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壱
遠藤唯依には、その鈴を手放したくない理由があった。
「何で逃げる? その鈴を渡せば、あのバイクの男だって追ってこない! 身の安全は確保できる!」
「陛下は分かってません! この鈴は、私にとっては大事な大事な御守なんです!」
臼井と唯依は、TANAKAのKR3000に乗ったフルヘッドに追われていた。
理由は分からない。大学の帰路で二人で駄弁っていた所、黒塗りのバイクが轟音と共に現れ、こんなことを言うのだ。
「その鈴を、寄越しなさい」
そのとき、唯依は臼井に自慢話をしていた。それは、願い事が何でも叶う鈴を手に入れた、というものだ。
独り暮らしのワンルームで飼う三毛猫に、いつの間にかつけられていたというその鈴。一般的に想像しがちな金色の丸型をしていない。どっちかと言えば青銅製の銅鐸といった方がまだ正確で、猫の首に提げるには余りに重々しく感じられたそうだ。
「命より大事な鈴があってたまるか! 僕に渡せ!」
「やめてください、陛下!」
強引に唯依の手元から鈴を盗ろうとする臼井だが、走りながらなので上手くいかない。
不思議なことは、これだけ全力で走って鈴を振り回しているのに、金属音が全く響かないことだ。確かに鈴の中には揺れる舌があって外殻にぶつかっているのに、音が鳴らないのである。
「まずい、こっちだ!」
臼井は、入り組んだ路地を選んで逃げた。単純な速度でバイクに人が勝てる訳がない。唯一勝るのは小回り位だと判断した臼井は、直進路を避け、とにかく曲がり角を右へ左へ走った。
「巻けたか?」
住宅街の塀と塀の間、人が横から入っても腹が出ていれば支えてしまうほどの細い道に隠れる。激しく酸素を求める心臓を宥めるように深く、それでも静かに息を繰り返すと、臼井は唯依を問い詰める。
「何なんだよ、その鈴、拾ったんだろ。だったらあのバイクの奴のものかもしれないじゃんか。何で持って逃げるんだよ。」
汗だくになって顔を赤くする臼井に対し、唯依は飄々としている。流石は陸上部だとお見逸れする。
「だってこれは、私の命を救ってくれた鈴なんです。それに、もしこれがあの人にとって大事な鈴だったとして、どうして猫の首に括ったりするんですか。」
唯依は両手で包んだ鈴を、子守り同然に懐に寄せる。
唯依は語る。その鈴のお蔭で、二度もピンチを乗り越えてきたのだ。
喧しそうに鈴を殴る猫を見兼ねて鈴を外した唯依は、その鈴が鳴らないことに退屈し、部屋に放置したまま数ヶ月その存在を忘れてすらいたという。だから唯依は驚いた。ある日、鈴が鳴ったのである。
それは、唯依が探し物をしていた時のことだ。その日の深夜、必修科目の作成済みレポートが入ったUSBを失くしてしまい、唯依は焦っていた。その単位は進級するために落としてはならないものだったため、尚更だ。レポートを出しさえすれば落単することはないらしいが、唯依は正にそのレポートを提出できないかもしれなかったのだ。タイムミリットは午前0時。残り数分。担当教授のメールアドレスに、添付ファイルとして送信出来ればそれで良かったのだが、唯依は肝心のデータの入ったUSBをどうしても見つけることが出来なかった。そんな時だ。留年がほぼほぼ不可避となった時刻に、絶望感に浸りつつも机の上の物を薙ぎ払うようにして捜索を続けていると、鈴が鳴った。机の上に置かれたその鈴が、落下の衝撃によって音を奏でたのである。
すると、ほぼ立て続けに玄関の戸が叩かれる。現れたのは、大学の同学科の友人。「これ、唯依のUSBじゃない?」と告げられると、俄かに思い出す。唯依はその前の日、友人宅で作業をしていたのだ。結局、友人が届けてくれたお蔭で無事レポートを提出することが出来た。これを唯依は鈴の御利益だと言うのだ。
もちろん、エピソードはそれだけでない。
それから数日後、夕飯は実家から送られてきた卵を使ったTKGにしようと準備をしていたら、これまた鈴が鳴り、ほぼ同時にインターホンの音が室内にこだました。現れたのは、頼んだ覚えのないピザの宅配業者である。勿論、唯依は一度は宅配違いではないかと指摘したのだが、業者はクレジット決済されているから受け取ってくれないと困ると言う。玄関先で言い争うのも変なので一旦受け取り、店に電話すると、やはり宅配違いだったのだが、店側のミスなのでピザは食べてよいと言う。結局、夜飯はピザとなり、卵かけご飯はお預けとなった訳だが、唯依を震撼させたのはその後に掛かってきた親からの電話だった。曰く、仕送りした卵はサルモネラ菌に汚染されているから、絶対に食べるなと言うのだ。ピザの誤配がなければ、唯依は今頃食中毒になっていたかもしれない。それを防いでくれたのが、紛れもない鈴の御利益だと唯依は言う。
「何を馬鹿なことを、唯依らしくない。鈴が鳴った直後に来たって事は、友達も業者も鈴が鳴る前から唯依のマンションには来てたってことだろう? たまたまそのタイミングで鈴が鳴ったっていうだけで、鈴が鳴ったからピンチを回避出来た訳じゃない。よくある話だ、因果関係が逆なんだよ。」
唯依は相変わらず詰まらない男だと臼井を蔑む。しかし同時に、逃走する唯依の側を離れない臼井を親身な男だとも感心している。フルフェイスが狙うのは、あくまでも鈴だ。その鈴を持つ自分から離れてしまえば追われはしないだろうに、臼井にはそういった気が更々ないようだ。
唯依は臼井の横顔を眺めていた。だからその顔が正面を向いた時、俄かに瞳孔が開く様をまざまざと観察することが出来た。臼井の水晶体には、黒塗りの二輪車が映っている。
「見つけましたよ、ニギツミノスズ」
声が後ろから聞こえたと思った頃には、唯依は臼井に腕を引っ張られ、路地を出ていた。
「嘘だろ!?」
臼井は打算していた。あの狭い路地に隠れていれば、左右どちらから見つかっても、反対側に逃げ出せば、バイクは迂回を余儀なくされる。
その筈だったのだが、バイクは路地をすり抜けて来たのだ。車体の横幅は確かに路地の幅を上回っていたのだが、速度をあげて車体を傾けたことにより、対角線上を走行することに成功していた。
「くそ、ゴキブリかよ」
車体は無論、ボディースーツからヘルメットまで光沢のある黒で統一されたその姿を、臼井は気色悪いと思う。
運悪く、路地を抜けた先は分岐の直進路だ。臼井は唯依の腕を引っ張りながら、ブロック塀で囲まれた長い一本道の左右を見渡し、活路を探す。そんなことに頭を使っているものだから、足下への注意が散漫になっていた。
「陛下!? 大丈夫ですか!?」
臼井は足元の僅かな段差に躓き、盛大に転倒してしまう。唯依は勢い余って臼井よりも数歩先に進んでから振り向く。すると、アスファルトに横たわる臼井を、今にも轢こうとする車輪の高速回転を見るのである。
唯依の背筋は凍った。この一瞬のうちに冷や汗が噴き出して、喉元を擽る。
そしてその寒気が、唯依にとある場面を回顧させる。即ち、留年を回避したあの日と、食中毒を回避したあの日●である。確かあの時も、同じ感覚を味わったのだ。
唯依は分かっている。この鈴を持って全力疾走している中で、内部に垂れた舌は確実に外殻に触れているものの、音を奏でてはいない。だから、普通の感覚なら、音は鳴りようがない。どんなに揺らそうと無駄だ。
「お願い、鳴って!」
けれども唯依は無意識に、ほぼ反射的に鈴を持った手を前に突き出した。
このままでは、臼井が轢かれてしまう。その緊迫は、唯依の身体を突き動かすのに十分なほどに大きかった。
「えっ?」
結果、鈴は鳴った。
するとバイクは急停車する。フルフェイスが突然ブレーキを強く掛けたのだ。車輪は臼井の身体に触れて止まり、乗り上げることはない。
「えっ? えっ? えっ?」
狼狽するのは唯依である。
風が南西に吹くと、鈴の音は大気に馴染んで消えたが、その代わりと言わんばかりに、その場にある男を残していく。
脇のブロック塀を乗り越えて降り立ったであろう男は、仁王立ちでバイクを睨む。
「どういう状況かな、これは」
男はカッチリとした制服を着ている。筋肉質なのは、盛り上がる胸と二の腕からよく分かる。刈りあがった短髪をしていて、顔は首との境が一本線で隔てられる程に引き締まっている。
バイクは数秒間停止する。目線を窺うことは出来ないが、突如現れた男を注視していることは推察できた。理由は分からない。しかし確かにバイクはその男の登場を契機に臼井と唯依ーーもとい鈴の追跡を諦めたらしかった。けたたましいエンジン音を轟かせたと思うと逆方向に舵を切り、猛スピードで走り去っていく。
「お前、近江(おうみ)か?」
臼井は九死に一生を得たことに腰を抜かしつつも、その男に釘付けになる。
「晃(あきら)だよね?」
臼井と唯依が殊更に驚くのは、その男が知己の者だったからだ。
「久しぶりだな、臼井、唯依。高校卒業以来だから、ほぼ一年ぶりか。」
近江晃(おうみあきら)と呼ばれた男は、深いえくぼを作って微笑む。
「お前、髪どうしたんだよ」
臼井が近江を中高の同級生であると認識するのに時間が掛かったのは、近江のその髪型が、その時代のものとは掛け離れていたからだ。
「ああこれね。恥ずかしいな、いがぐり頭で。」
「坊主が厭で野球部辞めたお前が」
「流石に俺も国防大生なんでね。田舎の公立高とは訳が違うさ。」
近江は後頭部を撫でて歯を見せる。かつて茶髪にピアスをし、鬼顧問で名を馳せていた重鎮教師に啖呵を切っていた者と同一人物とは思えない。
「その制服、国防大のものか。そういえばお前はいつも言ってたな、国防隊の●」
「陛下、今はそんなことより、大丈夫なんですか?」
臼井は近江との再会を喜び昔話に花を咲かせたがるが、唯依が横槍を入れる。唯依はまだ心臓の高鳴りを収められずにいる。あのバイクは何者で、今起きた事の顛末を整理すべきと言いたいのだ。
「ああ、何故か分からないけど、近江を見て一目散に退散してったからな。きっと三対一は分が悪いと判断したんだ。もう大丈夫だろう。」
「そうじゃなくて、陛下の身体がです」
唯依は鈴を両手に握り締めて問い直すが、見た感じ外傷はない。
「えぇ、お前まだ陛下とか呼ばれてんのか。いい加減イタいって気付いた方がいいぞ。」
「うるさいな、未だに陛下って呼んでくるのは唯依ぐらいだよ。人に聞かれて恥ずかしいからって、何度言っても利かないんだコイツ。」
無事を訊いて頓珍漢な返事をし、しまいには近江と他愛もない話をし始めたので、本当に無事なんだろう。
「お前達は、変わってないってことだな。ノボル陛下」
臼井は下の名を陛(のぼる)と言った。臼井陛。平成生まれらしくない音に、この漢字を当てた両親を恨んだ時期もある。
ノボル陛下とは、臼井の幼い頃の渾名だった。子供は虞知らずだと思う。周りが大人になるに連れて、流石に陛下と呼び揶揄う者は減ったが、唯依だけは当時からスタンスを変えようとしない。敬語もそのままだ。
「しっかし、あのバイク何だったんだ?」
「分かんない、唯依の持ってる鈴を盗ろうとしてたってことは確かなんだが」
「鈴?」
唯依は近江に鈴を見せた。
「変な形の鈴だな、それ」
「そうだよね。ただ、これが鳴ると願い事が叶うんだよ。きっと凄い力があって、それをあのバイクも知ってたんじゃないかな。さっきもこれが鳴ったら晃が来てくれて、陛下が助かったの。なかなか鳴ってくれないのが玉に瑕(きず)なんだけど。」
「そうだ。近江が来てくれたから僕は助かった訳だけど、何で寺府にいるんだ? 国防大って、確か縦浜だろ?」
寺府とは、臼井と唯依の通う東京総合大学、通称東総大のある寺府市のことだ。国防大は、国家防衛大学の略で、国防隊の幹部司令官の育成を目的とした国防省直轄の大学である。それぞれの最寄りである寺府駅と縦浜駅は寺浜線で一本だが、始点と終点に当たるため、賞味二時間はかかるほどに距離がある。目的もなく降り立つ訳がないと臼井は言うのだ。
「まぁ端的に言えば、勧誘だよ。もともと臼井に会うつもりで来たんだ。」
「勧誘? まさかお前、また怪しいサークルに入ってる訳じゃないだろうな?」
臼井は思い出す。近江は高校時代、顧問教師と破局して野球部を辞めた後、山岳部に入部している。山に罪はないのだが、問題なのは、山岳部員の中には怪しい新宗教に没入している者がいて、その影響からか近江が胡散臭い説教を始めるようになったことだ。近江は山岳信仰の一種だと弁解したが、臼井は一時期距離を取るようになった。
「単純な勉強会●だよ。大学のゼミみたいなもんで、持ち回りで自分の専門分野について発表し合うんだ。俺も人脈作りだと思って参加したんだが、結構面白いぞ。」
「人脈人脈って、大丈夫かよ。意識高い系こじらせてるようにしか思えないぞ。それか勉強会の体を取った出会い系サークルか。」
「相変わらず失礼な口だな。俺は国防大生だぞ。●そんな不埒なことがあるか。」
「ブラ線事件を忘れたか」
「……忘れた」
ブラ線事件とは、高校入試の筆記試験本番の日の朝、会場まで自転車を漕いでいた近江が、目の前を同じく自転車で走っていた女子高生のワイシャツの透けるブラジャーの線に見惚れて、そのまま隣町の女子高に辿り着いてしまったという一件を言っている。結果、大遅刻をし試験こそ受けられたものの落第寸前だったらしい。
近江はプレイボーイだ。高校時代、付き合っただの関係を持っただのという噂を臼井が耳にしたのは、一度や二度ではない。だから尚更、臼井は信用しない。
「だいたい、何で僕を誘うんだよ。わざわざこんな所まで来て。」
「勉強会●の連中は変わった奴らばっかでな。誰でも入れる訳じゃない。主宰してる代表の人がいるんだが、特別何かに詳しかったり、変わり者だったり、その人が認めないと入れないんだ。それで、俺が思いついたのが臼井だった訳だ。」
「つまり、僕が変人だと?」
「そうだ。もちろん、唯依も一緒でいい。お前達はセットみたいなもんだからな。」
「ええ、私も?」
「断る」
「そんなこと言うなよ、臼井ぃ」
臼井が突っ撥ねると、近江はその答えが想定内だと言わんばかりにえくぼを作り、臼井の首に左腕を回してじゃれ合う素振りを見せる。
実際には、このじゃれ合いは自分を唯依から隔離して、こっそりと揺するために為されたものだということに、臼井は直ぐに気がついた。近江の右手には、スマホが握られており、その画面には、臼井にとって懐かしいアイコンが表示されているのだ。
近江はこう囁く。
「このツイッターのアカウント、お前だろ?」
臼井は固まった。図星だったからだ。
「この『右粋昇』って、IDで『@migiiki_sho』って読ませてるけど、工夫すれば『うすいのぼる』って読めるよな?」
「何でこれを」
「最近は全然更新してないみたいだけど、古いツイートがRTで俺のTLに回って来たんだ。びっくりしたぜ。見逃してもおかしくなかったが、お前をよく知る俺だからこそ気がついた。」
近江は直接言わないが、これは一種の脅しだ。
今でこそ『多弁能無し』『大賢は愚なるが如し』と声高に何かを主張することを控えている臼井だが、かつてネット弁慶をしていた時期があった。それは、臼井にとっては晒されたくない黒歴史と言える。
「とりあえず、代表に会ってくれるだろ?」
「しょうがねぇな」
「これから空いてるだろ? どうせ臼井は何も部活やサークルに入ってないだろうし。今帰り道だったんなら、唯依ももう大学はないんだろう。」
近江は臼井を腕から解放すると、決まりだと手を叩く。
「唯依はついでに、その鈴持っていくといい」
「え? なんで?」
「今から会う人ーー代表は、本当に何でも知ってる人なんだ。もしかしたら、その鈴についても何か知ってるかもしれない。それでバイクに追われた理由が分かれば、一石二鳥だろ。また同じ目に遭うかもしれないし。」
その後、三人は駅へ歩み、代表の元へ向かった。
道中、臼井と唯依はまた例のバイクが現れるのではないかと警戒し何度も道を振り返っていたが、近江の視線はブレなかった。主にその目は、唯依の胸元を向いていた。
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