新訳:別れの旅人「前書き」

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自分が昔書いた作品に今更手を加えようと思ったのは、あの時書いた状況に、僕が立たされているからだ。あの時あの小説の中で強調したかったのは「私のことを全部わかった風に決めつけて、勝手に判断しないで」とあの人に言われた言葉だったのだが、その言葉だけを書くためにわざわざ当時のコンテストの題目であった「コタツ」を作中に登場させ、そうして離婚などと言う経験したこともないシチュエーションを用いた結果、僕は未来予測的なことを無意識のうちに行なっていたようである。 もちろんまだ離婚はおろか結婚すらしていないのだが、僕はよく物語に用いていた「あの人」と、ついこの間永遠の他人となってしまった。 物理的距離が離れていれば、SNSが発達している世の中で、永遠の他人になることはいとも簡単なことである。連絡先から関連する情報まで、全てをブロックしてしまえばいいのだ。そうすれば向こうの近状が自分に伝わることもなく、連絡も取れなくなるから「永遠の他人」なのである。 でも永遠の他人になって、かつてないほどの絶望に苛まれている自分がいることは否定できない。そしてそれはちょうどあの「別れの旅人」のシーンに酷似していたのだ(別れの旅人、佐々谷 燈の作品と検索すれば出てくるだろう。コタツをお題にしたコンテストで佳作をとっているが、あれは僕である。パスワードを忘れてログインできなくなって以来このアカウントを使っているが、どうか盗作だと勘違いしないでほしい)。 今回書く上で僕がタイトルに「新」ではなく「新訳」と名付けたのは、そこにそれが太宰治の「新ハムレット」のように元の著作をアレンジしたものではなく、まるでサリンジャーの「The Catcher in the Rye」を日本語という全く別の言語を通して「ライ麦畑でつかまえて」と翻訳するかのように、あの物語を今の自分を「通じて」僕の言葉に訳した、と勝手に思い込んでいるからだ。だから話の本筋はほとんど一緒である。違うのは、主人公の言葉とか、奥さんのセリフとか、お淑やかさの欠如とか、僕が初期の頃に伝えようとしていたセリフの削除とか、それくらいなのである。 あの物語を読みながら「翻訳」を試みた訳なのだが、やはり二年前と今では文章の好みが違う。僕は最近太宰の読みすぎで、もしかしたら読者諸君は太宰の影響をところどころ見つけるかもしれないが、それでも僕はそれが恥だとは思っていないし、それは大して問題ではないのだ。 僕は、今絶望の真っ只中にいる。 失恋とは、意外と人間を簡単に壊してしまうものなのかもしれない。しかも失恋の悪いところは「元に戻れるかもしれない」という根拠なき希望的観測が、失恋について考えれば考えるほど生まれてきてしまうのだ。 そしてそいつが絶対にありえないとわかっているから、なおさら悲しくなる。 でも、僕はそういうことを考えているとふと思ってしまうのだ。僕はあの人がいないと、何もないのかと。あの人について以外に小説がかけないのか、と。 そしてもしそうなら、僕は全く無意味な存在なのだ。 でもあの人が僕の中で意味を持っていたのは、僕の人生の七分の一程度だ。残りの六のなかに、彼女はいなかった。 そう思うと、僕は僕なのだと思う。 この本は恨みつらみを書きたかったわけではない。昔の栄光にすがりたいわけでもない。 ただ等身大の僕を、ここに写したかっただけなのだ。 書いている途中に、涙目になった。 やっぱり好きだったのだ。どんなに言い訳をしようとも。 でももう「永遠の他人」となってしまった以上、僕を支えるものはいなくなってしまった。 果たしてそうなのだろうか。 僕を救えるのは、僕自身だけだろうに。 そう考えると、僕はここで立ち止まってなんていられないような気がするのだ。 やらなきゃいけないことがたくさんある。会わなければならない人がたくさんいる。救わなきゃいけいない自分がいる。 泣くのは、後悔するのは、それが全部終わってからだ。 空を見上げて、深呼吸をして、僕は書く。この「新訳:別れの旅人」に、全ての思いを込めて。 佐々木 トモル
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