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五
臼井には、近江が必ずやって来るだろうという確信があった。
「本当に大丈夫なのですか?」
「大丈夫です、菊嶋さん。きっと来ます。」
近江が鈴を鳴らそうと試行錯誤し、そのために全ての時間を費やしているとするならば、実際に二度と鈴を鳴らした唯依からの情報提供の申し出を断るはずがない。
「そうじゃありません。こんなことを、女になんぞ任せてしまって、大丈夫なのかと伺っています。」
「大丈夫です。唯依は、信頼できる奴ですから。」
正午少し前。
唯依は独りで、大条中脇の河原、その脇のベンチに座っていた。平日の昼間ということもあり、人通りは少ない。時たまサイクリング中の自転車が横切ることはあるが、速度が早いからその表情が読まれることはない。
もし歩いている人に顔を見られたら、きっと緊張を見破られていただろうと唯依は思う。羽虫が唯依の顔の周りを囲うが、特段払う気にもならない。
「ゆい」
その声を聞いた時、体が意志とは無関係に痙攣した。
「晃、来てくれたんだ」
階段を使わずに土手をわしわしと登ってきたのは、近江晃。服装は以前と同じ、国防大の制服だ。
「来てくれたも何も、唯依が呼び付けたんだろう」
「そうなんだけどさ、既読、つかなかったし」
「つけなかった訳、分かるだろ、あんなメッセージくれたんだから」
近江は立ったまま話し、唯依は座ったままだった。
近江は唯依の頭を見るが、唯依は顔を上げない。従って、目線が合うことはない。
「ごめんね、晃」
唯依の目線の先は、大条橋の下に向いている。日影となり、丁度死角となっている橋の下から、人影が二つ見える。一人は、よく知っている者の姿だ。
近江は予想が出来たこととは言え、深く、それは深く息を吐いた。
「やっぱりお前の入れ知恵か、臼井」
日の当たる草むらまで出てきた臼井とは、直ぐに目があった。声を張らねばならないほどの距離があるというのに、睨み睨まれているのが明らかに分かった。
「悪いな近江」
「気にするな臼井、お前がそういう奴だってことは、よく知ってる」
臼井の後ろには、日陰から出ても全身が黒いままの人間が黙って立っている。近江はその顔を見たことがなかったが、シルエットから十分に推測できた。
「そこにいるのは、宮内護衛官の方で?」
「ええ。菊嶋旭と申します。」
呼びかけられた黒ずくめは、表情を変えず、背を正し、ただ律儀に自己紹介する。言わずもがな、近江と連絡が取れるはずだと思い、臼井が呼んだものである。
同級生の三人の間には、微妙な空気が流れた。唯依のメッセージに反応してここに現れた時点で、答えは出ているのだが、臼井は唯依がまだ近江の潔白を信じているものと知っているので、なおさら切り出しにくかった。
「君、鈴をお持ちですよね?」
故に、口火を切るのは、菊嶋だった。
それは核心だ。もし、この場に鈴を持って現れたのであれば、近江は、鈴を鳴らすために唯依に接近してきた証拠になる。
唯依は唾を飲んで、近江を見た。
「ええ、持ってますよ」
口と手が同時に動き、胸元から緑青に染まった金属の塊を引っ張り出す様子を、至近距離で確かに見ることが出来た。
「これでしょう?」
唯依は目を見開く。見開いたのは、それが間違いなく和萬乃鈴(ニギツミノスズ)だったからというだけではない。近江が懐から紅白の紐に繋がれた鈴を取り出すと同時に、その鈴が、確かに音を奏でたからである。
「音が、鳴った?」
臼井がそう認識した時には、既にそれは目の前を通過していた。
「うグッ!?」
鈍い悲鳴が響く。そして同時に、空を劈くような轟音。それが銃声だと気付いた頃には、菊嶋の鮮血が噴出し、放物線を描いてあたりに撒き散らされていた。
「菊嶋さん!?」
「ぐぅぅ」
菊嶋は地に倒れる。股関節の外側を抑えて、痛みに悶えている。近くには、弾痕に摩擦熱で溶けた丈の短い草。銃弾が地面にのめり込んで突き刺さっている所を見ると、恐らく菊嶋の太腿を掠ったのだろ。
貫通した可能性は低い。何故なら、臼井はその銃を放った男を、土手の上に視認したからだ。土手のサングラスをかけた、見るからにヤクザ風の身なりをした男。その手に持つピストルサイズの銃は、近江や唯依よりも遠い位置から撃って、貫通するほどの威力が有りそうにも思えない。
「なんだ、あいつは何なんだ!? 何が起こった!?」
男は菊嶋が血を噴いて倒れたのを見ると、一目散に走り去ってしまう。土手の反対側に消えると、車のエンジン音が起こり遠くなっていく。
狼狽する臼井を、涼しい顔をした近江が見下す。
「多分、どっかの暴力団員だろうぜ。最近、派閥分裂の影響で抗争が激化してるって地元新聞でやってたしな。」
「多分? お前が予め用意してた刺客じゃないのか」
「おいおい、俺にだって流石にヤーさんの知り合いはいねぇよ。呼び付けたんだよ、これでな。」
得意気な近江は、手元で鈴を見せつけるように揺らしている。陽の光が当たって輝く鈴は、今度は音を響かせない。
「遅かった。鈴を、鳴らせるように、なっていたとは。」
「ええ。『第四の神器・和萬乃鈴』を鳴らすには、いくつかの条件がある。気温・湿度・風向・風速・南中高度・月の満ち欠け・香り・動植物の有無●。って、聞いてますか?」
菊嶋は太腿を両手で強く抑えて蹲っていたが、自分の血を見て貧血を起こし、気絶してしまう。
「堕ちたか。まぁいい。とにかく、鈴を手にしてからというもの、俺は研究に没頭した。それは我武者羅に色々な条件を試して、鈴が鳴った時に共通する要因を抽出するという、果てしないものだ。行き詰まって、猫に鈴をつける風習があることにも何か因果があるのかもしれないと考えて、猫の首に括り付けて見たこともある。」
唯依は近江の言葉によって気づかされる。近江は唯依よりも前に既に鈴を保有していたのだ。そしてその鈴が猫によって唯依の許に齎されたのも、近江の実験の一環であったのだ。猫を知り合いのものにしたのは、きっと回収が楽だと考えたからだろう。そう考えれば、菊嶋にバイクで追われていたあの時、近江が突然現れることが出来たのも納得がいく。近江は鈴をずっと監視していたのだ。
「研究する中で、俺は多くのことを突き止めた。この鈴の効果は、正確に言えば『願い事が叶う』というものじゃない。『この鈴を鳴らした時、鳴らした人間が最も必要とする人間を、呼び寄せることが出来る』んだ。」
現代でもそうだが、鈴は人などの対象を呼びつけるための道具として利用される。飲食店で店員を呼ぶ時、神社で神に願いを請う時。用を満たすため、人は鈴を鳴らす。神器・和萬乃鈴は、その鈴の目的を突き詰めた究極の至宝と言えよう。
「じゃあ、あの極道は、今さっきお前が鈴を鳴らしたから、ここに呼びつけられて来たっとことなのか」
「ご名答だよ、臼井。きっと、そこの公安の姿が敵対勢力の誰かに似通ってて、誤って撃っちまったんだろう。誤爆に気付いて、慌てて逃げていったって所かな。この鈴を鳴らした俺に、呼びつけられたとも知らずにな。」
唯依の脳裡には、同学科の友人の顔と、ピザの宅配員の顔が浮かぶ。
「恐ろしい鈴だな、まるで魔術だ」
臼井は眼前で人が銃弾に倒れる様をまざまざと目撃したばかりに、足が竦んで動けずにいる。
「恐ろしい? 素晴らしいの間違いだろう。それに、魔術なんかじゃないぜ。これは俺の推論に過ぎないが、この鈴が人を呼びつけるまでにはきちんとしたプロセスがある。『風が吹けば桶屋が儲かる』って、知ってるだろう。一見無関係で何の影響もなさそうな小さな出来事でも、大きな物事の遠因になっているものなんだ。原因があって結果がある。だから『鈴が鳴ればヤクザが誤射する』、そんなことだって、有り得ない話じゃない。この鈴は、原因と結果を調節して、最終的に目的を果たす。そんな素晴らしい神器なんだ。」
近江は両手を広げて演説した。
鈴は、近江の胸元にぶら下がる。紅白の捻られた紐によって括られ、決して落とすまいと何重にも固く結ばれている。
「そんなに鈴が素晴らしいか、そんなに、鈴が大事なのかよ」
既に鈴を鳴らせるようになっていたこと以上に臼井を混乱させるのは、同級生が、殺意を以て人を人に撃たせたという事実だ。狂っていると思わざるを得ない、受け入れがたい事実だ。
「大事だよ。こいつを自由に鳴らすことが出来るようになれば、野望が野望でなくなる。使いこなすことが出来れば、いつでも必要な人と出逢うことが出来る。これこそ最強の『人脈』と言えるだろう。」
「国防省の、命令でやっているのか」
「国防省? ああ、お前は俺が何かの国家任務的な動機で動いてるとでも思っているんだな。だとすればそれは、甚だしい妄想だ。あくまでもこれは、俺個人の企てだよ。」
「だったら、何で。何でこんなことまでして鈴を操ろうとするんだ。目的は、何なんだ。」
雲の流れが早い。太陽が雲隠れして近江の顔を暗くしたかと思えば一転照らされ、照らされたかと思えばまた暗くする。近江は、顔が暗くなった時にこう言った。
「分かってるだろ、臼井」
臼井は、実を言えば分かっていた。近江は、かつて事あるごとに、その野心を言葉にして臼井に打ち明けていたのだ。その発言が余りに浮世離れしていたので、敢えて思い出さないようにしていたのだが、その立ち振る舞いの威風堂々さ加減に、とうとう看過出来なくなってしまう。この田舎で育った多感な少年は、頻繁にこう言っていたのだ。
「『王に、なる』?」
近江は、腕を後ろ手に組み、胸を張る。国防大の腕章付きのその服は、今となっては学生服というより、まるで軍服だ。白いボタンに日光が当たると、勲章を示す星のようにも錯覚した。
「その通り。俺は、王となる。」
臼井は思う。自分達が今中学生だったなら、近江を中二病だと揶揄って、笑うことが出来たかもしれない。しかし、皆既に十分に大人なのであった。
鳥肌が立つ。本能が近江を危険と知らせていた。
「唯依! こっちに下りてこい!」
半ば無意識に声が出た。近江と至近距離にあった唯依を少しでも遠ざけようと、自分に近づけようと叫ぶ。
「もう一つ教えてやるよ、臼井」
唯依は腰を浮かし、足をもつらせながらも土手の斜面を降る。その、ちょうど中腹のあたりに差しあたった頃だ。
「唯依!」
今度その女の名を叫んだのは、近江だった。
唯依は、見た目でもはっきりと分かるくらいに大きく 全身をビクつかせた。
「いいのか?」
近江が続けて言うと、その足が止まる。首だけで振り向いて、近江が指先で自分を手招く姿を見ている。
「どうした唯依!? 早く降りてこい!」
臼井は必死に手を仰ぐ。だが、唯依の足は直ちには動かない。ようやくその足が動いたと思えば、反対方向へ舵を取り、降った坂を登り始める始末だ。
フラフラと、長く正座を続けた後のようにぎこちなく、しかし確かに、唯依は歩く。結果、近江の元へ辿り着く。
「なっ」
臼井は絶句した。
全身に電流が流れる。手足が痺れる。瞳孔がこれでもかと開かれているのを感じていても、自分の意思で閉じることが出来ない。
臼井は目撃したのだ。
近江が近寄って来た唯依の肩を抱き寄せ、その櫻色の唇に、自分の朱色を押し付けた瞬間を。
「なに、を?」
唯依は咄嗟に押し退けるような仕草を取るが、行為は完遂しない。諦めたように力を抜き、執拗に迫りくる近江の唇を受け入れている。
「お前のそういう顔、初めてみたよ臼井。気味がいいぜ。ゾクゾクする。」
唇を離した近江は言う。愕然とした、とはこの表情を言うのだ。臼井の目の隈が際立って見えた。
「何が、どうなってる?」
「どうなってるってそりゃあ、唯依はもう、俺の女だってことだな」
「は?」
「お前はあんなにも唯依の献身を受け取っておきながら、唯依のことを何も知らない」
唯依は、続く言葉を予見して腕を僅かに上げたものの、近江の胸にぶら下がる鈴を見て腕を降ろした。近江の口を塞ぎたい衝動は、そのまま耳を塞ぎたい衝動に変わる。
「例えばお前は知らないだろう。唯依は昔から援助交際を繰り返していた。」
「えん、こう?」
男女を見上げる臼井からは、逆行のためにその顔が暗く、表情を読むことが出来ない。
「唯依が、そんな馬鹿げたこと、する筈がないだろ。なあ?」
だが、臼井の問い掛けに、女から応答がないのは確かな事実だ。否定の回答が欲しかった臼井は苛立つ。
「お前、本当にそんな馬鹿だったのか!?」
その尖った弁に触発されて、唯依の堰は切られた。
「バカ!? あなたにそんなこと言われたくありません!」
臼井に噛み付くその声が、本当にその女から放たれたのか、俄かには信じがたく感じられた。よく似た別人という方が、臼井にはむしろ都合がいいくらいだ。
「陛下に私の何が分かるっていうんですか! 援交してたからって、陛下に何が関係あるっていうんですか!?」
突然の荒い口調に、臼井はたじろぐ。
「だって、援交なんて、そんな」
「どうして援交が駄目だって言うんですか!? 気持ちよくなってお金も貰えて、相手の男の人だって満足してもらえる。それが馬鹿なことだっていうなら、納得の行くように説明してくださいよ! 得意でしょう屁理屈!」
臼井は混乱する頭の片隅で、どうにか論理を繋ごうとする。しかし臼井の脳に浮かぶのは、『人にされて嫌なことは自分にするな』とか、そういった詭弁ばかりだ。売春の禁止を説得するに足る箴言がないことに、倫理学の未熟を恨んだ。
「ほら、言えないじゃないですか! 陛下がある程度道徳的にいられるのは、恵まれた環境にいたからなんですよ。みんながみんなお利口に生きられると思わないで!」
しまいには、唯依は顔を両手で覆って蹲ってしまう。
「分かったか、臼井。お前って奴は、そういう奴なんだよ。このまま唯依とそのうち付き合えて、全うに家族作ってみたいな甘い人生設計描いてたんじゃないのか。」
今起きたことをとても整理しきれぬ臼井は、言葉を失う。近江は、震える唯依の背中を見ている。
「ムカつくんだよ、お前みたいな奴。ずっと、奪い取ってやりたかった。臼井、お前から唯依を、剥ぎ取って俺のものにしてやりたかったんだ。」
三人の付き合いは、併せて十年目の歳にあたる。小中高と同じ学校に在学した三人は、いつも近しい関係にあった。それは男女混合の苗字順に着席したとき、臼井、遠藤、近江の並びになることがよくあったからだ。特に高校三年間は、特進科は固定クラスだったから、長くの期間、この並びであった。
必然的に近江は唯依の後姿をよく観察することが出来た。それは視姦と言えるかもしれないほどの熱心な観察だ。だから、近江は唯依が自分がまさにそうしているだろう熱い視線を、頻繁に臼井に向けていることに気づかざるをえない。
近江は不満だった。一般に魅力的とも思えぬ臼井が、ただ幼馴染という人脈だけを頼りに唯依と懇ろに付き合い、本人は、それを特段ありがたくも思わない。醒めた顔をして、禁欲的なつまらない文学少年を騙り、達観している。
そして近江にとって臼井は、気に食わない世の中を象徴していた。●
「俺と唯依は、この鈴を使ってこの世界を変える。もうじき、変わる。」
茫然自失とする臼井に、近江は告げる。
「俺に従う奴は助けてやってもいいが、臼井、お前はもう何をやっても駄目だ」
「何を、する気だ」
目を黒一色に染めた近江は笑う。
「お前の馬鹿にした人脈を、見せつけてやるんだよ」
突如、甲中市一帯に、けたたましいサイレンの音が響いた。臼井は思い出す。胸の奥を不安で埋め尽くす低音は、確か国民保護サイレンと呼ばれる類のものだ。警告音の後に、こう言葉が続く。
ーーこれは訓練ではありません。これは訓練ではありません。
「思ったよりも、早かったな」
その放送は、全市民に避難を促すものだった。いつも行方不明者の捜索情報を告げているトーンとは明らかに違う放送主の声色が、緊迫感を与える。
「知ってるか臼井、今や殆どの兵器がコンピュータに繋がれてる。その国防隊の兵器ネットワークを知る内通者の知恵と、世界有数のハッカーの技術があれば、国防隊の基地から無数のミサイルを放つことが可能だ。」
まさか男がそんな人を傷付けるようなことをするものか。そう思いたい臼井だが、無惨にも血を流し白目を向く菊嶋の肢体が、その希望を打ち消すように転がっている。
「既に俺は、国防隊の幹部に、ハッキングのプロと知り合い、共謀を進めている。もちろん奴等とは、この鈴を使って出逢った。」
それは、クーデターの告白に他ならない。
「おまけに、細菌を狂愛する研究者とも俺は出会った。そいつは富士の麓にある隔離された研究棟に、新疸熱細菌を飼ってることを教えてくれた。ミサイルに打たせるのは、その施設だ。この計画に備えて、新疸熱ワクチンは大量に備えてある。俺に従う奴には、分け与えるつもりだ。」
臼井は新疸熱が何かを知らなかったが、それが何らかの重篤な病状を惹起する病名であり、ミサイルによって解き放とうとする細菌がその病原菌であることは、文脈から知れた。
「天才ハッカー・●山津●は自分の仕事にかかる時間の試算も正確無比だ。午後二時前には発射出来ると聞いている。」
臼井は腕時計を見る。二本の針が丁度頂点を指している。タイムミリットは、賞味二時間だ。
「お前、そんな恐ろしいこと。こんなことがうまく行くと思っているのか。」
「うまくいくさ。なんたって、俺には、これがある。」
紐の結び目を持って、和萬乃鈴を見せつける。臼井は、丁度近江の心臓のあたりにぶら下がる鈴が、近江の心臓に成り代わってその肉体を支配しているようにも見えた。
「近江、お前はーー」
「近江? 違うよ、臼井。」
近江晃は、こう言った。
「俺は、王だ!!!」
その宣誓に併せるようにして、日を蔽っていた雲は流れ、陽射しがバックライトの役目を果たす。
その様子に、唯依は愕然としている。どうやら近江に弱味を握られていただけで、この壮大なクーデター計画そのものは知らされていなかったらしい。
ミサイル、細菌、ハッキング。物騒な単語から、死体の山が築かれる描写が、臼井の脳に浮かび上がる。
「お前は、テロリストになるつもりなのか! どんだけの人が死ぬと思う!? 早く中止命令を出せ!」
「お? まーたいい子ちゃんぶって説教か? お前は正義の味方ぶるが、本当は人を助けようだなんて考えちゃいない。自分が可愛いだけなんだよ。お前は周りがどんなに不幸で死んでいっても構わないと思ってるんだ。」
その時、臼井には一つの使命が課せられた。それは、テロ実行犯の近江を説得し、ハッカーに中止命令を下させることだ。近江の友人で、今話を出来る唯一の人間故に、その責務からは逃れられない。
しかし、臼井の唇は動かない。口に出そうとする語彙の何もかもが詭弁に思える。快心の語り文句は思い浮かばない。何よりも、唯依の唇を奪われた場面が繰り返し脳内に映されて、まともに思考なんて出来ない。
もたつく間に、事態の深刻さは加速する。
「鈴を、返しなさい」
聞き覚えのある轟音。二度目が故に、それが銃声であることを即座に判別出来た。
「うぐっ!」
近江が腰から血を噴いて倒れる。今度は近江が銃撃されたのだ。
撃ったのは、菊嶋。俯せのまま上半身を僅かに浮かせて、なけなしの意識を費やして射った最後の一撃だった。目を開けているのもやっとのようで、片目を頻繁に痙攣させている。銃を持ち伸ばした右腕を大きく震わせていると思えば、電源を落とした機械のように停止し、そのまま再度気を失ってしまう。
菊嶋は、辛うじて戻った薄い意識の中で、鈴を取り戻そうと発砲したのだ。もちろん、近江の話など聞いていない。話を聞けていたとしても、朦朧としていて、理解など出来なかったであろう。
「近江!? 近江!?」
臼井は菊嶋の脇を駆け抜けて、土手を登り、近江に駆け寄る。
「くそ、俺も詰めが甘かったか」
近江は手を懐に入れている。きっと鈴を握り締めているのだろう。しかし前へ倒れたために、自重によって鈴を揺らすことは出来ないらしかった。
顔を顰め、今にも気絶しそうな真っ青な肌色をしている。
「まぁ、いい。俺が仮に死んでも、計画は止まらない。この世は、変わるんだ。」
満足して目を閉じようとするので、臼井は詰め寄らざるをえない。
「待て! 死ぬんじゃない! お前が王になるために企てた計画だろ! お前が死んだら意味がないだろ! ひとまず計画を中止させろ! ハッカーはどこだ! 連絡先は!?」
汗と唾を飛ばして皮膚を赤らめる臼井に、近江は前歯を見せて笑う。
「教えるわけ、ないだろ。臼井。ハゲやろー。」
近江は白目を剥いて堕ちた。ハゲとは、かつて近江が臼井を罵倒するためにつけた渾名の一つだ。
臼井は近江のポケットを物色しスマホを取り出すも、案の定パスワードがかかっている。焦る気持ちを抑え、近江の誕生日や語呂合わせから冷静に推理して何個か試すが、直ぐにセキリティロックが掛かってしまう。
「陛下」
唯依はその場に突っ立っていたが、臼井がスマホを持って立ち上がると、その顔を見て言う。臼井が目を合わせてくれないので、不安げである。
「陛下、わたし」
「何も言うな」
「でも、私」
「頼むから、言うな。少なくとも今は。何も。」
臼井は近江のスマホから情報を得ることを断念した。もちろんロックが解けたら随時思い当たるパスワードを試してみるつもりだが、当たる確率は極めて低い。かつ時間は二時間しかないのだ。これを専門機関に持込んで、パスワードを特定して貰うには、余りに時間がない。
「唯依は、救急車を呼んでやってくれ、あとは菊嶋さんと近江に出来るだけ応急処置を。」
臼井は唯依が震える声で「わかりました」と答えたのを聞き取れていない。何の手掛かりもないまま、ハッカーの場所を特定し、計画をやめさせなければならなくなったのだ。状況を呑み込むだけで手一杯だ。
臼井は胸に手を当てて、己を鼓舞するように心臓を叩くと、河原を駆けてその場を立ち去る。
一方、残された唯依は、血に染まる近江と菊嶋の止血を急ぐ。出血箇所が衣服で圧迫しやすく簡単に応急処置が出来た近江に対し、菊嶋は股関節の付近を撃ち抜かれており、より難儀であった。服を無理に脱がせる必要がある。
「うそ、まさか」
服を脱がせた唯依は驚く。菊嶋の裸体と顔を交互に二度見して、唾を飲む。
菊嶋旭には、隠したい秘密があった。
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