act.04

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act.04

 その日の仕事を終えて羽柴がホテルに帰ってくる頃には、街はすっかり夜の顔を見せていた。  最近では、めっきり日が落ちるのが早くなってきている。  温暖化の影響で今年の冬は随分暖かいが、それでも時々急に冷える晩も増えて来つつある。  来月になると、クリスマスのイルミネーションが街を飾り始め、賑やかになるだろう。  羽柴はドアマンと軽い挨拶を交わしロビーに入ると、フロントカウンターに寄った。 「ただいま」  羽柴がそう声をかけると、いつも応対してくれているフロントのチーフ、ケイブ・シラーが「お帰りなさいませ」と迎えてくれた。さっとカードキーが手渡される。 「そう言えば、ミスター・スミスはどうなった?」  ホテルの外には、もうパパラッチの陰はなくなっていたように感じたが。  羽柴が何気なくそう訊くと、シラーはチラリと羽柴を見て、相変わらずポーカーフェイスとも取れる穏やかな笑顔を浮かべたまま、「お部屋に戻られたら分かると思いますよ」と答えてきた。  曰くありげな返事に羽柴は少し顔を顰めると、小首を傾げて自分の部屋に向かった。  鍵を開けて中にはいると、薄暗いリビングの中は清掃が済んでおり、ルームサービスの食器もなく、ソファーの上に散らかしてあったスーツのジャケットはクローゼットに収められてあった。テレビのリモコンやペンなども、ライティングデスクの上にきちんと整頓して置かれている。 「・・・なんだ。いつも通りじゃないか」  昨日羽柴がホテルに帰ってきた時と同じ様子だ。  羽柴はコートを入口ドア横のクローゼットに掛け、軽くブラシをかけた後、リビングに向かってジャケットと鞄をソファーの上に置き、まず顔を洗おうとバスルームに行った。  Yシャツの袖を捲り、腕時計を外すと、白い陶器の洗面台でザブザブと顔を洗った。脇のタオル掛けに手を遣った段階で「ん?」となる。  フェイスタオルがいつもより余分に掛けられてある。  背後を振り返ってバスタオルの置かれてある棚を見ると、バスタオルも四枚置かれてあり、バスローブに至っては二枚ハンガーに掛けられてある。 「ん?」  羽柴は再度声を上げてタオルを首に引っかけると、寝室に向かった。  そこでようやく意味を飲み込む。  ── ああ、そういうことか・・・。  そう思った羽柴の視線の先にあったのは。  セミダブルのベッドの上に、アッパーシーツの中で小さく丸まって眠るショーンの姿。  なぜか羽柴は、ホーと肩の力を抜きながら溜息をつく。  自分でもなぜそんな溜息が出てきたかは謎だったが、別にその理由を追及する気はなかった。  羽柴はベッドの傍らに腰掛け、ショーンの顔を覗き込んだ。  こうしてスウスウと気持ちよさそうな寝息を立てている様は、まさにあどけない少年のようだ。  ベッドの脇に目を遣ると、乱暴に脱ぎ散らかされた黒いショートブーツと幅広いベルトが引っかかったままのワークパンツが転がっている。  羽柴は何だかおかしくなって少しだけ笑うと、ブーツを揃え、ワークパンツを拾い、傍らの椅子に掛ける。  ベッドサイドのライトを少し明るくして、再度ショーンの顔を覗き込んで「おや」と思った。  目頭と鼻の付け根の一際深くなっている窪みに、涙が溜まっている。  よく目を凝らすと、頬にも涙が乾いた後があった。  ── 泣き疲れて眠ったのか・・・。  羽柴が部屋を出る時は、意外に元気そうに見えたのだが。その後に何かあったのだろうか。  羽柴は少し顔を顰める。  世間一般には大スターのショーン・クーパーかもしれないが、羽柴にはやはりそうは見えない。  こうして何かに傷ついて小さく蹲っている様は、まさに十代の危うい時期を揺れ動いている少年そのものだ。  実は羽柴の会社でも同僚にロック好きのヤツが沢山いて、昼休みはショーンの話題で持ちきりだった。  中には、ニューヨークで生活しているショーンと偶然街角で見かけた者もいて、興奮気味にあの話題を話していた。  彼らの話の中のショーン・クーパーは新時代の『ギターの神様』的なイメージで語られており、年の割にクールなステージパフォーマンスも相まって、もはや時代のカリスマとされていた。  聞けば、ロック通の間では、すでにイアン・バカランの時代は終わり、ショーン・クーパーの時代が到来しつつと認識されているが、音楽業界はそれを恐れている節があるとのことだ。  やや勢いに任せた形でギタリストを首にしてしまったイアンのバンドは、それでもロック界で十分なセールスを誇ってきたし、数々のアウォードにもノミネートされ、重要な賞も受賞してきた。そのバンドの中心的な人物であるイアンの力は強大で、ロック界のみならず音楽業界全般に様々な影響力を持っていた。  ファンの間では、そんな音楽業界の状況に些か満腹気味であると言われているらしい。  そんな中で、いつもイアンの陰に隠れるようにして、ただストイックにギターにのめり込んでいるクーパーの姿は、随分ひたむきに映るのだろう。いつもは「今時の若い者は・・・」とこけおろしている辛口の同僚が、ショーン・クーパーだけは別と言ってのけたので、一同皆で大笑いしたほどだ。  二十代後半から四十代にかけての同僚が多い羽柴の職場で、今日の昼休みの雰囲気はまるでハイスクールのような騒ぎに見えた。ショーン・クーパーには、大人をそうさせてしまう魅力もあるということか。  「今度ライブDVD貸せ」と羽柴が言うと、皆が「えー?! ジャズ一辺倒のお前がぁ?」と大げさに羽柴を囃し立てた。  実のところ、現在羽柴は、ニューヨークにある証券会社の子会社である経済研究所に席を置いている。その経済研究所は、ニューヨークより少し離れたヴァージニア州のとある都市にあり、今の住処はそこにある。  けれど、アメリカに来た最初の頃はニューヨークにある会社に全ての機関が集約されており、羽柴自身もニューヨークに住んでいたのだから今でもニューヨーク本社の人間とは仲がいい。着任当初は、よそ者だからとぶつかって、互いにケンカし争いながら固い絆を結んできた人間達だ。  2001年・・・今から四年前に全米を震撼させる同時多発テロが発生した時も、羽柴はニューヨークにいた。  しかも、世界の経済の中心ウォール街は、貿易センタービルの目と鼻の先にあり、羽柴の証券会社もそこにあった。  現在も本社はそこに位置しているのだが、当時は壊滅的なダメージを受けたものだ。  羽柴の会社もビル倒壊の煽りを食らって埃まみれになり、電気・水道・電話などのライフラインが停止、より現場に近かった為に、封鎖対象の地区とされた。  もちろん、仕事どころの騒ぎではなくなり、同僚と共に救援活動のボランティアとして活動する日々が続いた。その間に会社は、社の機能を分割する策を講じた。  結果、羽柴の属するアナリスト部は、発展めざましい地方都市・C市に拠点を移すことになり、今に至っている。  C市では、その年の始めに爆弾を多量に持ったテロリスト・・・本当は結局のところ、金目当ての強盗だったらしい・・・がある大企業を占拠した事件を市警が見事解決しており、社員が全員無事解放されたことに羽柴の会社の社長がいたく感動して、その街に支社を移すことを決めたそうだ。  けれど今でも、一ヶ月に一週間程度はニューヨークを訪れているので、ニューヨークに来ても自分がよそ者である気分はしなかった。もちろん、本社の社員も羽柴に対しては親しく接してくる。  何せ人のいい、日本人の癖にウイットに富んだ、身体のサイズも度胸も大柄である羽柴に、今や誰もが親愛の情を示す。そんな彼らとは、私生活でも仲がよかった。あの同時多発テロの時期を一緒に乗り越えた連帯感も手伝っているのかも知れない。  聞けば、ショーン・クーパーはデビューして二年程度だというのだから、羽柴の去った後のニューヨークに出てきたことになる。  そのことを考えると、ニューヨークでのこのニアミスは、本当に奇跡的な縁だとも感じた。  ── ま、もっともこれ以上の何かがあるとは思えないが。  涙を零すほど困り果てている彼に、何かの見返りを求めて親切にするなんて、返って酷いことだと羽柴は思った。  端から見返りなどは求めるつもりはなかったが、今朝の楽しい一時を思うと、今彼がこのベッドにいて、彼と過ごす時間が少し長引いたことを喜んでいる自分がいることも事実だった。  赤毛の青年がどれほど世界に愛されているかなど、詳しくは分からなかったが、それでもそんなスターと一時でも二人切りで過ごす時間が持てて、しかも惜しげもなく飾らない素の表情を見せてもらえるなんて、やはり凄い幸運だと感じる。  ── 所詮、俺もミーハーなのかな・・・。  羽柴は苦笑いしながら、自分の顎を撫でた。  しかしいずれにしても、夢は終わりが来るものだ。  羽柴が、ショーンの目頭に溜まった涙を指で拭ってやると、案の定「うぅん・・・」と呻き声を上げてショーンが目を覚ました。 「・・・ヘイ」  羽柴が声を掛けると、寝ぼけ眼のショーンも「・・・ヘイ」と答えた。  どうやらショーンの夢はまだ終わってないらしく、とろんとした目つきで羽柴を見上げてくる。 「お目覚めですか、王子様」  羽柴がふざけて言うと、ショーンはむくりと身体を起こし、ふいに羽柴に抱きついてきた。  まるで子犬がご主人様に懐いてくるような仕草だ。  羽柴も反射的に彼の身体を抱き留めると、ショーンは満足そうに「フン」と鼻を鳴らす。再び目を瞑って、羽柴の胸元に顔を押しつけてきた。 「おい・・・。また眠っちゃうのか?」  こんな無理な体勢で?と羽柴は思ったが、ショーン自身は、座ったまま至極ご満悦な様子で再び寝息を立てた。胸に押しつけられた小鼻が天を向いてひん曲がってしまい、少しコミカルな顔つきになっている。 「よもやスターのこんな顔が拝めるとはね」  羽柴は、今度こそはっきりと苦笑いを浮かべ、ショーンを揺り動かした。  可愛そうだが、この様子を見ると昼もろくに食べずに爆睡していたに違いない。  もう時間は八時に近かったし、晩飯を食わせなければと思った。  ── 気分は完全に保護者だな・・・。  羽柴はショーンの両親を想像しながら、再度ショーンを揺り動かす。 「・・・ん・・・」  ようやくショーンが目を開けた。 「大丈夫か? 君」  羽柴がしっかりとした声で訊くと、やっと覚醒したらしい。 「!!」  ショーンはガバリと身体を起こし、顔を真っ赤にした。 「ごごごご、ごめ・・・っごほごほ!」  急に大声を出したものだから、声が喉に詰まって激しく咳き込む。  羽柴はすっと立ち上がると、リビングとバスルームの間の廊下にある冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、寝室に取って返した。  いまだベッドの上で咳き込んでいるショーンにボトルの蓋を開けて渡すと、ゴホゴホという咳の合間に、ボトルの半分まで水を飲み干した。  ハァと大きく溜息をつく。 「落ちついたかい?」  羽柴がベッドの傍らに立ったままでそう訊くと、ショーンはバツが悪そうに唇を噛みしめた後、「Thank You」と言った。 「結局、外に出られなかったんだな」  羽柴は、ショーンのワークパンツが掛けられてある椅子に腰掛けた。  その羽柴の様子を見て、ショーンが「あ」とシーツに隠れている自分の下半身に目をやる。 「これ?」  羽柴がワークパンツを差し出すと、おずおずと手を伸ばしてくる。  ショーンはワークパンツを受け取っても、それを履こうとする気配を見せなかった。 「あ、ごめん。俺がいたら、恥ずかしくて履けないか」  羽柴が席を立とうとすると「いや、そんなことない。全然ない」と早口にショーンは言って、ベッドから立ち上がった。  白のぴったりとしたボクサーショーツがちらりと見え、すぐにワークパンツの向こうに消えた。  どうやら自分が素足であることに気が付いた彼は、キョロキョロと辺りを見回す。羽柴も思わずつられて周囲を見回すが、彼が探しているであろう靴下は見あたらない。 「・・・クソ!」  ショーンは突如思い出したのか、小さく悪態をついて、シーツの中を探った。  クシャクシャになった黒い靴下が、申し訳なさそうに出てくる。 「ご、ごめん・・・」  眉を八の字に下げて、本当に申し訳なさそうにショーンは謝る。そしてバツが悪そうに顔を顰めて舌打ちをした。  羽柴はその様を見て、ハッハッハと声を上げて笑った。  ── まったく愉快だ。本当に楽しませてくれる。  最初は冷や汗を掻いていたショーンも、羽柴の笑い声につられ、次第に笑い始めた。 「ホント、最悪だよね、俺・・・」  また目尻に新たな涙を溜めながら、ショーンも大きな口を開けて笑う。  一頻り二人で笑い合って、終いには同時に大きく溜息をついた。 「ああ、笑ったら腹が減ってきたな。君はどうだ?」  羽柴がそう訊くと、ショーンも素直に頷いた。 「君が靴を履き終わったら、飯を食いに行こうか」  羽柴はそう言って立ち上がる。途端にショーンの顔から笑みが消えた。 「外に出るの?」  羽柴は寝室の出口でショーンを振り返った。 「いつまでもここに閉じこもってる訳にはいかないだろ? このホテルの中にもレストランはあるし」 「でも・・・。一般の人がたくさん来るところに出るのは、今マズイんだ。特にホテルのレストランとかは観光客が多いし、カメラを持ってる確率が多いから・・・。ほら、俺ってこんな頭してるから、目立つんだよ」  ショーンは自分の赤い髪の先を摘んで言う。  確かに、羽柴もこんな濃い色の赤毛は見たことがない。目立つことは必須だろう。 「う~ん・・・」  羽柴は少し考えて、はたと思いついた。 「そうだ。いいところがある」 「え?」 「ここのレストランより、君が何者かよく分かってない客が来るところ。それに、俺の行きつけの店だから、目立たない席を用意してもらえる。きっと大丈夫だよ。ここから2ブロックぐらいしか離れていないし」  ショーンは、そんなところ本当にあるの?っな顔つきをしている。  だが羽柴は確信があるらしく、「問題は、ここを出る時に君だとばれないようにする必要があるだけだな」と呟いている。  ショーンがぽかんとして見つめていると、羽柴はポンと手を叩いて、リビングに姿を消した。  ショーンが追いかけると、羽柴はまたフロントに電話をかけている。 「オーケー。すまないね。恩に着るよ」  羽柴が電話を切る。  いまいち状況が飲み込めなくて、ショーンが眉間に皺を寄せていると、羽柴が帰ってきて脱いだばかりのジャケットに再度腕を通した。 「おっと、時計、時計」  羽柴はそう言いながら、バスルームに姿を消す。完全に出かける準備をしているようだ。  リビングに取って返した羽柴は財布とカードキーを腰のポケットに突っ込むと、「来たまえ」とショーンの腕を取った。  羽柴の大きな手に腕を掴まれて顔を赤らめているショーンを余所に、羽柴は入口のドアを薄く開けて廊下の様子を窺うと、人影がいないことを確かめ、「今だ」と囁いて走り出た。 「うわ!」  グイッと引っ張られて、ショーンも走り出る。  あっという間に一番近くのエレベーターに飛び乗った。  走ったせいなのか、突然のことに身体が驚いているのか、ショーンの心臓はドキドキ脈打っている。 「な、何・・・?」  ショーンが呟いたと同時にチーンとベルが鳴り、ドアが開く。  ホテルの一階フロアに辿り着いた。またグイッと引っ張られて、クロークの裏に連れ込まれた。 「お待ちしておりました」  シラーが笑顔で待っていた。  クロークの奥は様々な荷物が預けられており、小さな倉庫といった風情だ。  まだ状況が飲み込めないショーンは、羽柴とシラーの顔を交互に見比べている。 「おそらく、サイズは大丈夫だと思いますが」  シラーが奥の方から、ビニールのカバーが掛けられたスーツひと揃えを持ってくる。  ハンガーに引っかけられたそれは、ブラックの光沢のある生地のスーツに白いYシャツ、プラム色のネクタイ一式だ。シラーはビニールのカバーを外して、それをショーンに手渡した。 「これ・・・」 「お客様の忘れ物です。もう三年も預かりっぱなしなんですが・・・。今夜一晩ぐらいお借りしても差し支えないでしょう。使った後のクリーニングはこちらでできますので」  そう言って、シラーは再度奥から、今度は帽子を持ってくる。  ボルサリーノだ。往年の映画スターが粋に被っていたフェルト製のソフトハットである。 「これはお恥ずかしながら、私用のものなのですが」  濃いグレイの上品な逸品でつばがやや広い。 「これなら十分髪の毛も隠れそうだな」  帽子を受け取った羽柴は、機嫌良さそうに言う。  なるほど、ショーンにやや渋めのデザインのスーツを着させて、紳士に変身させるという作戦だ。  今の如何にもロック小僧といった風情の格好とは雲泥の差があるので、やる価値はありそうである。 「さ、着替えて」 「う、うん」  やっと羽柴の意図が飲み込めたショーンは、スーツを持ってクロークの奥へ姿を隠した。  程なくして、さっきまで着ていた服を片手に持ったショーンが出てくる。 「ほう・・・」  思わずシラーの口から溜息が漏れた。  羽柴も思わず見惚れる。  四、五歳は大人びて見える。全体的にしっとりとした雰囲気で、大きな茜色の瞳が余計に艶やかに見えた。  当の本人はというと、スーツを着慣れていないのか、やや挙動不審だ。 「こんなバリバリのスーツ、初めて着たよ」  自分の卒業式も出なかったショーンだ。確かに今までスーツを着る機会はなかった。  バンドの写真撮影で着ている服も大体が穴あきジーンズで、昨年ギタリストとして新人賞を貰った時さえ、スーツなど着なかった。  こんな濃い色のスーツを着ると、更にスラリと細く見える。  羽柴がさっき偶然とはいえ彼の身体を腕にした時は、意外にしっかりとした胸板と腕の筋肉を感じたのだが、どうやら着やせするタイプらしい。ウエストが細いせいだろうか。 「ネクタイ、どうした?」  羽柴が訊くと、「ネクタイの締め方なんて知らないよ」と口を尖らせる。 「ああ、そうか」  羽柴は、ショーンの背中に回り込み、ネクタイをショーンの首にかけると、手慣れた手つきで結んだ。ショーンは大人しくされるがままになっている。  羽柴が立てていたYシャツの襟を元に戻すと、当たった手がくすぐったかったのか、ショーンはブルリと肩を竦ませた。  羽柴は、パンッとショーンの肩を叩き、前に回ると、シラーに預けてあった帽子を手にとって、ショーンの頭にポスッと被せた。 「うん、なかなかの紳士だ。アラン・ドロンも舌巻いて逃げ出すかも」  羽柴が満足そうに頷きながらそう言うと、「アラン・ドロンって誰?」と答えが返ってきた。羽柴が口をあんぐりと開ける。その二人の様子を見て、シラーがクスクスと笑った。 「ミスター・ハシバ。我々とは世代が違います」 「・・・そうだな。今、自分の年を実感したよ」  溜息をつきながら緩く首を振る羽柴の袖を、ショーンが不安げに少し引っ張る。 「ごめん。そんなつもりじゃ・・・」 「別に怒った訳じゃないよ」  羽柴がそう言うと、ショーンはほっとしたようで、やっと顔を綻ばせる。照れくさそうな笑みを浮かべた。  瑞々しい花の香りがしてきそうな笑顔だ。  笑顔ひとつで人々を魅了する華やかさがあるのは、やはり彼がショービズの世界に生きているからだろう。四六時中華やかな世界にいて、華やかな人々と会っていれば、自然とそんな空気が身体に染みついていくものだ。  その瞬間羽柴は、この一時はやはり特別なんだという事実を突きつけられたような気がした。いや、実際、芸能人とこの距離でじゃれ合ってるなんてこと、一般の庶民からしてみてば、あるかないかのシチュエーションだ。 「さぁ、行ってらっしゃいませ」  シラーが二人の背中を軽く押す。 「ああ、そうしよう」  羽柴は瞬きを数回して、軽く息を吐き出すと、シラーに鍵を預けてクロークを出た。  ショーンも慌てて後を追いかけてくる。 「君の分のコートまで用意できなかったからどうかと思ったけど、今夜はなくても大丈夫そうだな」  羽柴はそうショーンに話しかけたが、ショーンは「う、うん」と強ばった声で返事するのが精一杯の様子だった。羽柴の質問内容は、まるっきり頭に入ってない。  そんなショーンの様子を見て羽柴は少し微笑むと、ショーンの耳元で囁いた。 「もっと胸を張って。歩調はゆっくり。慌てなくていい。帽子をそんなに目深に被ってるんだ。誰も君とは気付かないよ」  ショーンはゴクリと唾を飲み込んで、深呼吸をする。  次第に落ちついてきて、歩調も羽柴に合わせ、ゆったりとしてくる。  ホテルのロビーに入ってくる一般客達が、長身で姿のいいスーツ姿の二人に見惚れて行くのが分かるが、帽子のお陰でそれが若きロックギタリストだとは思っていないようだ。 「何だか、自分じゃないみたいだ」  帽子のつばの先に見える形のいい唇が、そう囁く。  羽柴はフフフと笑って、ポケットに手を突っ込む。 「今だけは、本当の自分を返上したらどうだい? ミスター・スミス」  ショーンも同じようにフフフと笑った。 「ミスター・スミスね。もっとましな名前はなかったの?」 「え? 駄目かな」 「当たり前過ぎて、偽名だってすぐ分かるよ」 「じゃ、どんな名前がよかったんだい?」 「そうだなぁ・・・。イチローとか?」 「あはは。そいつぁ、別の意味で注目を浴びちまう」  二人で和やかに談笑しながら表に出た。  昼間羽柴の部屋のドアベルを鳴らしたのとは別のパパラッチらしき男が数人いたが、誰もショーンには気付くことなく、二人はそのまま歩いてホテルを離れたのだった。
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