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なにもかも、いやになった。
会社では「誰々さんを見習え」と言われ、席に着いた途端に同僚から「適当にやればいいのに。真面目すぎるから、なんでも目立っちゃうんだよ」と言われる。
適当、ですか。あなたみたいに要領よく生きられたら良かった。そうしたら、こんなに心が痛むこともなかっただろう。
しょんぼりした気分を引きずって仕事を続ける。席を外して廊下に出ると、さっき「適当にやればいいのに」と言った同僚が、パウダールームで他の女の子と話をしている声が聞こえてくる。
「まったくさあ、あの子。要領が悪いくせに『がんばってますアピール』しかしないから。だから叱られるんじゃないの」
「ホントだよね。あの人、仕事しか人生の楽しみがないんじゃないの」
そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。よくわからない、でも反論する気も起きない。
タイムカードを押して外に出れば出たで、きらびやかに着飾った若い女の子たちが目の前を行き過ぎる。彼女たちはメイクも上手で、パッと見た肌もシミひとつなく、なによりも瞳がキラキラ輝いている。黄昏時の街の中、バラや胡蝶蘭が咲いたようにも見えなくもない。
そうか、もうすぐクリスマスなんだな。なんか忘れちゃったな、子供のころはクリスマスという言葉だけでうれしくなったのに。
なんで、うれしくなくなっちゃったんだろう?
考えるのも面倒くさくなってきたと同時、不意に鼻の頭が熱くなった。ぐしぐしと鼻と目をこすり、地下鉄改札へと急ぐ。
きっと、こんなヤツ、挙動不審の女に違いない。
自分を客観視すると、やっぱりもう、限界なんだろうと痛感する。来たばかりの電車に乗り込むことも忘れて、ぼうっと閉じるドアを見ていた。
そのとき。
背後から、わたしの手を取って引っ張る存在があった。
「危ない……!」
切羽詰った男の声に、力なく振り向く。
異常にほっそりした体躯に、ピンクの生地にグレーの水玉ネクタイ。白シャツに紺のストライプのスーツ。きれいに散髪された七三に分けた黒髪と白い肌。ぱっと目に入ってきたのは、それくらい。
彼は整った眉をひそめ、少し怒ったように薄い唇を動かす。
「その黄色い線から、外に出たら危ないでしょう? 轢かれても文句が言えないんですよ?」
「あ、ああ……すみません」
この人は、わたしを叱ってくれているのだろうか。とりあえず謝っておいたらいいんだよね、こういうときって。そしたら一番、カドが立たないんだよね。
「すみませんでした」
もう一度、小さな声で言ってから頭を下げる。お願いです。疑わしい物を見る目つきで、そんなジロジロ見ないでくださいませんか。
「……なんだか、あなたが死にたそうに見えたんだ。でも」
「でも?」
「通勤時間で、こんなにホームに人がいて、皆にそれぞれ帰りたい家があってもさ。引き止めなきゃ良かったのかな。あなたを」
この人が言いたいことが即座に理解できた。
大勢の他人に迷惑を掛けても、わたしを死なせてやればよかったと。
「そうかもしれません」
「バカか、あんたは」
怒りを噛み殺したような、冷たい声が聞こえてくる。わたしは、ふたたびうなだれた。
「はい」
だってわたし、今、なにも持っていないんだもの。誇れるようなものも、大切にしたいものも、なにもないんだもの。
「……そんなに疲れてんのか、あんた」
ぼそっ、とこぼれ聞こえた声を聞き届けたとき、涙がぼろぼろと出てきた。もう顔を上げられない。きっと今のわたしは醜い。
ホームの床に、ぽたぽたと涙のしずくが落ちている。ああ、泣くってことは、まだ自分は生きたいのかもしれないな。でも、よくわかんないな。
もっと強かったら、思い切ってホームから飛び込めたのかもしれないな。そんなことくらいの強さが、あればよかったのにな。そんなことくらいも、わたしにはできない。
少しして、わたしの身からバッグの分だけ重さが減った。
「どうせ死ぬんだから、ちょっとだけ付き合ってくれませんか」
下を向いているわたしに、さっきの男が話しかけている。
「聞こえた?」
うなずくと、男が一歩だけ踏み出す気配がする。
「顔を上げて。それから、ぼくに付いてきてくれませんか」
バッグを取り上げた男が言う言葉は、なぜかこの世で、一番あたたかくて優しい響きに聞こえた。あくまでも、わたしの中では。
でも。付いてく、って、どこに。
男は顔を上げたわたしの手を取って、自分の手とつないだ。驚く間もなく、どんどん改札口へと歩いていく。
「ちょ」
「待たない」
男はわたしの言葉を強くさえぎり、ものすごい勢いで改札口を抜けた。細身の体からは想像も出来ないような力強さだ。
わたしは彼のあとに続いている。
「……バッグだけでも返してください」
「今はダメです」
今は? この人、なに言っているの?
それに、わたしもバッグなんか心配してて。頭おかしくなっちゃったんじゃないの。
引きずられるように駅敷地内を出る。
いつのまにか、きらめく夜空の下にいた。正確に言えば、公園のベンチが眼前にある状態。
「座って」
男は有無を言わさぬ口調で、わたしをベンチへと座らせる。それから静かに、横に腰を降ろした。
「あなたがなにも言いたくなければ、なにも言わなくていいんですけどね」
わたしはうつむいたままで、彼の言葉を聞いている。いまさら、顔を上げて会話なんか出来るわけない。
「ぼくの言いたいこと、聞いてくれますかね」
「はい」
全身から絞り出した返事に、ほっとしたため息が返ってくる。
男のやわらかい、あたたかい声が聴こえてくる。噛んで含めるような、物を知らない子供に対して諭すような、そんな響き。
「一期一会って言葉もありますから、あなたとこうやって関わっただけのこともあるから、言いますけれども」
「ええ」
「ぼく、未来の、あなたの子供なんです」
ああそうですか、え、今なんて言いましたか。
男は顔を上げたわたしに、とてもうれしそうに笑った。
「あなたが心配だった。ずっと、来たいと思っていました。ずっと、です。本当に」
いや、あなたの言うことなすこと全部が意味不明なんですけれども。
彼はわたしの、目尻に伝う涙を拭った。
指先が震えている。
「おかあさんが、どんな人なのか、確かめたかった。本当に逢いたかった。間に合ってよかった」
絶句するわたしに、彼はさらに目尻に沢山の皺を作った。
「ぼく、シンゴっていいます」
「シンゴさん」
「慎むに、明眸皓歯の、コウの字を書きます。あなたが一生懸命に考えてくれた名前なんですよ」
「は、話が唐突すぎて、よくわかりませんが」
ははっ、とシンゴは笑った。瞳が潤んでいるように見える。
「わからなくてもいいです。あなた、お尻の右側に、大きなほくろがあるでしょ。同じところに、ぼくにもあるんです」
「なんでそれを」
「だって、あなたの子供だから」
わたしの目から訳のわからない涙が、あとからあとから溢れてくる。
「心配していたんだ、ずっと」
「そう」
シンゴの両手は、わたしの震える手を握りしめる。ぎゅっとされた手は、つめたくなくなった。
「なにかぼくに、して欲しいことはありませんか」
「あ、頭を撫でて欲しいです」
彼は片手を外し、ゆっくりと頭を撫でてくれた。そして、わたしの耳元で囁き続ける。
「がんばらなくていいから、生きてください。ぼくは、あなたが笑っていることだけが望みなんだ」
わたしの手を握りしめる慎皓の手の力が、段々と強くなっていく。もう、さみしくならなくていい。
もう、さみしくならなくていい。
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