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5章
この工業街――。
歯車の街を男性の身体に例えるなら、間違いなく股間だ。
いわゆる歓楽街で、夜の間だけその本性を表す。
もしストリング帝国の住民がこの街に来たら、その毒気にやられて2度と元の生活には戻れないだろう。
何故ならばストリング帝国の住民たちは、労働などしたこともないし、アルコールも煙草もやらない。
ギャンブルも娼婦や男娼相手に遊びもしないからだ。
完全無菌状態の人間にとって、この街は麻薬のようなものだ。
一度味わえば、もうその魅惑からは逃れられない。
アンたちは、クリアの助言を聞いて、夜から聞き込みを開始することにした。
クリアは別れ際に「よかったら聞き込みが終わってからでも、夕食をうちへ食べに来て」と丁寧に言ってくれた。
そんな彼女のご厚意にアンたちは、すっかり甘える気でいる。
「今からクリアの料理が楽しみだね」
「そうだな」
クロムがクリアの料理を楽しみにしていると、ロミーが同意していた。
いつもと同じで無愛想だったが、彼女にしてはめずらしい。
「お前たちはしゃぎ過ぎだぞ。次は大人しくしていろよ。そう何度も家の中で暴れられたらクリアに迷惑だ」
アンの言葉を聞いたロミーは、何か言いたそうな顔をしていたが黙っていた。
そんな彼女の両肩に両手で掴んだクロムが耳元で「ちゃんと我慢できたねぇ、偉い偉い」と小声で言っている。
ニコとルーは、そんな2人のマネをしてか、同じような体勢になっていた。
「ところで聞き込みというのは、どうすればいいんだ?」
「ただ道行く人に訊けばいい。そんなこともわからないのか」
アンの言葉を聞いたロミーが冷たく言った。
歯を食いしばったアンは、それを堪えて言葉を続ける。
ただ闇雲に訊いて回っていても埒が明かないのではないかと。
「それなら……」
その質問に対してルーザーが答えた。
情報が集まりそうなところといえば酒場。
もしアンの捜している人物である――シープ·グレイがアルコールを嗜むのなら、かなりの確率で1度くらいは利用しているはずだと言う。
「すごいぞルーザー。さすがは世界を救った“元英雄”だな」
――アン。
「ジイさんといっても“元英雄”だけのことはある」
――ロミー
「だねだね。さすが“元英雄”ッ!!!」
――クロム。
各々が彼を褒めた。
ニコとルーもルーザーを称えるように、彼の周りを飛び跳ねている。
「そんな元、元言わんでも……。しかも英雄は関係なくないか……」
だが、ルーザーはあまり嬉しそうにはしていなかった。
それから酒場へと向かうアンたち。
すっくり暗くなった街の中にも、昼間と同じように歯車の音が聞こえ、蒸気の煙が漂っている。
そのせいかロミーやクロムは、度々咳き込んでいた。
アンが心配して声をかけると、2人は揃ってここは空気が悪いと返した。
無理もない。
ロミーやクロムは、隣の大陸――雪の大地で育ったのだ。
過酷な環境ではあるが、澄んだ空気が吹く大自然の中で生活をしていた2人にとって、油の匂いや、煙突から出るモクモクとした蒸気は受け付けないだろう。
心なしか電気仕掛けであるルーも煙たそうにしている。
アンが「ルーザーは平気なのか?」訊ねると、彼はどうしただがわからないが、大丈夫だと返した。
「さすがは世界を救った元――」
「そのくだりはやめろ」
辟易した様子のルーザーが、彼女を遮って言った。
それから、しばらく歩くと酒場を発見した。
石造りの2階建ての建物だ。
日に焼けて褪色した壁には、ところところヒビが入っている。
アンは、スイング式の扉を開けて中へと入った。
むッとする酒の匂いが鼻につく。
店内は外に負けないくらい薄暗い。
中にいた果実酒の瓶を握って呷っている男たちが、一斉にアンたちを見た。
そんな視線を気にせずに、アンはカウンターへと向かう。
カウンターのテーブルを指でトントンと叩く。
ベタついた感触がアンの指に残って、彼女は内心で気持ち悪いと思った。
酒場の主人は、アンを見て近づいてくる。
飲食業をやっているというのに、酷く脂ぎった不潔そうな男だった。
アンは酒場の主人に、手書きで書いたグレイの似顔絵を見せた。
「この男がこの店に来なかったか?」
「さあ」
興味なさそうに言う酒場の主人。
その返事は早過ぎだった。
アンがその態度に苛立って、注意しようとすると――。
「まあまあ。ところで主人。注文をいいかな」
ルーザーが間に入ってくる。
アンは、なるほど、と思った。
ここは酒場なのだ。
まずは、アルコールを頼むのが礼儀であろうと思ったのだ。
「コーラハイボールを1つ」
「コーラハイボール? 爺さん、そんな酒はねえよ」
酒場の主人がそう言うと、店内にいた他の客たちが大笑いし出す。
――コーラハイボールってなんだよ?
――さあな。きっと女子供が飲むような洒落た酒だろう? だって、実際にこの爺は子供連れてるしよ。
ルーザーを侮辱するような言葉が、一斉にアンたちに向けられた。
アンは機械の右腕に力を込め、ロミーも腰に帯びたカトラスを握る。
2人とも無表情だったが、傍にいたクロムとニコ、そしてルーが、そんな彼女たちに気がついて慌てて止めた。
「なあ、爺さん」
客の1人がヘラヘラとルーザーへ近寄ってくる。
その手には果実酒の瓶が握られていた。
「なんだったら俺が1杯おごるぜ」
「ありがたいな。 せっかくだし頂くとしようか」
ルーザーは笑みを返すと――。
バリーンッ!!!
突然ルーザーの頭に、果実酒の瓶が叩きつけられた。
倒れるルーザーに、アンたちが駆け寄る。
瓶の破片で切ったのか、ルーザーの頭から血が流れていた。
おまけに中に入っていた果実酒で、着ていたボロボロの法衣がずぶ濡れになってしまっている。
「ここはジジイや子供の来るとこじゃねえんだよ。ミルクでも飲んでさっさと帰りやがれ」
男はそう言うと、千鳥足で店を出て行った。
その姿を見たアンは怒りに震えた。
大の男が、小柄な老人を相手にすることではない。
そう思うと自分を抑えられなくなった。
「アン、いいんだ。気にしなくていい」
そう言ったルーザーは、顔のかかった血を拭うと、酒場の主人に果実酒とレモネードを注文し、空いているテーブルにアンたちを座らせた。
だが、アンはまだ苛立っていそうだ。
そんな彼女を見たせいか、冷静になったロミーがルーザーに訊く。
「どうしてあいつらにやり返さないんだ。ジイさんなら簡単だろう?」
ルーザーは果実酒をグラスについで、それをゆっくりと飲み始めた。
そして、ロミーに向かってニコッと笑う。
「むやみに力を使うものじゃない。それに、ただ私が殴られただけだよ。お前たちがケガをしたわけじゃないからな」
聞いていたアンが俯く。
……っく、クリアの前で、自分は年齢よりも大人だと言っておきながら、この体たらく。
これじゃロミーの言う通り、年齢よりも子供じゃないか……。
アンは彼の言葉を聞いて、自分が酷く子供だと感じていた。
そんな彼女に向かって、ルーザーが微笑む。
「だが、正直苛立ってはいるよ。さっきの男の顔に掌を当てて吹き飛ばしてやりたい気分だ」
「……ルーザー」
「ふふ、この歳になっても私はまだまだ子供だな」
その言葉に、全員の顔に笑みを浮かんだ。
アンは、自分を落として励ましてくれたルーザーに、内心で礼を言う。
それから酒場で聞き込み始め、何人かがグレイのことを店で見たという情報を手に入れた。
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