番外編「Hear My Voice」act.08

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番外編「Hear My Voice」act.08

 ショーンの飲酒騒動があった翌朝、案の定ショーンの記憶は、昨夜パーティーに参加したところからすっぱりなくなっていた。  羽柴は、ショーンが起きる前に会社に出かけ、ショーンがベッドで身体を起こす頃には、ベッドの隣はもぬけの殻だった。 「……うぅ……」  別に頭が痛い訳ではなかったが、身体はやたらと重い。 「昨日どうしたんだっけ……」  ショーンは目を擦りながら身体を起こすと、自分の格好を見てギョッとした。  裸だ。  裸だった。  多分、シーツの中に隠れている下半身も、肌に直接当たるシーツの感触からいって、間違いなく何もつけていない。  いつもは大抵パジャマかTシャツと半パンという格好で寝ているはずなので、この状況は明らかに昨夜『いたした』ということだ。  自分の身体を見下ろすと、ところどころショーンの『いいところ』にキスマークまでついている。  ── え、えええ~~~~~!  ショーンは、わしゃわしゃに寝乱れた髪を更にぐしゃぐしゃにした。  怖々、シーツの中を覗き込む。  形跡はない。  どうやら羽柴が終わった後、キレイに拭ってしまったのか。  それとも、寝る前にただじゃれついてただけなのか。  ── そうだよ、きっとそうだ。  ショーンは、うんと一人納得して、ベッドから降りようとした。 「うっ!」  腰に力を入れた途端、鈍い痛みに襲われて、シーツの上に身体を折った。 「あた、あたたたた……」  呻き声をあげたほどの大きな痛みではなかったが、思いも寄らぬところからの疼痛に、ちょっとビックリしてしまった。  しばらくベッドに突っ伏したまま、考えを巡らせた。  ショーンは恐る恐る、ズキズキと充血した感覚があるソコにそろりと手を這わせる。  ── 何だか、何かが挟まってるみたい……。  そう思った瞬間、ショーンはガバリと身体を起こした。  疼痛が指している意味を考えついて、ショーンの顔は蒼白になった。  ── えっ、えええ~~~~~~!!!  ショーンは、慌てて周囲をキョロキョロと見回した。  ベッドサイドのデジタル時計を見る。  当然もう、羽柴はとっくの昔に会社に着いている時間帯だ。  これでは、羽柴にも何があったか、訊きようがない。  よもや、「昨夜、俺達、ついに最後までセックスした?」だなんて、会社にまで電話かけてなんて訊けない。  ── ……どうしよう……。どうしよう、どうしよう…………。  ショーンは再び、意味もなく周囲をキョロキョロ見回した。  そうすることで何かが好転するわけでもなかったが、落ち着いてはいられなかった。  昨夜の記憶がなくなっているのは、パーティーで無理矢理飲まされた酒が原因であることはわかっている。  けれど、そのせいで自分が大切な瞬間まで忘れてしまっているかもしれないという事実は、恐怖以外の何物でもなかった。  ── まさか……いくらなんでも、そりゃないよ…………。  ショーンは乾いた笑顔を浮かべ、取り敢えずベッドから起き出す。  側のクローゼットに思わず手をついた。  やっぱり、そこが痛い。  我慢できないほどの痛みではなかったが、違和感はある。  腰から下が鈍く痺れているようで、まるで鉛の靴でも履いているようだ。  ショーンは何とか自分を奮い立たせて着替えると、腰に手をやったまま一階に下りた。  洗面所で顔を洗った後、少し伸びた髭を剃りながら、鏡に映った充血した自分の目を発見する。  夜更かしした証拠だ。  ショーンは、ハッとして声を出してみた。 「あ~~~~~」  今日始めてまともに出した声は、やはりしゃがれていた。  どうやら昨夜、羽柴とそういうことをしたことは間違いない。  ただ問題なのは、『どこまでしたか』だ。  髭を剃り終わった後、ダイニングキッチンに行って愕然とした。  簡単な朝食 ── 目玉焼きにポークソーセージ、ドライフルーツ入りのシリアルに野菜のコンソメスープ ── が並んだテーブルの片隅に、羽柴のメモ書きが残されていたのだ。  それにはこう書かれていた。 『ねぼすけさん、おはよう。スープは温め直すように。喉にいいアップルビネガーが冷蔵庫に入ってるから、水で薄めて飲むこと。それから、昨夜はとても可愛かったよ。今日一日は、昨日無理した腰のために養生すること』 「うわ!」  ショーンは短く叫んで、メモをテーブルの上に放り投げ、両手を頭の上にのせた。 「ウソ、ウソ! ウソだろ!!」  ひらりと舞ったメモが、ぺしゃりと目玉焼きの上にくっつく。  ショーンは両手を頭の上にのせた姿勢のまま、目を凝らして再度メモを読んだ。 「……やっばい……。やっぱ、やっちゃったんだ、俺…………」  そう呟いたら、何か泣けてきた。  鼻の奥がツンとなって、目頭がジワリと熱くなる。  何と情けないことか。  肝心な『初体験』を、酒に酔っぱらったせいで覚えてないだなんて。 「── 最低だ……俺」  もうすっかり食欲もなくなって、ショーンはふらふらとテラスに出た。  ショーンのどんよりな気分とはうって変わって、今日の空は快晴である。  爽やかな朝の風が吹く度に緑濃いハーブが揺れ、青々とした香りが漂う。  しかし、そんな清々しい朝の風景を見ても、ショーンの気分は晴れなかった。  木製の椅子に膝を抱えて座り、ズキズキと疼く下半身の痛みを感じていた。  鼻をグスグスといわせる。  完全に気分は真っ暗だ。  身体が痛いのは、別に構わなかった。  それは羽柴と愛し合った結果だし、それを思うと『甘い痛み』である。  なのに肝心の記憶がない、だなんて。  しかも、酔った勢いでやっちゃったなんて。  自分にも悪い気がしたし、羽柴に対しても悪い気がした。  ── 初めて互いの身体を繋げた日のことを覚えてないだなんて言ったら、コウはどんな顔するだろう…………。  そう思ったら、また泣けてきた。  ショーンの『初めて』を、熱望していたのはむしろ羽柴でなく、ショーンの方だったのに。  羽柴はいつも、「無理してまで身体を繋げる必要はない」と言ってくれていた。  それもこれも、ショーンの身体を思ってくれてのことだ。  だからきっと、昨夜強引にねだったのは、自分だったに違いない。  羽柴の方が無理矢理最後までやるとは、到底思えない。  それなのに、肝心の自分に記憶がない、だなんて。 「こんなの……反省してもしたりないよ……」  今まで下半身の方が重たく鉛のようだったが、今度は頭の方が重たくて仕方なくなって、ショーンはガックリと頭を垂れた。  しばらく、その体勢のまま、風に吹かれる。  その内、リビングの電話が鳴り始めた。  のそりと身体を起こして、何とか電話を取る。  電話の相手は、シンシアだった。 『ハーイ、ショーン』 「あー、シンシア…………」 『今夜、ニューヨークに帰るから、その前にランチでも一緒しない?』 「あー……、うん…………」 『ちょっと何? 何か、あったの?』  シンシアとショーンが顔を合わせたのは、つい昨日のことだ。  シンシアの声が曇った。 『まさか、ほんの少しの間に、早くも倦怠期を迎えたっていうんじゃないでしょうね?』 「ううん……まさか……。むしろ仲良すぎて、困ったことに……」 『何言ってんの? 言ってることがわからない。ちょっと今から出てきなさいよ』  シンシアはそう言って、イタリアンレストランの名前を出した。ショーンが以前、マックス・ローズに連れられて行ったことがある店だ。  時間はランチというには少し早い時間帯だったが、シンシアにしてみれば、そんなこと構ってられないと言ったところだろう。  しかしショーンは渋り顔だった。 「えー……、だって今日一日は腰を労って養生しろって言われてる……」 『腰? ケガでもしたの?』 「ううん、そんなんじゃなくて……」 『じゃ、平気よ。レストランで食事するぐらい』 「でも、コウが用意してくれたブランチがあるし……」 『じゃ、落ち込んだ状態で、今日一日一人お籠もりしても平気って訳だ』  そう言われ、う~んとショーンは唸った。 「多分……平気じゃない……」 『ほら、みなさい。羽柴さんの手料理があるんじゃ、仕方ないわね。私がテイクアウト買っていくから、そのまま大人しく部屋にいなさい』  ショーンが返事する前に、電話は切れた。  まったくもって、タイミングのいい『お姉さん』だ。  ショーンが落ち込んでいる時に限って、電話がかかってくる。  日本から帰ってきて一週間、羽柴にお預けを食らっている間、ニューヨークのホテルで寂しさが頂点に達した時に、偶然シンシアから電話がかかってきたことがある。丁度今みたいに。  どうやらシンシアは、そういうのを敏感に嗅ぎ分ける嗅覚か、それとも未来を予知する能力でもあるのかもしれない。  ショーンがそんなことを思いながら、リビングのソファーでだらりとしていると、チャイムが鳴った。  ── スゴイ。まだ三十分しか経ってないのに。  ショーンは壁掛け時計をチラリと見た後、重い腰を引きずって玄関のドアを開けた。  目の覚めるようなスカイブルーのショートワンピースにジーンズをセンス良くあわせているシンシアが立っていた。  その華やかな色に思わず目をやられ、ショーンは充血したそこを手で覆った。  その反応に、シンシアはあからさまに呆れた表情を浮かべた。 「あなた、本当に十代? 階段を上がる様は、まるでお爺ちゃんね」 「来週には二十歳になるから、もうほとんど十代じゃない」  ショーンが屁理屈を言ってみても、クールなシンシアにはちっとも効果がない。 「そんなしゃがれた声で言われても、説得力ないわ」  それを聞いたショーンは、思わず顔を顰めた。所詮、シンシアに適うわけがない。  ショーンは再びリビングのソファーに突っ伏そうとしたが、その寸前で後ろから首根っこを掴まれ、まるで引きずられるようにダイニングキッチンまで連れて行かれた。 「その調子じゃ、今日朝から何も食べてないんでしょ。だめよ、そんなんじゃ」  そういいながらキッチンに入ったシンシアは、メモ用紙が目玉焼きの上に張り付いたブランチプレートを発見した。 「羽柴さんが作ってくれた食事、すっかり冷めちゃってるじゃない・・・」  シンシアの手がショーンを解放すると、ショーンはだるそうにダイニングテーブルの上に突っ伏すように椅子に座り込んだ。  シンシアは、さり気なくメモ用紙に書いてあるメッセージを読む。  何となく、事情が見えてきた。  シンシアはショーンの向かいに座ると、テイクアウトのキャラメルマキアートに口を付けながら言った。 「で? どうだったの? ついにヴァージン奪われて」  ショーンがガバリと身体を起こす。 「なななななな、何言ってんの?!」  ショーンのこの言い草に、逆にシンシアが顔を顰めた。 「それはこっちの台詞でしょ。今更なによ。メインテーマを隠したまま、今のあなたのメンタルをケアしろっていうの?」  シンシアはそう言って、肩を竦めた。 「ショーンが白状しなくったって、この状況を見たら誰だってわかるわよ。だってあなたは、昨日会った時よりガラガラの声してる。それに顔つきは完全に寝不足の酷い顔つきだし、腰はお爺さんのそれのように重たく折れ曲がってる。それになりより…………」  シンシアは、そこまで言って目玉焼きにくっついていたメモ用紙を摘んで、ショーンの前に翳した。 「愛しのダーリンは、『昨夜は凄く可愛かった。腰を労れ』だなんてメモを残してる。これでわからなきゃバカでしょ」  ショーンの顔がみるみる赤面していく。シンシアは、気のない溜息をついた。 「まったく、あなたのダーリンは本当にスウィートね。日本人って、世間に思われてるほど冷血漢じゃないってことかしら……。で、ホントにどうだったの? 昨夜の感想。落ち込んでるってことは、うまくいかなかった?」  そんな質問をさらりとする冷静なシンシアに比べ、ショーンはまったく正常ではなかった。  真っ赤な顔色のまま、充血した瞳にみるみる涙が溜まっていく。  ── おっと、これは相当深刻そう。  さすがのシンシアも、ショーンの涙を見て少し身体を引いた。  イヤでも、いつぞやの大嵐の夜のことを思い出す。むろん大嵐とは、天候のことではなくショーンの涙腺に起こったことであるが。  あの時ショーンは一晩中涙に暮れて、それはそれは大変だった。 「なぁに? 本当にうまくいかなかったの? 羽柴さんのメモを見る限り、そんな感じは全然しないんだけど」  シンシアは、もう一度耕造のメモ書きに目を落とす。  ちょっと跳ね気味の筆跡が書く甘い言葉は、幸せな雰囲気が滲み出ているし、ショーンのその腰の衰えようを見る限り、もう完全に『ご開通』の証拠以外の何物でもないはずなんだが。  シンシアがショーンを見ると、ショーンは俯いて緩く首を横に振った。ブツブツとしゃがれた声で呟いている。 「え? 何?」  ショーンの声が聞き取れなくて、シンシアは身を乗り出した。  寝乱れたままのぐしゃぐしゃな前髪の合間から、涙に濡れた紅い瞳がシンシアを捉える。 「多分……うまくはいったんだ……。いったんだけど……お、覚えてないんだ…………」 「え?」 「だから、覚えてないの! 昨夜のこと!!」  思わず大声で叫んでしまったショーンは、ゴボゴボと咳き込んでしまう。  シンシアは、自分の飲んでいたキャラメルマキアートを差し出した。  ショーンはまだそれが幾分熱いにも関わらず、ゴクゴクと飲み干した。  シンシアは、キョトンとしたままショーンを見つめた。 「まさか……ショーン、あなた失神しちゃったんだ。セックスの最中に」  そう理解したシンシアは、そう言った後にまるで恥じらうように右手で唇を押さえた。  さすがのシンシアも頬がピンクに染まる。 「そんなに羽柴さんのセックスって、スゴイんだぁ…………」  シンシアはすっかり感心してしまう。  羽柴はショーンより随分年上なのに、若いショーンを昇天させちゃうぐらいセックスが強いだなんて、何だかワクワクしちゃう話題だ。  シンシアは羽柴の姿を思い浮かべながら、「羽柴さん、ガタイいいものねぇ~」だなんて呟く。  ショーンは、シンシアに完全に勘違いされたことに気が付いたらしい。  急に慌てて、「違う! 違うんだよ! そうじゃない!」と切り返す。 「え? 違うの?」  シンシアがそう訊くと、ショーンはウンと頷く。  シンシアは、見るからに落胆の色を見せた。 「なぁんだ。そうじゃないんだ」  そんなシンシアの表情を見て、ショーンはまたもシンシアに誤解されたと思ったらしい。 「いや! 違うよ! コウのセックスは、めちゃめちゃスゴイんだから!」  そう思わず言い出してしまって、ショーンは益々ドツボにはまってしまったようだ。  ハッとした顔つきをして、マジマジとシンシアを見つめ、一度引いていた顔の赤みがまたみるみる増していく。今度はご丁寧に、脂汗まで額に滲ませている。  シンシアは、極度にテレているショーンをほったくったまま、小首を傾げた。 「ん? 何? 何だか論点がわからなくなってきた」  シンシアは一旦席を立って冷蔵庫を開けると、グレープジュースを発見して、それをふたつのグラスに注いだ。  ひとつをテーブルに置き、ひとつを自分ですっかり飲み干すと、一度大きく肩で息をした。 「もう一度整理していい?」  シンシアがそう言うと、ショーンはグレープジュースをちょぴちょぴと啜りながら、頷く。  シンシアは、ショーンの前でその場を言ったり来たりと歩き始める。 「羽柴さんのセックスは、スゴイのね」  ショーンが頷く。 「でも、昨夜失神しちゃった訳じゃないのね」  またまたショーンが頷く。  なんだか際どい会話だが、シンシアはあくまで神妙な顔つきで先を進める。 「でも、覚えてないって言うんだから……」  シンシアはそこでピタリと足を止めて、くるっとショーンに身体を向けた。 「何で覚えてないの」  またもシンシアに小首を傾げられて、ショーンはとうとう白状した。 「 ── 酒に酔ってたから」 「は?」 「だから、酔っぱらってて、何も覚えてないの! 昨夜のこと!」  しばしの沈黙が流れた後、シンシアはショーンの向かいに座って、突如紙袋の中のサンドウィッチを黙々と食べ始めた。 「シ……シンシア?」  シンシアは、ちらりとショーンを見る。 「……な、何か言ってよ」  不安になったショーンがそう問いかけると、シンシアは呆れ顔でこう答えた。 「最悪」 「……だよねぇ……」  ショーンは、再びテーブルに突っ伏した。 「どうすればいいと思う?」  シンシアは、ショーンの分として用意されたスープにまで口を付けながら、「そんなの自業自得じゃない。自分で訊くか、それができなきゃ、しらばっくれるかよ」と答える。 「ど、どっちもイヤだ…………」  ショーンが拗ねてみても、効く相手じゃない。 「じゃ、私が訊く? 絶対羽柴さん、気分悪くするわよ」  ショーンが、頭をずらしてシンシアを見る。  またもや沈黙が流れて、シンシアがジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。 「や! やめて!!」  ショーンはテーブルごし、シンシアの腕に飛びつく。その衝撃が腰に響いて、う~んと唸った。  シンシアは片眉をクイッと上げ、溜息をついた。 「正直に白状するのがいいんじゃないの? きっと羽柴さんだってそんなことで怒ったりしないわよ。── あ、ヤバいヤバい、もう出なきゃ」  携帯電話に表示されている時刻を見て、シンシアは立ち上がった。 「え? 帰っちゃうの?」 「実家にも寄らなきゃいけないから。じゃ、頑張って」  シンシアは、昼食の後で出たゴミを手早く片づけると、そっと優しくショーンの額にキスをした。  ショーンはシンシアを玄関まで見送ろうとしたが、「いいわよ、腰を労らないとダメだから」とシンシアはシニカルな笑みを浮かべ出ていった。  シンシアが出ていった後も、ショーンはしばらくテーブルの上に突っ伏していたが、やがて流石にお腹が空いてきて、モソモソとテーブルの上の料理を食べた。  料理はもちろん冷たくなっていたが、悔しいけどおいしかった。  やはり、愛する人が自分のためを思って作ってくれたものは、どんな風になっていても美味いと感じる。  ── コウは、こんなに俺によくしてくれてるのに、俺ときたら……。  冷めた料理を残らず食べ、食器を食器洗浄機に入れた辺りから、またもや自己嫌悪のムシがムクムクと起きあがってきた。 「ああ、ホント、マジ、サイテー……」  余りに情けなさ過ぎてもはや涙も出ず、ショーンはズズッと鼻を鳴らした。  ショーンはまたもリビングのソファーに突っ伏して、しばらく蝋人形のようにピクリとも動かずにいたが、急に電話が鳴り始めて、ビクッと身体を震わせた。  ── なんだろ、シンシア。忘れ物かな…………。  ショーンはそう思いながらのそのそと身体を起こし、ゆっくりとした動作で受話器を取った。 『 ── ショーン?』  その声を聞いて、さっきよりもずっとショーンの心臓が跳ね上がった。  電話の相手は、シンシアなんかでなく、羽柴だった。  ショーンはあんまりビックリしたものだから、声も出せなかった。  妙な沈黙に羽柴が再び『ショーン?』と声をかけてくる。 「 ── えっと……あ、あの……ハイ、コウ」  ショーンはようやくそう答えることができた。そうすると、何となく落ち着いて、逆に次々矢継ぎ早に言葉が口をついて出てくる。 「どうしたの? こんな時間に電話かけてくるなんて、珍しいじゃない」 『ショーン』 「仕事中なのに大丈夫なの? それとも遅い昼休み? でも、嬉しいよ、声がきけて」 『ショーン』 「俺もさっきコウが作ってくれたブランチを食べたんだ。とっても美味しかった」 『ショーン』  受話器の向こうの羽柴の語気が、少し強まった。  ショーンは思わず口を噤む。  向こうにはとっくに、ショーンの様子がおかしいことに気が付いたようだ。 『やっぱり電話をかけてみてよかった。身体の具合、やっぱり悪いんだろ。声もなんだか鼻声だし。風邪をひいたのかもしれないね。風邪薬、階段の脇の棚に救急ボックスがあるから、それ飲んで』  純粋にショーンの身体を心配している羽柴の様子に、ショーンは益々気分が落ち込んだ。  自分の情けなさが募る。 『ショーン?』  返事を返さないショーンに、羽柴が聞き返してくる。ショーンは深呼吸すると、「風邪なんかひいてないよ。ホント、大丈夫だから、そんなに心配しないで」と小さな声でそう言った。  羽柴はその声にも何かを感じたのか、しばらく沈黙が流れた後、強い意志を感じさせる声で『今日、なるべく早く帰るから』と言った。  ショーンは何とか「うん」と答えて電話を切る。  受話器の向こうの羽柴は、ショーンが電話を切るまで用心深く様子を窺っているような気配を感じさせた。      電話が切れた後も、羽柴はしばらく受話器を見つめていた。  明らかに、彼の恋人は様子がおかしかった。  羽柴の眉間には、みるみる深い皺が刻み込まれた。  ふと、羽柴のデスクのパーテーション越し、隣の席のロジャー・コーエンがにゅっと頭を出していることに気が付いた。ロジャーは羽柴より年下だが額がだいぶ寂しくなってきているので、目元までしか出ていないその様子は、まるでタコ入道のように見えた。 「 ── ロジャー、覗き見とはいただけないな」  羽柴がジロリとロジャーを睨むと、ロジャーは頭だけ出した格好のまま、「愛しのハニーと早くもケンカか?」と言ってきた。  ロジャーは、羽柴の新しい恋人が誰であるか知る、数少ない人物であった。そして、その羽柴の恋人の音楽的才能に心底心酔している人間でもあった。  つまり、ロジャーにとっては、親友である羽柴と自分がファンだったアーティストが真剣に付き合っていることが何より素晴らしいことであるのだ。  それは例え同性同士の世間では認められにくい恋愛であっても、それを超えて余りある幸福感が彼にはあった。だからこそ、彼らの雲行きが怪しくなるのは、彼にとっても死活問題であるわけだ。 「お前、せいぜい愛しのハニーを大事にしろよ。いい加減、その年の差がかなりハンディなんだから」 「そんなの、お前に言われなくてもわかってるよ」  羽柴は、ガジャリと受話器を置いた。  確かに、ロジャーほどではないが、ショーンとの年の差は感じている。それがハンディとなることも。  羽柴は、う~んと大きく息を吐きながら腕を組み、椅子の背もたれに身を預けた。  ロジャーはまだ覗いている。  羽柴は、またチラリとロジャーを見た。 「 ── 今、何時?」  ロジャーが自分の腕時計を見下ろし、「二時四十分」と答える。  羽柴は、またう~んと唸った。 「 ── いいのか? ボスにサボりのウソついてやってもいいぞ」  そう言うロジャーに、羽柴は顔を顰めた。 「それはいくらなんでもできないよ。仕事とプライベートを一緒くたにしたくはない」  羽柴は、苛立たしくパソコンのキーボードをカチカチと叩いて、待機状態のパソコンを起動させた。 「よく言うよ。以前には物凄く仕事とプライベートを混同したくせに……」  ロジャーはそう呟いて、不気味にパーテーションの向こうへと姿を消したのだった。      羽柴は、本当にいつもの時間より早く帰ってきた。  この分だと、会社の就業時間と同時に飛び出してきたに違いない。 「ただいま、ショーン」  玄関のドアが開いて、慌ただしく階段を上がってくる足音が聞こえてきた。  その時ショーンはテラスにいて、膝小僧を抱えて椅子に座っていた。 「そんな寒いところにいて。どうしたんだい?」  背後から羽柴の声が聞こえて、ショーンはやがて椅子ごと羽柴の両腕に包まれた。  ショーンは唇を噛みしめる。  ショーンは羽柴の腕を撫でようとしたが、躊躇うように拳を握りしめた。  ── だって俺には、そんな資格ない。…………最低のヤツなんだもの、俺…………。  そんな様子を、羽柴がじっと見つめているのがわかった。  羽柴が、前に回り込んでくる。  ショーンの前にしゃがみ込んだ羽柴に、じっと顔を見つめられた。  ショーンは、思わず視線を外してしまう。 「本当に身体の具合が悪いんじゃないんだね?」  羽柴はそう念を押してくる。  ショーンを抱きしめた時、彼の体温が平熱であることは既にわかったのだろう。  ショーンはうんうんと頷いた。 「気分が悪い訳でもない?」  そう訊かれ、ショーンはうんと頷く。 「 ── では、なぜそんな悲しい顔をしてるんだい?」  ショーンはハッとして羽柴を見た。  羽柴は、あの漆黒色の瞳で真っ直ぐショーンを見つめていた。 「俺と一緒に生活するのが、辛くなった?」  ショーンがこの部屋に引っ越してきたのはほんの数日前のことだが、羽柴はそのことが彼にストレスを与えていると思ったのだろう。  しかし、そう言われてショックを受けたのはショーンの方だった。  ビクリと身体を震わせ、やがて瞳から大粒の涙が零れた。  羽柴は苦笑いを浮かべ、「泣かなくていい。何も責めてる訳じゃないよ。そういうことを感じても、ちっとも不思議じゃない……」と呟いて、親指でショーンの頬を伝う涙を拭う。  ショーンは、頭を振った。「違う」と言いたかったが、声がすぐには出てこなかった。  だが、やっとショーンは「違う」と言う。 「そんなことじゃない。コウが悪いんじゃない。俺……、俺、自己嫌悪を感じてるんだ。悪いのは、俺なんだ」  いつか、夜の救急病院でのことが思い起こされた。  あの時もショーンは、同じ様な台詞を言ったのだった。  羽柴も、あの時のことを思い出したのだろう。ふっと表情を緩め、「いつか聞いた台詞だな、それは」と呟いた。 「何でショーンが悪いんだ。オジサンにはちんぷんかんぷんの謎々だよ」  羽柴は肩を竦めた。 「何でショーンが悪いのか、言ってごらん」  ショーンは、ぐっと口を引き結んで羽柴を見た。  羽柴は、優しげな目でショーンを見つめている。  どうやら羽柴はショーンが口を開くまで、辛抱強く待つつもりらしい。  ── 本当に……本当にゴメン…………。  ショーンはギュッと顔を顰めた。  ポロリとまた新たな涙が流れる。  その涙をまたも羽柴の指で拭われて、ショーンは口を開いた。 「先に謝っといて、いい?」 「それでショーンの気が晴れるなら」  ショーンはうんと頷いて、「ごめんね。本当に、ごめんなさい」と一気に言った。そしてふぅと息をつく。 「それで? 謝る訳は?」  羽柴にそう訊かれて、ショーンは思いきって口を開いた。 「昨夜……俺達……した、でしょ?」  ショーンがそう切り出すと、羽柴がうんと頷く。  ショーンはそれを見て、── ああ、やっぱり……と内心でまたも落胆した。  わかってはいることだったが、実際にはっきりと肯定されると益々落ち込み感が強くなる。 「よくなかった?」  と羽柴に返されて、ショーンは頬を赤らめながら「違うよ、そんなことじゃなくて」と慌てて言い返した。  羽柴は肩を竦める。 「じゃ、なんだい? 逆に、俺の方によくしてあげられなかったとでも思っているのかい? それなら心配することないじゃないか。俺は十分よかったよ」  メイクラブの感想を述べるにあたっては、羽柴は明け透けだった。  そこら辺は、ショーンの方がまだ羞恥心がある。  ショーンはますます顔を赤らめて、「だから、そんなことじゃないんだって。良いか悪いかって、そういうことじゃない」と言った。  羽柴は更に謎が募ったのか、小首を傾げている。大型獣の何気なく見せる可愛い仕草に、思わず胸がキュンとなってしまうショーンだったが、今は「カワイー」だなんて思っている場合ではない。  ショーンは、何だか勢いでその先を捲し立てた。 「覚えてないんだ。じ、実は。昨夜のこと」  テレ隠しのお陰か、シンシアの前でさえあんなに言い渋っていた言葉がポロリと零れた。  羽柴は、ポカンとしてショーンを見ている。  ショーンは苦々しく口を歪めながら、「ホントに……ホントにごめん、こんなダメな俺で」と小さく呟いた。 「俺、最低だよね。一生で一度の大事な夜のこと、まったく覚えてないだなんて…………。むしろねだってたのは俺の方だってのにさ……。きっと、きっと素敵な夜だったはずなのに、酒のせいで記憶がないだなんて、本当にサイテーだ。だから、コウにも悪いと思ってさ。俺って、コウの恋人失格だよ……」  またもやショーンのマシンガントークが始まる。  一方羽柴としては、怪訝な表情が更に深まった。  確かに昨夜は、これまでの夜とは違った感じで熱い夜に突入したのだが、記憶がなくてそれほど後悔するほどのことはないだろうになぁ……と思うこと仕切りだった。  しかしショーンは、さも深刻そうにどんどんとマシンガントークを続けている。 「今朝だって、コウに身体のこととか心配されてさ。それが返って心苦しくて……。だって俺、忘れちゃってる訳じゃない。初めての夜のこと、忘れてるのに、労ってもらっちゃってさ。そんな資格、全然ないのに、俺ったら……」  ── ははぁ~ん……。  なんとなく羽柴は、話が詠めてきた。  どうやらショーンは、今腰に感じている筈の疼痛を、初めて身体を繋げた痛みだと勘違いしているらしい。  どうやら、羽柴が今朝残したメモの書き方も曖昧だったがために、ショーンの誤解に更に拍車をかけてしまったようだ。  羽柴は、そんなショーンを少しからかってやりたい気もあったが、しかし目の前のショーンの余りの落胆ぶりにそうも言ってられなくなった。  何せ、目の前のショーンは多少やつれてさえ見えるのだ。  まだまだマシンガントークを繰り広げているショーンの口を、羽柴は人差し指でプッと押さえた。  ショーンの唇がアヒルのようになって、ビックリしたように口を噤む。  羽柴は、思わずニコニコと顔を綻ばせた。  ── まったく、とんだ早とちりだよ……。  羽柴はそう思いながら、「昨夜は最後までしてないよ」と、はっきりした声で言った。  ショーンの大きな瞳が、パチパチと瞬きをする。 「昨夜は、最後までしてない」  ようやく、ショーンは羽柴の言ったことを理解したらしい。  その途端全身の力が抜けたのか、はぁ~と大きな息を吐いて、へなへなと椅子から崩れ落ちた。  よっぽど安心したのか、ただ単に緊張の糸が切れたのか、ボンヤリとした顔つきのまま、ボロボロと涙を零していた。  羽柴は自分の足の間に、ショーンを抱き寄せる。 「安心したかい?」  羽柴が後ろからショーンの耳元に囁きかけると、ショーンは声に出さず、それでもうんうんと頷いた。  そしてしばらくそのままでいた。  やがてショーンが落ち着いてくると、ショーンは腕で涙を拭って羽柴の方を振り返った。 「じゃ、なんでお尻、痛いんだろ?」  素朴な疑問が、湧き上がってきたらしい。 「知りたい?」  羽柴が訊くと、またもやうんと頷いた。  羽柴は、バタバタと慌ただしくベッドルームに駆け上がると、ロフトの上から例の真っ黒い『ブツ』をブンブンとバットを振るように持ってきた。 「これのせいだよ」  大きな声で羽柴がそう言うと、テラスにいたショーンの顔色が目に見えてボンッと真っ赤になった。 「俺が泥酔してるのをいいことに、何そんなもの使ってんだよ~~~~~~~!!!」 「え? 使ってって言ったのは、そっちじゃないか」 「そんなことないって! 絶対にない!!!」  こうしてその夜、今度は別の問題が二人の間に勃発したのだった。
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