美也子 2

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美也子 2

 秦野の自転車を引く腕が、やけに真っ直ぐに見えた。  いつもは私に合わせて、ゆっくり歩いてくれるのに、少し速めだ。  私は小走りで追いつくと、横に並んだ。 「あいつのことがあったから、いっしょに帰ろうって言い出したのか」  秦野の声が平たく聞こえた。怒っているのかもしれない。 「それはあったけど……それより、秦野に近づきたいって思ったから」 「何で……俺?」  何て言ったら、秦野に納得してもらえるのか、わからなかった。  秦野とは先月、席が隣どうしだっただけだ。 「高校生活もこれで最後。卒業する時に、こいつとしゃべったことなかったっていうの、悲しいやろ」  委員長の山中は、初めの挨拶の時に発表した。 「席替えを毎日する!」  それはさすがに面倒だと文句が出て、1か月ごとになった。  くじ引きで同じ番号だった人と、ペアになる。 「くじを変えていいのは、先月と同じペアだったとこだけな!」  山中は、こだわりがあるようで、大声で叫んでいる。くじを勝手に交換して、後ろの席を陣取る人たちもいるのでは? そんな声も上がっていたけれど、案外不正する人はいないようだった。  机を持ち上げて、ガタガタと移動する。  この番号の場所は? と黒板に張り出された、山中渾身の席次表で確認する。この場所ね、と私が机を下ろすのと、隣の人が下したのが同時だった。  私の右手の甲と、その人の左手の甲がぶつかった。 「あ……!」  私はさっと手を引っ込めた。 「あ、悪い。手、挟んだか?」  それが、秦野だった。 「ううん、挟んでないよ」  挟んだわけでもないのに、秦野の手に触れて、衝撃が走った。机をつかんでいた手は、拳のように指の付け根の骨がごつごつとしていた。  それからも、秦野の手に触れてしまうことは、何回もあった。  落ちたシャープペンシルを拾ってくれた時とか、教科書を広げた時とか。    秦野の手は、すらりと指が長かった。  それでも、ごつっとした節の高さを見ると、女の私とは根本的に骨格が違うのだと思った。  ほんの指先に触れるだけだ。  その指は、脂ぎってなどいない。さらりとした感触だった。  私はそのうちに、甘い願望を抱くようになった。  その指で触れて欲しい。  そう思うようになったのだ。  あの願望を口にすれば、安っぽく、いやらしく聞こえてしまう。  それに、こうやって、いっしょに帰るようになっても、手をつないだりなどできない。  その上、その指で触れて欲しいなんて、恥ずかしくてとても言えなかった。 「あの……えっと、目が好き……かな」 「目? 俺の目?」  明らかに、秦野は戸惑ってる。 「あ……うん。あと、手と声も……」 「うーん。自分では、わからん」  ああ、わからないのか。  秦野は自分の魅力に気付いていない。でも、そこがいいとこなんだけど。  それから、秦野が大事なことを言ったのを思い出した。 「あのさ……さっき、あいつに言ってたでしょ? 長倉とつき合ってるって。あれって、その、そうなんだよね? その場しのぎに言ったんじゃないよね?」  私は、おずおずと秦野の顔を見た。 「え……? 俺はそのつもりだったけど、長倉は違ってた?」 「ううん、本気! 初めから、教室で好きって言う前から本気!」  秦野は、やっとふんわり笑ってくれた。もしかして、あの告白のことを思い出してる? 私は恥ずかしくて、でも、涙が出そうなぐらい、嬉しかった。 「あの……あのさ、名前で呼んでいい?」 「いつも言ってるのに?」 「違う、下の名前。彰人(あきと)って呼びたい。私のことも、名前で呼んで」 「え……それは、えっと、ちょっと……」  秦野は、いいえ彰人は、目を泳がせていた。でも私を見ると、覚悟したようだった。きっと私は、それほど必死な表情をしていたのだ。 「……美也子……」  あの声で名前を呼ばれると、胸の奥の方に、赤い花が咲くように思える。やっぱり名前には、魂が込められている。  彰人は照れて笑っている。この笑顔も、今は一人占めしている。  いつもと違う気がした。  いつもは並んで歩いてて、お互いに前を向いている。  今は彰人が私の方を見てくれている。  気持ちの中でも、そんな感じがした。  愛しい。  私は腕を伸ばして、彰人と手をつないだ。 「片手では、自転車引けん」  彰人はそう言いながらも、私に手の平を預けてくれる。 「ちょっとだけ、ちょっとだけね」  彰人は、しょうがないなって顔して、笑ってる。  ああ、ずっとこうしたかった。  電流が、体中を駆け巡った。
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