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 十二時十七分。  臼井は大条橋を渡り、幹線道路へと出ていた。近くには各種スポーツの競技場を備えた甲中市では最大の公園がある。その出入口に、緑陽警察署はあった。 「忙しいから、後にしてくれる?」  開口一番、交通課と思しき警察官は、公輔を取り合わなかった。というのも、先程の避難勧告を聞いた問い合わせの訪問者や電話への対応で、現場は混乱状態であったからだ。  普段は免許更新者の待合室にされているのだろう、長椅子が並ぶ直ぐ脇の壁に張り付いたTVからは、避難を呼び掛ける放送が繰り返されている。出演している女性アナウンサーの顔がいつもと違う。ノーメイクのまま、原稿を読み上げている。  その報道内容は、某国からミサイル発射の予兆が見られるため、予想落下区域と思われる範囲の国民に頑丈な建物や地下への避難を呼び掛けるものだった。元々国民保護サイレンとは、日本以外の外国からミサイル攻撃を受けることを想定した整備だから、そう発表する他なかったのだろう。本当は分かっている筈である。危機の根源は、日本国内にある。 「だから、山津っていう奴がハッキングしていて! 国防隊のミサイルを!」 「あー分かったから、ハッキングね、ミサイルね」  臼井は必死に訴えるのであるが、警察官は聞く耳を持たない。サイレンに触発されてヒステリーを起こした若者ぐらいにしか思っていないのだろう。厄介者扱いをされるだけだ。 「もういい、自分で何とかします」 「そうしてくれると助かるよ。ただ、避難は早めに」 「避難なんかしたって、ウイルスが撒き散らされたら終わりなんですよ!」  ハッキング、ミサイルに続けてウイルスなんて単語が飛び出すものだから、初老の警察官はいよいよ臼井の言葉を妄言と確信させたらしかった。もしこの時に対応した警察官が臼井の言っていることを真に受けて、山津という男を指名手配していたのなら、未来は変わっていたかもしれない。  臼井は警察署を出て、自動ドアの脇で頭を掻く。 「山津ーーそうか、アジールか」  近江が天才ハッカーとして名を挙げた山津という姓に、臼井は聞き覚えがあった。 「善野さんが言っていた、アジールに参加している帝大生の片翼。」  臼井はほぼ反射的にスマホを取り出して、『山津 帝大工学部』と検索する。すると、情報工学研究室のメンバー一覧と題されたホームページ上に、山津の顔写真と山津賢人というフルネームを発見した。 【急募!】山津賢人、帝大工学部生 画像の男の行方を追っています! 国防隊の兵器ネットワークをハッキングして、富士山麓のウイルス研究所にミサイルを着弾させようとしています! 何でも良いので情報を教えてください! #拡散希望 #国民保護サイレン  臼井はツイッターを起動した。古いアカウントにログインし、ツイートする。トレンドに #国民保護サイレン なるハッシュタグがあったから、念の為に添えた。  臼井は過去の自分が、ネット弁慶であったことを今ばかりは感謝する。ツイートは投稿されるなりリツイートを始めとする複数の反応を得ることが出来た。それは、かつての臼井が集めた10万ものフォロワー数の賜物に他ならない。  早速、いくつかついたリプライを確認しようとスマホ画面をタップしようとするが、突如暗転し、携帯電話番号が表示される。臼井の動き出した指は止まらず、通話ボタンをタップしてしまう。  パッと見ただけでは相手が分からない見慣れない番号ではあったものの、その声で分かった。 「ハーメルン」 「菊嶋さん? 大丈夫なんですか?」 「ええ、救急隊員に応急処置をして貰って直ぐに、私は彼等とは離れました。不覚にも痛みと血の色にやられて気を失ってしまいましたが、怪我は大したことありません。掠り傷程度ですよ。」 「……なら、お願いがあります」 「お願い?」 「公安から、車を出して頂けませんか」 「構いませんが、何処かへ行かれるんですか」 「ええ。ハッカーの下へ。詳しくは車中でお話しましょう。とにかく急いでください。あまり時間がない。」  菊嶋は気絶していたために、近江の話を聞いていない。せいぜい鈴を持つ近江と相討ちしたぐらいの認識である。  臼井の下へは、五分と待たずに警察車両がやって来た。必然だが、菊嶋の手配した車は緑陽署のものだったのだ。  臼井は自動で開いた扉に促されるようにして後部座席に乗る。途中、菊嶋を拾い、車は緑陽インターで高速道路へ乗った。 「東京方面で、よろしいんですよね」 「はい。凧場へ向かってください。」 「凧場? 本里ではないのですか?」  帝国大学には都内に二つのキャンパスがある。本里と凧場だ。殆どの講義棟や研究棟は前者に密集しているのだが、工学部系の建物は後者にあった。 「確証はありません。でも、今は最も可能性の高い場所へ向かうのが最善策でしょう。」 「その天才ハッカーの自宅は分からないのですか」 「分かっていたら帝大になんて向かっていません」  臼井は焦る。時間は刻一刻と迫っている。  少しでも情報を手に入れようとスマホを弄るが、苛立ちが募るばかりだ。先程のツイートについたリプライを片っ端からチェックするが、真剣に取り合うようなものは雀の涙に等しく、取り立てて有益な情報に至っては皆無と言って良い。 「何が証拠を寄越せだ、何が危機を煽るなだ。何も知らないくせに。本当の事なんだぞこれは。」  唯依は近江の側につかせている。意識が戻り次第、情報を聞き出すよう唯依には伝えているが、望みは薄い。菊嶋はプロだ。一介のヤクザと違って訓練を十分に受けているのであろう、銃撃は確かに近江に致命傷を与えたらしかった。奇しくも、それが危機を助長したのだが。 「臼井くんは、あまりカッカしない方がいい。焦っても、車は早く進まない。」  その張本人は落ち着いた様子を見せる。というよりも、諦めに近い。  臼井が窓から外を覗けば、そこには車の行列。  臼井は知っている。この先の『小神トンネル』は、渋滞の名所として知られ、時折ニュースでも耳にする関所だ。避難指示に感化された者達が、山梨の外に出ようと動き出したのだろうことは想像に容易い。サイレンから間もない今でさえこうなのだから、今後ますます渋滞は酷くなるだろう。 「間に合うのか、これは」  臼井は絶望に染まった。ハッカーの居場所を特定して、力づくでも説得してでもハッキングを中止させなければならないのに、時間的猶予が余りにもない。スムーズに東京にすら入れないのだ。  貧乏揺すりが止まらない。もはや車の揺れが、エンジンに由来するのかすら怪しいぐらいだ。  その振動とは対照的に、車は速度を落とし、トンネルの入口付近でとうとう停止してしまう。 「この車、緊急車両ですよね。サイレン鳴らして突破できないんですか。」 「急がば回れですよ臼井くん。そもそも都心に潜伏しているとも限らない訳ですから。皇宮公安も捜査員を増員して全力で捜索を始めています。今は連絡を待ちましょう。」  菊嶋の呑気な発言を、臼井は聞いていない。  窓の外、一台の黒い車が、パトカーの横に並び停まった。恐らく避難するために出てきたのだろう、その助手席には、ペットだろう猫がおり、ウインドウの縁に前脚を乗っけて外の景色を見ている。その首には首輪。赤い首輪の中央には、金色の丸鈴がついていた。 「猫に鈴……。そうか! でも、まさか。」  臼井が途端に大声を出すので、菊嶋が上半身をひねって観る。目を見開いた臼井と目が合う。 「菊嶋さん! 行先を変更してください! 凧場じゃない! やっぱり本里へ向かってください!」 「急にどうしました? その山津というハッカーは帝大工学部で、工学部は凧場にキャンパスがあるのではないのですか?」 「ハッカーはもういいんです」 「どういうことです?」 「フィクサーに、直談判するんです!」  菊嶋はその意図を完璧に汲み取ることが出来た訳ではなかったが、臼井が真っ直ぐな眼を向けるので、賭けてみようという気になった。臼井の腹案に、全てを委ねてみる気が起こった。  その時、轟音が響く。 「早かったですね」  その音が接近するエンジン音だと気付いた時には、既に既に菊嶋はシートベルトを外していた。菊嶋の部下が、菊嶋の愛車を乗り、届けに来たのだ。  菊嶋はドアを開けながら、目だけで合図した。後ろに乗れというのだ。 「そうか。バイクなら、間に合うかもしれない。」 「違いますよ、臼井くん」 「え、うわっ!」  臼井が渡されたフルヘッドを被り後部に腰掛けるなり、バイクは急発進する。 「間に合わせるんです、絶対に」  菊嶋は車と車の間を縫うようにバイクを滑らせる。 「この国を守ってください。臼井くん。」  思わず抱き着いた菊嶋の腰が、思いの外柔らかいことに気付いた臼井だったが言わなかった。  とにかく、今は最善を尽くすのみだ。
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