act.03

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act.03

 全く、夢のような一時だった。  羽柴は、仕立てのいいウールコートの裾を靡かせ、ホテルを出て一番近い地下鉄の駅に向かい歩き出しながら、赤毛のロックスターの顔を思い浮かべていた。  ニューヨークには多くのスターが住んでいるので、道ばたでお目にかかることも少なくないが、いきなり押し倒されて抱きつかれるだなんてことはまずないだろう。  もし会社の同僚に話したとしても、きっと大げさな冗談として笑い飛ばされるだけだ。── いや、もちろん話すつもりはないが。  ほとほと困り果てていたショーン・クーパーを気の毒に思ったこともあったが、それ以上に、他の人に話してしまうと今朝の夢のような時間が消えてなくなってしまうような気がしたからだ。  羽柴はオールドジャスが好みで、この年になってロックを聴くだなんてことはなかったが、それでもショーン・クーパーが属しているバンド『バルーン』がどれほど売れているかは分かる。  偶に寄るCDショップで、プロモーションビデオが流されていることもあり、年の割にはえらく成熟したギターを弾く子だと思った。  けれど実際のショーン・クーパーは・・・。  確かに身体つきは大人と変わりないほど成長しているが、その瞳は恐ろしいほど澄んでいた。  ショービズの世界に生きている青年が、あんな瞳をしているだなんて、正直羽柴も驚いた。  きっと素直な育ち方をしてきたのだろうと思う。  すれたところがない清潔さは、その子自身の性質もあるが、やはり家庭の雰囲気からくるものも多い。きっと愛情溢れた家庭環境で、温かく育てられてきたに違いない。それに十代の壊れやすいナイーブさも加わって、余計に彼を純粋なもののように見せていた。  しかし、逆にその素直さ故に苦しむことがあるのか、若さに似合わない疲労感を漂わせていたのも事実だ。  必要以上に他人の言葉や言動に神経を尖らせ、いつも神経を過敏にしているような節も窺えた。・・・もっとも、胡散臭いカメラマンにしょっちゅう追いかけ回されていれば、どんな人間だって自ずとそうやって自分を守らざるを得ないだろうが。  それでも、羽柴には随分『素』の表情を見せてくれたように思う。  状況が特異的なものだったが為に彼の方も余裕がなかったせいかもしれないが、羽柴の前でのショーン・クーパーは、十代の傷つきやすく判りやすい純真な若者だった。そう、世界中のどこにでもいるごく普通の。  確かにスターとして選び出された人間独特の華やかさはあるが、雲の上の手の届かない人間といった雰囲気はまったくなかった。実に素直で、表情をくるくると変える、瑞々しい青年だった。  実際彼がマスコミやファンにどういうキャラクターとして捉えられているのかは、羽柴にも判らなかったが、どこかその寂しがり屋なところを匂わせる仕草が、日本にいる無二の親友・梶山隼人を思い起こさせて、酷く懐かしい気分になった。  元々羽柴は人がいいが、通常初対面の人間にあそこまで気を許すなんてことは余りない。  そんなことがあったのは、今は亡き恋人、須賀真一に初めて会った時ぐらいだ・・・。  ふいに真一に笑われたような気がして、羽柴は胸元のペンダントをスーツ越しに押さえた。  そのペンダントのロケットには、真一の骨の欠片と遺灰が入っている。  アメリカに来てもう随分経つが、風呂に入る時以外は決して肌身離さずつけてきたペンダントだった。  これでも新たな恋をしなければならないと、半ば義務のように感じて女性と肌を合わせることもあったが、その時でも結局薬指に二重に填められたリングとペンダントは、外すことは出来なかった。  ここしばらく他人に肌を晒すことをしていなかったが、今朝は奇しくもそうなってしまった。  羽柴は、再度ショーンの顔を思い出してクスクスと笑う。  決して狙った訳ではなかったが、自分の裸体を見てドギマギしているショーンが可愛らしく思えてしかたなかった。  世界中の女の子をメロメロにしている筈の若きロックスターが、三十半ば過ぎの男の裸を見て顔を赤くしているだなんて、全く嘘みたいな話だ。  その印象的な赤毛にどうしても触れてみたくて髪の毛を撫でると、ハッとさせられるほど、とろんとした表情を浮かべた。正しく、羽柴が例えたような、『猫が喉をゴロゴロいわせている時の表情』だ。  凄く安心しきった顔つきで、羽柴の手に身を委ねてくる。  恐らく、羽柴よりずっと一人前に稼いでいる筈のスターに向かって、『可愛い』を連発するのは些か気が引けるが、そう思えてしまうのだから仕方がない。  本人は、努めてクールを装ってはいるが、自分ぐらいの年の人間からすると単なる強がりか背伸びのように見えてしまう。おそらくビッグスターである彼は、見も知らない初対面の日本人にいきなりそんな風な扱いを受けたことがなかったのだろう。慣れない扱いをされて逆にドギマギし、クールな仮面が崩れているところが益々可愛く見えた。  自分も若い頃に子どもを作ってりゃ、あんな感じなのかな・・・と思った。  十代であることは知っていたので、ギリギリでも19歳だろう。  自分は36だから、年の差は17歳以上ということになる。兄弟というより、やはり親子に近い。  子ども・・・と考えて、羽柴は僅かに苦々しい感情を覚えた。  今まで本気で愛したのは、真一だけだった。  その真一とは到底子どもは作ることができなかったので、ふいに彼を責めてしまったような気分になった。  ── やめよう。こんなのは自分らしくない。  真一が最後に残した手紙を読んだ日から。  羽柴は前にも増して前向きに生きていくようにと努めてきた。  そんなことは、努力して勝ち得るモノでもないような気がしたが、そうしていないと耐えられないような気がして。真一がこの世にいないという孤独感に。  何だか、今朝の出会いは、まるでそんな羽柴を小休止させてくれたような、嬉しいハプニングだった。  パパラッチに追われていたショーンには悪いが、久しぶりに微笑ましい気分にさせられた。  全世界が、彼に魅了されるのも仕方がない。  まるっきりロックの世界に興味のない羽柴でさえ、一瞬で虜にしてしまうほどの魅力がある青年だ。  今夜、ホテルに帰れば、もう彼がいた痕跡は全てなくなっているだろう。  二度とああいう風に会うこともないはずだ。  少し寂しく感じたが、それはそれで仕方がないことだ。  気が向いたら、今度『バルーン』のライブチケットでも購入してみるか・・・。  朧気にそう思う羽柴だった。  カーテンを引いた隙間から窓の外をチラリと覗いてみても、カメラを持った男達の姿は見えなかったが、そこかしこにまだ潜んでいるような気がして、いい気分ではなかった。  ショーンは、携帯電話を探そうとワークパンツのポケットに手を突っ込んだが、どのポケットも空っぽでショーンを落胆させた。 「・・・あ~、クソ!」  苛立ちをそのまま汚い悪態の言葉に変えて、ショーンは今朝羽柴が座っていた二人掛けの革張りソファーに腰掛けた。  これじゃ連絡も取れない・・・。  自分が足止めを食らっていることを知らせなければならないってのに。  頭を抱えるようにしてから、そのまま顔を両手で擦った。  今頃になって疲労感がどっと押し寄せてくる。  久しぶりに充実した朝食が食られただけでもまだマシだ。  ショーンはチラリとホテルに備え付けの電話に目を遣った。  ・・・そうだ。電話なら、ここにあるのに。  さっきの朝食の件といい、この電話のことといい、今日は気が完全に動転してしまっているのか、まったく思考が上手く働かないでいる。いつもは、イアンよりある意味大人だとスタッフから冗談交じりで言われることが多いのに、今日の自分のリアクションは、バカみたいに単純な青臭いガキのようだ。  それがパパラッチのせいなのか、パパラッチのお陰で偶然出会った『彼』のせいなのか、本気でちょっとよく判らないでいる自分が恥ずかしくもあり、おかしくもある。  ショーンは自嘲気味に薄い笑みを浮かべると、電話の受話器を取りフロントを呼び出した。 『はい、フロントでございます』 「あの・・・すみません。外線をかけたいんですが。コレクトコールにできますか?」 『はい。もちろんです、ミスター・スミス』  ミスター・スミスと言われて、ちょっと面を食らう。  ショーンの沈黙をフロントマンは察したのだろう。 『ミスター・ハシバからお伺いしております。歓迎できないご友人達は、速やかにホテルの外までご案内差し上げましたが、幾人かはまだホテルの前にいらっしゃるようです。もしよろしければ、ミスター・スミスのお出かけになりたい場所へ、私共が手配したお車でお送りすることもできますが』 「・・・え・・・そんな・・・いいんですか?」  ショーンも仕事柄全米中のいろんなホテルに滞在してきたが、客でもない人間にここまでしてくれるホテルなど初めてだった。  フロントマンは答える。 『ミスター・ハシバにくれぐれもよろしくと仰せつかっております。ミスター・ハシバは当ホテルの重要なお客様であり、大切な友人でもありますので。彼のご友人が大変困られていらっしゃるとお伺いすれば、私共もお助けするのはごく自然なことです』  羽柴の友人と言われて、またちょっとドキリとした。  思わず少し頬の強ばりが緩む。  ── フロントにそんな風に言ってくれたんだ・・・。  世の中には、友人でもないのに勝手にショーンの友達と名乗る人間が随分増えていることも事実で、それに嫌悪を感じていることもあるのだが、あの羽柴に『友人』と言われるのは正直気分が良かった。  最初は随分不機嫌だったが、最後に浮かべてくれたあの笑顔は嘘でも取り繕ったものでもなかったということだ。  フフッとショーンが密かに笑っていると、『ミスター・スミス?』と呼びかけられた。 「あっ、ごめんなさい。・・・取り敢えず今は、心配してるスタッフに無事を知らせたいので。ひょっとしたらその後、さっきのこと、お願いするかもしれません」 『かしこまりました。必要とあらば、またフロントまでお知らせください。では、どちらまでコレクトコールをおかけしますか?』 「ええと・・・」  ロバートの携帯電話番号などまるっきり覚えていなかったので、取り敢えずバルーンのマネージメントをしている事務所のバルーン担当内線電話番号を伝えた。  しばらくして、ラインが繋がる。 『ショーン?! 大丈夫なの、あなた?』  ロバートの助手としてスケジュール管理をしているアシュレーが電話口に出た。 『今どこにいるの?!』  矢継ぎ早に質問されて、ショーンは苦笑した。 「レコーディングスタジオから3ブロックぐらい北の小さなホテル。そこで奴らに追いつめられてる」 『なんですって?!』  アシュレーの酷く動揺した声の背後もいやに騒がしい。事務所の中も大騒動になっているようだ。別の電話のベルがひっきりなしに鳴っている音も聞こえる。  それに比べショーンは、信じられないほど静かなホテルの部屋にいる。少し不思議な気分になった。  ショーンは、左手で目を擦りながら、「とにかくアシュレー落ちついてよ」と言った。 「親切な人がいて、俺をホテルの部屋に匿ってくれてる。パパラッチの追撃を、うまく交わしてくれたんだ。それに朝食までご馳走になって・・・」  ショーンの言い出したことに、向こうは難色を示した。 『それ、本当に親切な人なの? 大丈夫? 後で何か言ってきそうなヤツなんじゃないの? 間違っても写真なんか撮られちゃ駄目よ』  神経過敏になっているから仕方のない言葉だったが、ショーンは一瞬ムッときた。 「本当に、親切な人だよ! 信じられないくらいにね。彼には後でお礼をしなくちゃ・・・」 『そんなことより、迎えに行った方がいいかしら? まだ連中いるんでしょ?』 「いるらしい。けど、迎えには来ないで。余計に目立つ。チャンスを窺ってホテルの車で送ってもらえるようにする。取り敢えず、このホテルにいる限り俺は無事だから。ロバートにそう伝えて。それから他のメンバー・・・つーか、イアンどうしてる?」  ショーンが恐る恐る訊くと、アシュレーは『やだ、見てないの? テレビ』と言われた。その後で、アシュレーの苦笑が聞こえてくる。『逃げてるのに、見られる訳がないわね』と。 「何? どうしたの?」  ショーンが訊ねると、アシュレーは音楽専門のケーブルテレビチャンネルを知らせてきた。  ショーンはライティングテーブルの上に置かれてあったテレビのリモコンを取って、窓際にあるテレビをつけた。チャンネルを合わせると、なんと大勢の報道陣に囲まれたイアンがまるで記者会見をするような様相でテレビに映っていた。  背景は明らかに今バカンスの最中であるフロリダで、小麦色に焼けた肌が、今月末にはジングルベルが町中で流れ始めるというこの季節に何となくそぐわない感じがした。  今のイアンは明るい金髪に脱色していて、ハワイアンフラワー柄の海水パンツと乳首にボディーピアスをした様は、ロックスターというよりは年の過ぎたサーファーのようなイメージだ。  画面の隅にはLIVEという文字が踊っており、今現在イアンが今回の一件で意見を求められていることが分かる。  マスコミの対応の素早さにも驚いたが、まだこんな惨憺たる状況であるにもかかわらず、悠然とインタビューを受けているイアンにも仰天した。  受話器からは、今だアシュレーの声が響いていたが、ショーンはぼんやりとした手つきで受話器を置いた。 『ショーン坊やの父親がビル・タウンゼントだったことは前から知ってたことだよ』  イアンの発言に、ショーンはポカンと口を開ける。 『昔、もうずっと若い頃、俺はビル・タウンゼントと交流があってね。彼に一人息子がいることも知っていた。その頃俺はまだアマチュアのバンドで、メンフィスで開催されたロックフェスで彼と知り合った。町のパブでやってた俺のショーにも来てくれて、凄く才能があると言ってくれた。その彼が、残念な形で亡くなって、ひとりぼっちになったショーン坊やのことはずっと気に掛けていたんだ』 「・・・は?」  ショーンは思わず、テレビに近寄って大写しになったイアンの顔をマジマジと見た。  イアンがメンフィスでショーンの父親と会っていたことが本当である可能性は否定できなかったが、彼がショーンの父親のことを知ったのは間違いなく今朝のことであり、ひとりぼっちになったショーンのことを気に掛けていたことは真っ赤な嘘のはずだった。  何せ、オーディションを受けにきたショーンの生まれ育った町の名前をイアンは知らなかったぐらいなのだ。つまり、ビル・タウンゼントが死んだ時に住んでいた町の名を知らなかった訳だ。  ショーンは愕然として、画面を見入る。  イアンは、傍らにいる新しい恋人のミッシェル・・・健康的な肢体とそばかすがキュートなブルーアイズのフロリダガール・・・を抱き寄せ、鼻水を啜っている。 『二年前、ギタリストのエリオットがああいう形でバンドを脱退してから、俺達は深く傷つき、先を見失っていた。だが俺は負けなかった。新生バルーンをこの手で再建してみせると亡き母に誓ったものさ。そのことは君たちも当然知っていることだろう。新しく生まれ変わるバンドに一番相応しいギタリストを考える上で、一番に浮かんだのはショーン坊やのことだった。俺は様々なギタリストのオーディションを行ったが、やはり友人であるビルのためにもショーン坊やにチャンスをやることが何より重要だった』 「何だって?!」  ショーンはイアンの言い草に、呆れ返った声を上げた。  それじゃまるで、正当なオーディションを勝ち抜いて今の地位を手に入れたようじゃないかのようだ。  あまりのショックで、目の前がグラグラと揺れる。  インタビュアー達は、イアンの語る『感動話』に皆聞き入っている。 『今ではこういう結果となって十分満足しているよ。ショーン坊やのギターは素晴らしい。君達だってそう思うだろう? やはり優秀な血は受け継がれるってことだよ。ショーンは今、レコーディングの最中さ。彼は今の仕事に喜びを感じていて、休みもなしでスタジオに篭もるタイプなんだ。だからつまらない騒ぎはここまでにして、そっとしておいてくれないかな。もうすぐファンの皆に最高のアルバムをお届けできると思うしね。じゃこれぐらいでいいかな? ピース』  イアンは、浮ついたピースサインを残して、画面から消えていった。  音楽情報番組の司会者は、ショーンの父親がビル・タウンゼントだったことに純粋に驚き、イアンの人情味溢れる裏エピソードを聞いて、少々興奮気味だ。  司会者の後ろには、半年前のライブでのショーンの写真とモノクロのビル・タウンゼントの写真が並んで映し出されている。  ショーンは嫌悪を感じて、テレビを切った。  イアンの虚勢振りは毎度のことだったが、今回は根深く自分に関係する事柄だけに、受けたショックも大きかった。  言いたいことや叫びだしたいことは幾らでもあった。  例えば、ショーンが休みなしでスタジオに篭もることになったのは、イアンがボーカルのパートを当初の譜面と大幅に変えた為で、イアンがレコーディングに入る以前に収録していたショーンのギターパートと合わなくなったせいだ。  それに、アルバムの発売がもうすぐだなんて、そんなことできる訳がないことはイアン自身も十分分かっているはずだ。まだ曲の選定も終わってないし、ジャケットやブックレットの写真だって、イアン中心に撮影するから、彼がフロリダにいては無理だ。  それになにより、タウンゼントの血について引き合いに出されたことがショックだった。 『タウンゼントの息子だからこそ、メンバーに選ばれた』 『タウンゼントの息子だからこそ、素晴らしいギターが弾ける』  一番言われたくないことだった。  ましてや、一番の味方であるはずのバンドリーダーにそんなことを言われ、ショーンの身体から筋力という筋力が抜け落ちたような気がした。  ショーンは、テレビの前にガックリと膝を折る。  情けないことだが、じんわりと涙が浮かんできた。  自分を取り巻くホテルの部屋の静寂が、ショーンの孤独感を更に募らせた。  自分はここまで泣き虫のはずじゃないのに、今日はいつにも増して酷く感傷的だ・・・。  カーペットにポタリと落ちた自分の涙を見るのが嫌で、ショーンは突如立ち上がると、猛然と出口ドアに向かった。  ドアを勢いよく開けて外に出ようとして、なぜかハッとする。  ショーンは、閉まりかけのドアと壁の間に思わず咄嗟に足を挟み込んだ。 『鍵はオートロックだから、君が出たら勝手にドアは鍵がかかる』  羽柴の声が頭の中で響いた。  一度出たら、もうここには戻れない。  なぜかそう思った。  もう戻れない。  彼には会えない、と。  ショーンを全て包んでしまう大きな身体。その微笑み。  この足を抜いたら・・・。  ショーンは、じっと自分の足を見つめた。  早く事務所に帰らなきゃ。  一方でそう自分に言い聞かせながら。
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