第2章 王殺し

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 夢ではなかった。  あの声は本当に男から名前を奪い、姿を奪った。  男は今では名もなき〈王殺し〉で、しかもその姿は見るからに獰猛な醜い獣。到底信じることのできないような話だが、何しろ現に自分の身に起こっているのだから信じる以外にない。 「グルル……」  途方にくれるため息すら、獣の喉を鳴らすだけだ。  男——〈王殺し〉は、ため池のほとりに丸くなって考えを整理しようとした。謎の声が夢ではなく、本当に自分の名前と姿を奪ったのであれば、取り戻すための条件は「王を殺す」こと。一体なぜそんなことをさせられる羽目になったのか。考えれば考えるほど理不尽さに落ち込む中、自らの大きな尻尾がそよそよと頰をくすぐる、それだけがささやかな慰めになった。 「おい、何だあれ!」  ふいに人間の声がして〈王殺し〉は耳を震わせ立ち上がる。その声には聞き覚えがある。同じ集落の男たちが狩りか、もしくは近くの畑の世話にきたのだ。  普段からさげすんでくる相手とはいえ、心細くなっていた〈王殺し〉はうっかり期待をした。彼らが事情に気づき、例えば長老やまじない師の力を借りてこの呪いを解いてくれるのではないか。そんな思いで近づいてきた男たちに向かい呼びかける。 「ヴォン、ヴォン」  しかし、助けを求める声も彼らにとってはただの獣の吠える声でしかなかった。 「なんだ、あれ。犬にしては大きいが、熊……いや、見たことない獣だぞ」 「牙をむいてよだれを垂らしている、向かってくるんじゃないか? 危険そうだ。誰か、弓矢は?」  男たちの間に緊張が走り、一歩一歩近づくごとに強くなる敵意は間違いなく〈王殺し〉に向けられている。  待て、気づいてくれ。違うんだ、俺は獣なんかじゃない。叫ぶ声が遠吠えに変わる。そして、男たちのうち一人は迷うことなく弓に矢をつがえると〈王殺し〉に向かって放った。 「ギャン!」  矢は続けざまに飛んできて、うち一本は〈王殺し〉の耳をかすめた。そこでようやく彼は村人たちが本気で自分を殺そうとしているのだと気づいた。弓矢を構える男の後ろでは、数人が火を起こしている。火をつけた松明か、火矢でも投げてくるつもりか。〈王殺し〉は、くるりときびすを返す。  死にたくない。だが人間の姿に戻らない限り、この集落に自分の居場所はない。そして人の姿を取り戻すためには——東へ行き、王とやらを殺すしかないのだ。
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