないのだろうか。 「...キモっ、なんでにやけてるの」 「うるせえ、何でもねえよ」 「ふーん、まあ何でもいいけど早く食べてよね」 そう言うと杏果は最後の一切れを口に詰め込んだ。 僕もそれに倣って最後の一切れを食べる。もちろんピザのミミを残して。 もし、僕に僕の全てをさらけ出す勇気があったなら、ピザのミミも残さず食べれていたかもしれない。 不合理なことを考えている、と自分でも思う。でも今はただ、現実からただただ目を背けたかったのだ。 自分の弱さは、誰よりも自分がよく知っていた。 でも、知っているだけで、治し方は知らないんだ。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」 最後の食事は、実に平和に終わった。僕はビニール袋の中にボックスを入れ、口を閉める。 「ん」 それだけ言うと杏果は自分の分の袋を僕に突きつけてくる。少しむかっとしながらも渋々それを受けとる。そうしてスマホの画面に戻る彼女を横目に、僕はゴミを玄関へと運ぶ。 結局彼女の僕への態度は、最後まで変わることはなかった。 こいつ、マジで僕がいないのにどうやって生きていくつもりなのだろうか。僕以外の他人にもこんな態度なのだろうか。無礼な態度は身内だからこそ許されるものであって、これを他人にも日常茶飯事的に行なっているのだとしたら、相当ひどい。 そういうことを考えだすと、やはりこれが本当に「最後」だとはどうしても思えないのだ。 玄関先にゴミを置いて、元来た道を戻る。そしたら風呂に入って、歯を磨いて、携帯でスレッドを読んで、寝る。そうすれば今日という日は終わって、新しい朝が来る。 完璧な、覆ることのない未来予想図。 だが突然足がすくんで、喪失感やアンニュイな感情に襲われた。 本来ならこの別れについて、俗にいう「離婚」について話し合った時に感じるべきだったこの負の感情が、今になって津波のようにドッと押し寄せてくる。 一歩、また一歩とリビングへと引き返すその足取りが重くなるのが分かる。 これで、終わりなのだろうか。 どんなに正論を振りかざそうとも、どんなに彼女の前でカッコつけようとも、結局僕は彼女と出会った時から、何一つ変わりはしないような気がした。 「灯り」である彼女の存在に憧れ、憎み、そして敬愛したその確かな感情を、僕はしっかりとわかっていたはずだったのだ。 でもそれと同じくらいに僕は今だにわからないのだ。彼女にイラっとする時もあるし、好きだと叫びたくなるような時もあるし、己の甘さをつくづく後悔する時もあるし、彼女に助けられている時もあるし、僕は僕のどの感情が正しいのかわからないのだ。そんなことを考えると、今向き合おうとしていた現実から逃げたくなってしまうのだ。 「...そういえば」 キッチンに戻り、流しの下の戸棚を確認する。 そこにはいつからか置いてあった日本酒と梅酒が置いてあった。 「ねえ」 「なに?」 「...飲まない、最後にさ」 少しためらったのは、何故か誘うのが酷く勇気のいる行動だったからだ。 「は?私もう寝たいんだけど」 「...ちょっとくらい付き合ってよ、話したいこともあるし」 「話って何?私はないんだけど」 「僕はあるんだ、頼むよ」 ああ、僕は君のそういうところはやっぱり嫌いだ。 渋々梅酒のパックを受け取る杏果の表情を見て、心の中でそう呟く。はっきりしているとこは、でも憧れた部分でもあった。 僕も床に座る。日本酒も梅酒も残り少なかったので、僕らは容器ごとぶつけて乾杯をする。 「じゃあ、僕らの新しい旅たちに、幸福と栄光あらんことを」 そう言って僕は勢いよく日本酒をグイとやる。 幸福も栄光も、もうどこにもないような気がした。 新しい旅立ち、そう僕がこの別れを表したのは、何も僕がそう形容したからではなかった。 別れ話を切り出した時に、杏果が言った言葉だ。 そしてその旅立ちを語る彼女の目には、その輝かしい未来への希望と闘志が宿っていた。 僕は、そこに写っていなかった。 今思えば、別れる理由は酷く馬鹿馬鹿しいものだ。 気持ちの冷め、でもそれは決して他に好きな人ができたと言う意味ではなかった。 ただ新しい道を歩んでいきたい、それが彼女の本音だった。 言い換えれば、僕は彼女がもつ幾多の「可能性」の障害物になっていたのだ。 自分勝手だと思っても、人一人の思いを詰る資格を僕は持ち合わせていない。だから半ばやけくそで、僕は彼女の提案に賛同した。 もし君が僕を邪魔者だと定義するなら、僕も同じく君を邪魔者だと宣言して、僕の新しい道を切り開いてやろう。 僕とて君と同じように飽き性だ。少し時間が経てば、君のことなんて忘れているかもしれない。 でも僕にとって彼女は邪魔者ではなかった。僕がこの世界でもっとも望んだものを提供してくれるパトロンであった。 「安定」 この二文字に僕はどれだけ恋い焦がれただろう。 「世界が広がれば選択肢が増える」 いつか読んだ本の中に書いてあったこの一文は、確かに正しい。選択肢が増えるということは自由が増えるということだ。 だが自由は、いつから正義になったのだろう。 「知らない」ということは酷く怖いことだ。 自由とは、知らない世界に飛び込んで行くことだ。 それなら、僕は井の中の蛙のように、自分の知っている世界で満足していたい。 前に進むということは、樹海を指針もなく闇雲に進むことと同じだ。未来への希望は、それと同じくらいに絶望や不安を生み出す。 もし蛙が井戸から飛び出して海に出たら、新しい世界を見つけたことを喜ぶのも束の間、その大きさに一切の希望をかき消され、海の広さに怯えて押しつぶされることだろう。 海への不安ではなく、自分自身の、大いなる愚かさを知ることで。 僕は愚かで脆弱で最低な人間である。恥の多い人生ではないけれど、僕は僕に人間失格の烙印を押したくてしょうがないのだ。 だから彼女のそういう部分に、僕は憧れたのだ。僕のできない、厭らしさを覚えるほどの、輝かしいかっこよさ。僕は憧れ、そうして同じくらいに憎んでいるのだ。 そんな彼女のことを思うと、やっぱりこの十三年の思い出が、鮮明に蘇ってくる。 決して不幸でも無意味でもなかった、この十三年を。 「...ねえ」 「なに?」 「この十三年、君にとってどんな月日だった?」 なおもスマホをいじり続ける彼女に、僕はふと思った疑問をぶつける。 「うーん、まあ色んな変化のある年だったよね」 「十三年は、長いようで短かったね」 「それね、色々あったね」 思い出される、様々な思ひで。 初めて二人が出会った頃のこと、中学の時僕が杏果をいじめていこと、両親に顔合わせに行ったこと、子供ができない体だとわかって泣いたこと、大きいブリを買って捌いたら胃の中から小魚が出てきてさらにその魚からちっちゃい魚が出てきたこと、杏果の不謹慎な冗談に高級レストランなのに吹き出してしまったこと、初めて二人で買った車のこと、出世のこと、転勤のこと、お互い不満を抱えたまま行ったフランスに旅行に行ったこと。 様々なことが思い出され、その度僕はそれを語る。スマホをいじりながらも彼女が合いの手を入れ、僕の記憶を修正していく。そんな何気ない時間が、酷く切なく、そして同じくらいに愛おしかった。 最後の締めは、これからの話。 「この別れについてさ、何か最後に言いたいことある?」 少し酔っているのか、杏果はきつめの口調で僕に詰め寄る。 「ある、色々と」 「はっきり言ってよ、まとまってなくても、どうせ最後だし」 最後、か。聞こえないくらい小さな声で、僕は呟く。 一体何を言えばいいのだろう。決まってしまった事象を覆すことなどできないのに、何を弁明すればいいのだろう。 「僕は後半の結婚生活、ずっと考えていたんだ。今、嘘偽りなく、僕はこの人に『好きだ』と言えるかって」 出会ってから13年、結婚してから4年経つが、この4年の間に、僕らは何度も離婚の危機に直面してきた。芸能人がよく「性格の不一致」を理由に離婚するけれども、それはあながち間違いではない気がする。でもその度に距離をとって、彼女が歩み寄ってきてくれて、僕もそれに甘えて、そうしてまた関係を修復する、そんな繰り返しだった。 「でもやっぱり言えなかった。僕は、何度も思うようになったんだ『ああ、僕とこの人は本当に合わないんだなぁ』って、それで、僕はずっと君への思いよりも先に、安定を先に願っていたのだと思う」 でもそれも今日で終わりだ、本当に好きだったのだ。でも今はどうだろう。「マンネリ化」という言葉が正しいかは分からないが、一緒に過ごせば過ごすほど、僕らの差異が明らかになっていって、「嫌い」な部分が浮かび上がってくるようになった。 わがままなところ、約束を守らないところ、なんでも人任せにするところ、僕の弱さをなじるところ、愛情は愚かお礼すら僕に見せなくなったところ、自分のことを棚に上げて人を責めるところ、これだけ嫌いな部分がはっきりとしていて、それでも彼女と一緒にいたいと願ったのは、やっぱり僕の弱さのせいだったのだろうか。 「僕は、君への愛よりも君への依存の方が強かったのかもしれない。君が僕に依存しているかは知らないけど」 「あんたに依存なんてするわけないじゃん。なに?それって私に依存してほしかったってこと?」 偉そうなことを言って、僕らが関係を途絶えさせようとするたびに、歩み寄ってきたのは君の方だったじゃないか。何か課題や問題があるたびに、僕を頼ってきたのは君じゃないか。自分のしてきたことを、本当に忘れているのだろうか。 「そうか、じゃあ君は依存なんてしてないのかもね、でも、もし僕が君を心の支えにしていたのだとしたら、それは僕自身の弱さなんだと思うんだ」 そんな理不尽に対する怒りを、僕は弱さを吐露することによってかき消してしまった。 別れ際に、好きだった人を悪くいうのは、男が廃るような気がした 「うん、そうだね」 「だから、僕は決着をつけたかったんだ。好き、と声を大にして言えない以上、心のどこかにこの関係性に違和感を抱いている以上、はっきりとけりをつけて置きたかったんだ」 そう言い切ってから僕は残った日本酒を飲み干す。ほんのりとした甘さが、今は至極うざったく感じた。 「それだけ?」 でも僕の大それた語りは、どうも彼女の興味を引かなかったらしい。僕はこくりと首を縦に振ると、彼女は気の抜けたような表情を見せた。 「なんだ、色々っていうからもっとあるのかと思ってたのに、全然ないじゃん」 「まあ、うん、そうなんだけど、じゃあ君は?」 「私?」 うーんと首を捻りながらも、なおも視線はスマートフォンに釘付けになっている。人が話している時にとるそんな態度にも、僕はムカッとする。 「まあ私が言い出したことだからあれだけど、確かに後半になってこの曖昧な関係性、まあ確かに書類上は夫婦だけど、そこにあんまり愛情がない以上これを続けるかは疑問だったよね。それでのらりくらりと今までこの関係を続けてきたけれど、はっきり言うと私はそう言うのは嫌だし、この先君に対して昔のような感情を持つかって言われたら多分無理だろうし、だから、私も決着をつけて置きたかったんだ」 本当に、本当に自分が何を言っているのかわかるのだろうか。僕は酷く臆病な人間だ。一度距離を置かれたら、僕は自らそれを縮めに行こうなどとは思わない。でも離れるたびに、それが例え最終的に僕から行く形になっても、きっかけを作っていたのはいつも君だった。本当は結婚する時だって、僕は心のどこかでこのまま別れて、友達として付き合い続けても僕らの関係は破綻しないんじゃないかと考えていた。でもプロポーズをしたのが僕でも、結婚を先に提案してきたのは君だったじゃないか。 ああ、何もわからない。本当に君が何を考えているかなんて分からない。僕は君が嫌いだ。そう言うところが、本当に本当に大嫌いだ。 でも、ならどうして僕はこんなにも名残惜しさを感じているんだろう。何故目頭が熱くなっているのだろう。どうして、心の奥深くで、嫌だ、行かないでくれと叫んでいるのだろう。 口の中の甘ったるさは、全てを知っているような気がしたけど、飲み込んだツバは、ただただ苦しかった。 「...そっか」 それきり会話は途絶えてしまった。 何も入っていない日本酒の瓶を飲むふりをして、乱暴にそれを床におく。色んなことが頭の中を巡るのに、結局言葉にすることはなく、その後互いに携帯をいじって就寝するまで、交わした言葉は「おやすみ」の一言だけだった。
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