番外編「Hear My Voice」act.09

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番外編「Hear My Voice」act.09

 5月13日。  それが、羽柴が愛する恋人の誕生日だった。  まさに今日のことだ。  都合がいいことに2006年のその日は土曜日で、羽柴の会社は土日が休みの週休二日だから、丁度都合がいい。  今日、羽柴が愛する人 ── ショーン・クーパーは、20歳を迎える。  21歳から飲酒が許可されるアメリカでは、20歳といっても些か印象が薄いかもしれないが、日本人である羽柴にとってはやはり20歳とは特別な年齢と感じる。  30代後半である自分にとって、付き合っている相手が10代である場合と20代である場合とでは、雲泥の差がある。  そこまで羽柴は思っておいて、そう感じてしまう自分は、やはりショーンとの年齢差を無意識ながらも気にしてるんだな……と思った。  そんな思いを極力感じさせない顔を装って迎えた朝は、記念すべき日というのに雨がしとしとと降っていた。  羽柴がロフトから降りて、リビングの大きな掃き出し窓を開けると、初夏が近づく緩い温さの湿気が部屋の中に入ってきた。  羽柴は窓枠に凭れ外を見上げると、「 ── 雨だなぁ……」と小さく呟いた。 「ジョギング、行けないね」  パジャマ越し、背中に恋人の温かさを感じた羽柴は、ひょいと顔だけ後ろに向けた。  ブランケットを身体に巻き付けたショーンが、羽柴の背中に凭れて、上目遣いでこちらを見上げていた。  上目遣いだからといって、別に媚びている訳ではない。羽柴に寄りかかると、身長差でどうしてもそういう視線になるのだ。  起き抜けでボサボサの赤い髪に、寝ぼけ眼の隙だらけの顔。  今日20歳を迎えるのに、その表情はまだ少年っぽい瑞々しさがある。  ショーンの飾らない……飾らないだけにたまらなく可愛らしいその様子に羽柴の顔は思わず綻び、身体の向きを変えてショーンを抱きすくめると、その額に軽くキスをした。  へへへ……とショーンが擽ったそうに身を捩りながら、小さな笑い声を漏らす。 「 ── くすぐったかった?」  羽柴も笑顔を浮かべたままそう訊くと、ショーンは少し頬を赤らめ、「今日初めてのキスを貰って、思わず顔が緩んじゃったんだよ」と羽柴の逞しい胸板に顔を埋めた。  まるで従順な飼い猫が、ご主人様に甘えるような仕草。 「今日は特別な日だから、好きなだけキスをあげるよ」  羽柴がそう言うと、ショーンがパッと顔を上げた。 「覚えててくれたの?!」  羽柴にとっては、その驚きが正直言って心外だった。  思わず顔を顰めてしまう。 「俺が大切な恋人の誕生日を覚えてないとでも思ったのか?」  羽柴の頭に、また年齢差のことが過ぎる。  ショーンは、羽柴の渋い顔を見て、慌ててギュッと抱きついてきた。 「そんなんじゃないよ! たださ、何か嬉しくて」 「嬉しくて?」  羽柴が訊き返すと、ショーンは「うん」と頷いた。 「今までさ、そりゃいろんな人が誕生日を祝ってくれたけどさ、まさかハタチの誕生日をこうして迎えられるなんてさ……。だって、あのコウゾウ・ハシバが、俺だけのために今こうしてお祝いの言葉を囁いてくれるなんて、夢みたいなんだもん」  ── おい、そりゃお前、俺のこと買いかぶり過ぎじゃないか………。  羽柴は、思わずそう呟き返した。  その後ショーンはムキになって、いかに羽柴が素晴らしい人かということをお得意のマシンガントークにのせて語り始めたが、羽柴にとっては『世界のアイドル』であるショーン・クーパーを自分みたいなオジサンが独り占めしている方こそウソみたいな話だと感じていた。  こりゃいい加減、黙らさないと褒められすぎて全身鳥肌が立ちすぎてしまう……と判断した羽柴は、手っ取り早くショーンの口を熱い口づけで塞いで、「朝飯、食おう」と言いながら、ショーンの小鼻を緩く指で摘んだ。  キスひとつですっかり大人しくなったショーンは、とろんとした顔つきで素直に頷く。  その後は、いつもの朝のように男同士の騒がしい合宿所のような雰囲気になった。  羽柴だけでなくショーンもある程度料理はできるから、朝食の支度はすぐに済む。 「今日はきっと、家の電話は忙しいだろうな」  食後のコーヒーを啜りつつ羽柴がそう言うと、ショーンは口を尖らせて「俺は折角コウと二人きりなんだから、そっとしておいてもらいたいんだけど」と言い返してきた。 「そんなことを言うもんじゃないよ。皆、ショーンのことが大好きなんだからさ………」  と羽柴が呟いた矢先、早速今日一番目の電話のベルが鳴った。  羽柴は、目線だけでショーンに出るように促す。  ショーンは軽い溜息をつきながら、冷蔵庫の横の壁についている電話を取った。 「 ── ハイ、パパ。おはよう。…………うん、ありがとう。俺もとうとう二十代に突入したよ。……うん、うん。そう、もう朝食食べた。……ええ?! いつまで経ってもねぼすけさんじゃないよ」  さっきまで憎まれ口をたたいていた割に、やはり父親からの電話は嬉しいらしい。花のような笑顔を浮かべながら父親の声を聞いているショーンは、とても微笑ましかった。  羽柴が皿の片づけをしていると、ショーンの口調が急に変わった。 「ちょっと、アンタ。一体どういうつもりだよ、アレ!」  羽柴は耳だけショーンの方に向けて食器洗浄機に軽く洗った皿を並べながら、電話の相手がショーンの『天敵』であり『師匠』である男に代わったことを感じた。 「アレのお陰で変な誤解が生まれて、そりゃ酷い思いしたんだから、俺!」  ショーンにしては珍しく、神経質な声で怒鳴っている。  さり気なくショーンに背を向けながら、羽柴はフフッと笑った。  この前、クリスが羽柴家に持ち込んだ『例の物』によって、確かにショーンは涙が出るほどの大きな誤解をしてしまって、酷い思いをすることになった。誤解している間の落ち込みようを考えると、これほど神経質な怒りをクリスにぶつけても、仕方がないだろう。  察しのいいクリスは、何が起こったのか大体わかったのだろう。逆にショーンをからかったのか、それともすっとぼけたのか、益々ショーンからどやされていた。  ショーンとクリスが微笑ましい争いを繰り広げている間に、チャイムが鳴った。  羽柴が玄関ドアの覗き窓から外を確認すると、案の定、宅急便だった。  ドアを開けると配達員が、大きな箱を抱えてそこに立っていた。  差出人は、シンシア・ウォレスからだ。  宛名は羽柴宛だったが、中身はショーンへの誕生日プレゼントだろう。  『ショーン・クーパー』はショーンの本名でもあり、ロックアーティストとしての名前でもあったから、それを宛名にしてしまうと流石にまずい。だからシンシアも気を使ってくれているのだと思う。 「どうもありがとう」  受け取りのサインをしてドアを閉めようとした羽柴だったが、「あああ」と配達員が慌てた声を上げた。 「何?」  羽柴がそう訪ねると、配達員はひきつった顔で、「まだまだあるんです」と言った。  ── あ、他にもあるんだね……と軽く思っていた羽柴だったが、配達員が次から次と運んでくる荷物の量に、流石の羽柴も目を丸めてしまった。  結局プレゼントの量は、それらを積み上げると巨大なクリスマスツリーのような量にまでなってしまった。  電話が終わってキッチンから出てきたショーンも、思わず言葉を失っている。 「どうなってんの? これ…………」  ようやく呟いたショーンに、羽柴が最後に受け取った大きな封筒を渡すと、ショーンが開けたその封筒から、山のような手紙がバサバサバサと落ちてきた。 「わ!!」  自分の足下を埋めるほどの手紙の量に、ショーンは目を白黒させる。  驚きで思わずショーンが放り出した封筒を羽柴が取り上げると、そこにはエニグマ編集部が送り主だとわかった。  目の前に山積みになっているプレゼントのほぼ全てが、エニグマ編集部から送られてきているものだ。  床に拡がる華やかで可愛らしい封筒群の中にエニグマのロゴ付き封筒を見つけ、羽柴はそれを開けた。  その中には、案の定、理沙からの手紙が入っている。 「 ── ショーン、どうやらこれ全部、エニグマ編集部に届いた君へのファンレターと誕生日プレゼントらしいぞ」  二人して、思わず目の前に堆く積まれたプレゼントの山を見上げる。  数ヶ月前、エニグマの紙面で鮮烈な復活劇を遂げたショーン・クーパーと彼の復活を心から待ち望んでいたファンを結ぶ唯一の点が今はエニグマ編集部のみなので、さぞや編集部は異例の騒ぎに心底驚いたであろう。 「……静かに迎えるどころじゃなくなっちゃったね…………」  何ともバツが悪そうに苦笑いしながら、ショーンが言う。そんなショーンを羽柴は軽く小突いた。  羽柴が何を言いたいのかわかったのか、ショーンが「ごめん」と呟く。 「皆、俺のこと想ってくれてるんだよね」 「でも、こんなのバルーン時代にもあったんじゃないか?」  二人でプレゼントの山を少しずつ切り崩しつつ、梱包を開けつつ、しながら羽柴が訊くと、 「バルーン時代は、ほとんどがイアン宛だったからね。バンド全体に宛てたのでなけりゃ、俺の分なんてほとんどなかったよ」  という答えが返ってきた。  内心羽柴は、う~んと唸ってしまう。  今にして思えば、そこにイアンの思惑が絡んでいそうな話だった。  でも今は晴れてそんな束縛もなく、ファンの皆もダイレクトに大好きなショーンに贈り物を届けることができるようになったという訳だ。  結局、プレゼントの開封作業は夕方までかかってしまった。  梱包資材をゴミの日に出しやすい形にまで纏める作業が意外に手間取ってしまい、玄関先に溜まったゴミの量は、まるで引っ越し後の部屋のような感じだ。  羽柴が階段を上がってリビングに取って返すと、プレゼントの品の一つである黒のビキニパンツをショーンが指でつまみ上げている。  羽柴と目が合うと、同時にブッと吹き出した。 「しかし、これってどういう意味のプレゼントなんだろ」 「そりゃ、履いてって意味なんじゃないか」 「履けないでしょ、いくらなんでもこんな小さいの」  ショーンは、両指でパンツを広げる。まるで線のようなパンツのラインに、「こんなの履いたら、お尻丸出しになっちゃうよ」と笑った。 「ま、確かにな」  羽柴もフローリングに直接あぐらをかきながら、それを見上げる。 「大切なものもはみ出るかもしれないしな」 「そんなの、もうパンツの意味をなさないでしょ」  そう言い合って、二人でワハハと笑う。  隣に座ったショーンの手からパンツを受け取って、羽柴はマジマジとそれを見つめた。 「 ── これって、ホントに男性用なのか?」 「コウ、試しにこれ、履いて見せてよ」  羽柴の肩に顎をのっけながら、ショーンがイタズラっぽい表情を浮かべる。  羽柴は、途端に顔を顰めた。 「俺のなんか、絶対に収まる訳ないじゃないか」  別に自慢するわけではないが、自分のモノが人様より立派であることの自覚はある。 「いいんだよ、収まらなくても。それを見るの、俺だけなんだし。きっと凄くセクシーだと思う」  ウキウキした口調でそう言うショーンを見て、羽柴は益々眉間に皺を寄せた。 「何だ、お前。そんな趣味があったのか?」  いつもより悪びれた口調で羽柴が言うと、そんな言葉遣いをしてくるのが嬉しいのか、ショーンは更に嬉しそうな笑顔を浮かべて、羽柴の背中からギュッとしがみついてきた。 「ね、ダメ? 今日ほら、俺の誕生日だし。ね。プレゼント」 「マヌケなだけだと思うけどな」 「そんなことないって! だって俺、そのこと考えただけでもうこんなんだもん」  ショーンはそう言うと、羽柴の手を自分の股間に導いた。 「 ── ふむ、確かにそうだな」  手のひらに当たる感触を確認しつつ、羽柴はわざと学者然とした表情でそう言った。  羽柴のその物言いに、二人で思わず吹き出す。 「でもま、今はダメ。俺、流石に腹減って死にそう」  羽柴がそう言うと、ショーンも抑え込んでいた羽柴の手を解放して、「うん」と頷いた。  二人ともプレゼントを開けるのに必死で、昼食を食べそびれたのだ。 「今日は久しぶりに外に食いに行こう」 「え? 外に?」  羽柴の発言に、ショーンが少し表情を曇らせる。  ショーンが引っ越してきてからこれまで、他の人を交えて外食することはあっても、二人きりで出かけることは極力避けてきた。  どこにどんな目があるかわからないし、いくらまだパパラッチ達にこの生活が勘付かれていないとは言っても、どこで狙っているかわからない。  マスコミには、シンシアと仮想デートする姿すらまだ掲載されてはいなかったが、シンシアと出かけている時に一般人の目線が集中していた時のことを思い出すと、シンシアとの仲が再び話題になり始めるまで時間の問題だろう。そこでシンシアと付き合ってるとまたうまく誤解されればいいが、羽柴と二人きりで出かけて、彼への熱っぽい視線を隠せるほど、ショーンはまだ大人ではない。万が一、羽柴とのことが世間に漏れれば、大変なことになる……。  ショーンはそのことを危惧しているのだろうが、羽柴はさほど気にしていなかった。  なぜなら、どんな穿った見方をしたって、17歳も年上のそれも男とショーンが恋人関係であるなんて、その事情を知っていない限り、考えるはずもないからだ。  それに今日羽柴が予約を入れている店は、ミラーズ社のウォレス ── シンシアのお陰か、今では家ぐるみの付き合いとなっている ── が推薦してくれた店だ。しかも、ウォレスがわざわざ店の支配人に口利きしてくれて、絶対にプライバシーが漏れないように配慮してくれるようにと下準備も整えてある。「ショーンの誕生日祝いとあらば、食事代を付けておいてくれても構わないよ。そのレストランは、私が接待でよく使う店だから」との申し出まであったが、さすがにそれは丁重にお断りした。  その店がとても格式の高い高価な店であることはわかっていたが、羽柴だって食事代が払えないほどのサラリーではない。  ショーンが、ジーンズと綿シャツという格好の上からGジャンを羽織ろうとしているのを見て、「おい、ショーン」とそれを止めた。 「え?」  ショーンが振り返ると、「今日はちゃんとした格好で行くよ」と声を掛けた。 「 ── え、でも、俺………」  ショーンの躊躇いの意味は十分予想していたので、羽柴はロフトのクローゼットからスーツを取り出してリビングに取って返した。 「これは理沙からのプレゼント。この前NYに出張した時に渡されてたんだ」  それは、初めてエニグマの撮影でショーンが身に付けた衣装のひとつだった。  グッチのグラマラスなスーツ。  光の加減で深い紫にも見える、渋いがツヤのある深紅色のスーツ。かなり濃い紅なので、シックなイメージだ。あわせるシャツは濃紺。タイはシルバーがかった細やかでアジアテイストの刺繍が入ったグレイ色の一品。  どう考えても高価な代物だ。 「え………! こんなの貰えないよ」  ショーンがそう言うと、「俺も、きっとショーンはそう言うって言ったんだけど」と羽柴がその後を取った。 「でも、メーカーからエニグマに貸し出されたのを理沙が買い取った形だから、定価の半値以下なのよって言ってたぞ。── それに、記念すべきスーツでしょ、ともね」  羽柴がウインクすると、ショーンは少し頬を赤らめながら、おずおずとそれを受け取った。  その後羽柴も、目の覚めるような白いシャツに漆黒の艶やかなスーツ、ショーンのスーツの色に合わせるような深紅のネクタイを選び、出かけることにした。  レストランは、ミラーズ社の近くにあった。  いつもなら電車で出かけるが、今日はショーンの髪の毛を隠す帽子がなかったので、そのままタクシーに乗り込んだ。  極力人目につかないように、店の真ん前にタクシーをつけてもらった。  しかしそれでも、タクシーから店のドアまでの道のりの間に、二人は十二分に好奇の目を集めた。  その中のどれだけの人間がショーン・クーパーに気づいたかどうかわからないが、皆、姿のいい男二人の突然の登場に、ご婦人達はうっとりと、男性陣は多少嫉妬心の混じった視線で彼らを見つめてきた。  羽柴はその視線を相手にせず、ショーンをそつなくエスコートして店の中に入った。  予約の時間を見計らってか、支配人自らが出迎えてくれる。 「ウォレス様から承っております」  羽柴達は、店の奥まった個室に案内された。  そこは完全な個室ではなく、見事なワインセラーの棚越しに一般客が歓談しながら食事を楽しんでいる様子が見える圧迫感のない席だった。しかし客の様子からすると、向こうからこちらは見えないようだ。  その個室には他にも席が数席あったが、羽柴が知る限り市議会議員や企業のトップらが会食を楽しんでおり、およそ自分達に感心を寄せるような雰囲気は全くなかった。要するに、互いに余計な詮索を受けたくない人達が利用している空間だと言うことがわかった。  すっかり萎縮しているショーンの代わりにソフトドリンクと軽い食前酒を頼み、お薦めのコースメニューを注文して、羽柴はショーンに向き直った。 「やっぱりよく似合ってるよ、そのスーツ」  羽柴が微笑むと、ようやくショーンも顔を綻ばせた。「 ── そう?」と言いつつ、テレくさそうに笑う。 「そうしてると、大人びて見える」 「もう大人だよ。お酒飲むには、あと一年我慢しなきゃいけないけど」 「この前は我慢できなかったくせに」  羽柴がそう言うと、ショーンはあの時の夜のことを思い出したのか、一気に顔を真っ赤にした。  そうこうしていたら、ソフトドリンクと食前酒が運ばれてくる。ソフトドリンクはお任せメニューだったが、来てみると淡いシャンパン色のマスカットジュースだった。  ジュースとは言っても、スーパーマーケットなどで巨大な瓶詰めで売られているそれとは違い、軽く発泡している贅沢な香りのものだ。  今日は連れが20歳の誕生日であることは伝えてあったので、共にお酒を楽しんでいるかのような雰囲気を感じられるようにとの店側の配慮だろう。やはりウォレスに薦められただけの店だと思った。  羽柴は、スパークリングワインを頼んでいたので見た目はほぼ一緒だった。 「うわぁ、お揃いだね」  ショーンが無邪気な声を上げる。  その屈託のない笑顔を見て、羽柴はふいに思い出した。  初めて出会った日のことを。 「何?」  羽柴の笑顔の沈黙が気になったらしい。ショーンが訊いてくる。 「ん? ああ。初めて二人で食事に行った日のことを思い出してたんだ」 「ああ……」  ショーンも思わず思いを馳せたらしい。 「あの時は途中で泣いちゃって………。ホント、恥ずかしいよ」 「今となってはいい思い出じゃないか。あの夜がなかったら、今こうしていなかった訳だから」 「そうなの?」 「ああ、そうさ。あの時、あれほどショーンが困ってなかったら、俺だって何とかしなきゃなんて考えなかった訳だから」  羽柴がそう言うと、「泣いて正解だった訳だね、俺」とショーンが笑った。  その瞬間、二人の視線が熱っぽく重なり合う。  人目がなければこの後完全に熱いキスを交わしていたところだが、さすがにそれはできない。  テーブルクロスの影に隠れて、指先だけ触れ合った。  羽柴が視線を上げると、ショーンが声に出さず口の形だけで「愛してる」と呟いた。  羽柴は穏やかな微笑みを浮かべ、「お誕生日おめでとう、ショーン」とショーンの持つグラスに自分のを重ね合わせた。  驚くほど薄い飲み口のグラスは、なんとも美しい音色を奏でたのだった。
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