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(‥‥とにかく、お給料は来週の水曜入るし‥‥先月どのくらい残業したっけ?)
頭の中で必死に家計の算段をしながら、今日も日が暮れてから、夜勤のアルバイトに向かう。
先月はよく残業したし、学生のアルバイトが試験期間だとかで、その肩代わりもしていたから、かなり多めに給料が入るはず。
それで滞納している家賃もきっと払える。
そう考えつつ、自分を鼓舞してバイト先の扉の前に立った郁は、どこかおかしい光景に首を傾げた。
「‥‥あれ‥‥?」
いつもこうこうと電気が点いているはずなのに、窓から見える中の様子は真っ暗で、人影も全く見当たらない。
「‥‥おかしいな、今日休業日じゃないよね‥‥?」
郁の職場は、焼き菓子を製造する小さな工場で、月曜日以外は毎日営業。今日は木曜日なので、休みのはずはない。
どことなく嫌な予感を覚えながら、入口に足を進めていくと、工場の扉に一枚の張り紙がしてあった。
「‥‥従業員の皆様、申し訳ありません‥‥もうこの工場を続けていくことは出来ません‥‥?」
手書きで、しかも殴り書きのような文字で書かれた文章の意味するところはすなわち、
「夜逃げみたいよ、夜逃げ」
青ざめた顔で郁が振り返ると、青果の卸業者として出入りしていたおばさんが立っていた。
「ちょっと前から私らへの金払いも悪かったんだけど、ついに立ち行かなくなったんだねー」
「え‥‥じゃあもう、工場閉鎖ってことですか‥‥?」
「ここのショバ代も全部踏み倒して逃げたらしいから、そうなんじゃない?‥‥あなた、見かけたことあるけど従業員?」
「はい‥‥あの、こういう場合って先月分のお給料とかどうなるんですかね‥‥?」
「そんなもん払えるんだったら、こんな逃げ方してないでしょ。‥‥まぁ、どっかに相談すれば未払い分払ってもらえるかもしれないけど、時間かかるんじゃないかなぁ。可哀想だけど、諦めた方がいいかもね」
そう言って、おばさんは憐れむように郁の肩を叩いて去って行った。
数秒後、郁は壊れた人形のように、かくんと膝から崩れ落ちてしまった。
「う‥‥嘘でしょおおぉぉ‥‥」
―――よりにもよって、いつも以上にお金が必要な今月に限って、何故こんなことに。
母が亡くなり、父が家を空けがちになってから、色々な苦労を抱えつつも、なんとか弟妹と生活してきたけれど、これはかなりのピンチかもしれない。
通行人に奇異の目を向けられてもなお、郁はその場から動くことが出来なかった。
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