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弐
三人は、文都区は本里にある帝国大学にいた。
メディアに露出の多い象徴的な青門を潜り抜けると、構内は何処か薄暗い。天気は快晴なのだが、木々や高い建物に囲まれていて、曇天さながらに思えた。直ぐ右手に苔に外壁を蝕まれた古い講義棟が聳えている。その中に入っても、蛍光灯は使い古されていて暗さは拭えない。二階に上がり、連絡橋を伝って隣の研究棟に入ると、その部屋は間近だ。
「連れてきました、アミさん」
近江が先導して空けた扉の表札には、『教養学研究室』とある。その下には研究室メンバーと思しき名が連なっていて、その二番目に『善野有未』とあるのを臼井は確認する。
「あら、早かったわね。近江くん。そちらが、例のお二人かしら?」
「ええ。臼井陛と、遠藤唯依です。」
両脇を天井擦れ擦れまで本棚に囲まれた長細い研究室には、人が独り。ノンフレームの眼鏡をかけた女性ーー善野有未が、中央に置かれた質素な椅子に腰掛けている。
「はじめまして、噂は近江くんから聞いているわ」
有未はハードカバーを閉じて立ち上がり、握手を求めた。如何にも帝大生らしい身なりだと臼井は思う。勉強会を主宰するくらいアクティブな人なのだから、きっとバイタリティ溢れる男だと思っていたのだが、思い違いであった。むしろ何処かの図書館で司書をしていそうな物静かで本の虫といった印象である。
「はぁ、どうも」
「昼間はどうせワタシしかいないから、適当に座って。遠藤さんも。」
「ありがとうございます」
臼井は、有未に促される前に既に腰を据えていた。強い地震が起きたら本の下敷きになってお陀仏だな等と考えていると、唯依が椅子の柱を足で小突いてくる。
「陛下、奥に詰めてください。邪魔ですよ。」
臼井が入口付近のパイプ椅子に陣取ったので、通路を塞ぐ形となり近江と唯依は立ち往生してしまったのだ。
臼井は無言のまま二席分奥に詰める。敬語に敬称のくせに微塵も敬意が感じられない唯依に文句を言いたいところだが、臼井は初対面の人前で普段通りの掛け合いが取れなくなるほどには人見知りであった。
「全く、これだから陛下は童貞なんです」
「お前、口には気をつけろよ」
対する唯依は臆しない。元より人目を気にしない質なこともあって、●
「陛下?」
当然、有未はその呼び名に引っ掛かった。近江がすかさず補足する。
「こいつね、陛下って呼ばれてるんですよ。俺が出会った時から二人はいつもくっついてて、陛下陛下って。別に尊敬されてる訳でもないくせにね。」
「うるさいぞ近江」
有未は眼鏡の橋を押さえる。
「ワタシ的には呼ばれてる臼井クンもそうだけど、呼んでいる遠藤さんの方により興味があるわ。なんでそんな呼び方をしているの?」
「何で、ですか?」
唯依は吃る。その場にいた誰もが唯依の回答に思いの外時間がかかり過ぎていることに気付いている。
「分からない、です。分からないけど、なんとなく。」
熟考した末の返事がそれだったので、臼井は「何だそりゃ」と漏らすのだが、有未はクスリと笑った。
「なんとなく、か。うん、面白いわ。変わってる。」
「じゃあ、合格ですかね」
近江が問うと、有未は頷く。
「ええ、もちろん。臼井くん、遠藤さん。是非入って。もちろん、入りたければだけど。」
近江は有未に二人が認められたことに安堵した様子だったが、肝心の入会については二人は保留した。そもそも誘われるがまま連れてこられたという印象が強かったし、活動は基本的には帝大で行われるというので、電車で片道三十分はかかることがネックに感じられたのだ。
「やっぱり、帝大生が多いんですか? メンバーは」
東総大の臼井としては、いけ好かない気持ちが残る。というのは、東総大は帝大の滑り止め校と言われているからだ。元々、帝大一強と言われていた大学の勢力図において、都内に乱立していた国立の単科大学を統合的に再編し、帝大に負けない規模と実力を兼ね備えた対抗馬として想定され設立されたのが東京総合大なのだが、悲しい事に、実態は帝大の二軍とも言える存在に成り果てている。
「いいえ、そんなことないわ。メンバーのうち帝大生は二人ね。工学部の山津くん●と、●医学部の●くんね。確かに二人はピカイチで、●くんはコンピュータに、●くんは細菌なんかにとても詳しいけれど、まぁ、たまたま帝大生だったってことに過ぎないわ。現にワタシも大学院こそ帝大だけど、出身は東京師範大よ?」
「そうだったんですか。じゃあ、僕らの先輩とも言えますよね。」
「ええ。そうね。東総大の前身の一つですからね。」
東京師範大学とは、かつて寺府市にあった教育学部のみの国立大学である。キャンパスと教育学部の組織はそのまま東総大教育学部へ引き継がれているので、ほぼ東総大の前身といって差し支えない。その点で、臼井は有未を先輩というのである。
「実を言うと、この●アジール●は、東総大を作った組織と言ってもいいのよ?」
「どういうことです?」
「今でこそ●アジール●っていう名前でやってるけど、その前は『旧帝国大学外都内国立大学学生連合』っていう、長ったらしい名前の組織でね。その名の通り、東京に帝大以外の国立の総合大を造ろうって動いてたのよ。」
「あっ、知ってますそれ。『帝外国立(ていがいこくりつ)』ですよね。先輩が言ってました。」
「そう、言うとおりね。その帝外国立に、ワタシは師範大の新入生として参加したの。もう十年近く前の話になるわね。君たちも知っての通り、晴れて東総大が五年前に開校して、それに伴って帝外国立も自然消滅しかけた。折角、各大学の有望な学生が集まって、一つの事を成し遂げたのに、これで終わりってなった時にワタシは惜しくて。それで、帝外国立の後身団体として●アジール●を立ち上げたの。」
「奇才・天才しか入れないっていう伝統も、帝外国立時代の伝統の踏襲してるんですよね。」
近江は有未に話しかけつつ、唯依に懐に仕舞う鈴を出すようにジェスチャーする。
「ええそうね。決して数で訴えるような団体にはしない。少数精鋭でやって行こうっていうのが、最初期の理念だったのよ。」
「そうそう。その精鋭のうちの一人であるアミさんに、見てもらいたいものがあるそうなんですよ。なあ、唯依。」
「見てもらいたいもの?」
「はい。これなんですけど。」
唯依は机の上に鈴を置いた。置くた時の固い音だけでも重量が耳に伝わる。
「鈴、かしら?」
有未はその鈴を手にとって、鑑定士さながら四方八方から観察し、指で弾いて感触を確かめる。鈴を下から覗いて、僅かな隙間から内部の舌を確認すると揺らし、音が響かないことを確認する。
「驚いたわ。これ、駅鈴に似てるわ。」
「駅鈴(えきれい)、ですか?」
復唱するのは近江である。
「近江くんは理系だから、分からないかもしれないわね。日本史の教科書で見たことない? 古代、奈良時代の日本で、駅伝制が敷かれていた時に、公務員が全国にある駅で馬と護衛を要求するために使われた鈴よ。この鈴を持っていることが、官吏の証明だったのよ。」
駅伝制とは、大化の改新以後の中央と地方を結んだ交通制度である。全国の要所に馬と護衛を駐在させた駅を設置し、官吏は朝廷から支給された駅鈴を用いて、駅において使役を催促したのである。つまり鈴は呼び出しの道具だったのだ。
「確か現存するのは、隠岐島に残る二つだけだったはず。もしこれがワタシの目測通りの駅鈴の本物だったとしたら、もの凄い価値のものよ。」
有未はそう言いながら、机にそっと鈴を置いた。素手で触っていたのが恐れ多いと言わんばかりに、ハンカチで手を拭う。もちろん鈴は緑青に錆ついているので、その錆臭さを嫌ったというのもあるだろう。
「ええ、そんな大変なものなんですか。この鈴。」
「ということは、骨董的な価値が高かったから狙われたのかもしれないってことだな」
「なるほど、その可能性は高いな」
「どうしましょう、陛下。そんなこと言われたら、私もう気安く触れないですよ、これ。陛下持っててくださいよ。」
「うわ、やめろ、落としたらどうするんだ」
唯依はその鈴が駅鈴だと言われた途端に、臼井に鈴を押し付けるように投げた。臼井は思わず落としそうになって冷や汗をかく。だから、近江の鈴に対する熱い目線に気が付きはしない。
「こんなものが猫の首につけられてたなんて、とんだ幸運を運ぶ猫ね。」
「流石は帝大生・アミさんですね。もしかしたらと思って聞いたんですが、鈴についても守備範囲内だとは。知識の鬼だ。」
「正確には院生ね。もうワタシも二十七よ。こんなに長く学生してれば、知識も増えて仕方ないわ。」
唯依は有未の発言に違和感を覚えたが、近江が会話を途切れさせないので、言わずに放置した。
「にしても、そんな価値のあるものなら、警察に届けた方がいいよな、これ」
臼井は手に鈴を乗せて落ち着かない。手の脂がついたらと思うと気が気でなくて、交互に鈴を持ち替えてはズボンで掌を拭う。
「もしあの例のバイクが本当のその鈴の持ち主だったとしたら、警察に行ってもらって受け取って貰えばいいし、仮に骨董品狙いの強盗なら諦めて貰えるだろ」
臼井としては、その鈴を早く手放してしまいたかった。そもそも、バイクに追われていた時から、とっととくれてやればいいと思っていたのだ。
「じゃあ、俺が届けといてやるよ」
だから、近江が臼井の手から鈴を奪い取っても、何の抵抗もなかった。むしろ警察まで行く手間が省けたと考えたくらいだ。
「さて、それじゃあ今日の俺の目的は済んだ訳だし、帰るわ。何かあれば、アミさんに聞いてくれ」
「何だよ、紹介するだけして、無責任だな」
「悪いな臼井、国防大は全寮制なんだ。外出許可は貰ってるが、門限に厳しくてな。」
そういって、近江は部屋を出ていってしまった。
静かなキャンパスでは、近江の去る足音がよく響く。その音が遠くなった後、空間を完全に静けさに支配される前に、有未が切り出す。
「君達は、近江くんとは付き合い長いのかしら?」
「長いことは長いんだと思います。幼馴染と言えるかは分かりませんが、小五の時に奴が転校してきてからの腐れ縁です。」
「そう。なら、是非彼をよく見ていてあげてね」
「はぁ、よく見る、ですか?」
臼井は有未の瞼を見たが、有未は臼井の目を見ずに、視線を厚い本に落として言う。
「ええ。彼はまだ青い。まだまだ本を読むべきなのに、性急に行動したがる。注意してあげてね。」
臼井は生返事をする他なかった。
一方、外へ出た近江は、その音が鳴ったとしても聞こえないであろうほどに十分に距離を取ってから、手に取った鈴を振る。
「やっぱり、鳴らないな」
近江晃には、叶えたい野望があった。
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