第4章 王殺し

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第4章 王殺し

 逃げるように西の果てをとびだして、最初は深い森を走った。森は暗く、早く駆けるには邪魔な障害物も多いが、今思えば長い旅路の中では一番楽な場所だった。  あちこちに食用できる木の実がなっていて、野うさぎや野生の小鹿といった小動物を捕まえることもできるので食うに困ることはなかった。何よりそこにはほとんど人間の姿がなかったので、この異様な獣の姿を気にすることなく過ごせた。  森を抜けると〈王殺し〉の旅は困難を増した。捕まえることができる獲物が減り、何も食べることができない日も増えてきた。水場が見つからず、渇きに悩まされることも当たり前になった。そこでようやく〈王殺し〉は、もう数週間もの間、雨が降っていないことに気づいた。  飢えと渇き、そして一番の危険は人間だ。人里に出て野生の生き物を捕まえ腹を満たすことができなくなった〈王殺し〉が生きるためには人間の食料を盗むしかない。これまでの人生で、貧しくとも人のものを奪ったことはない。決して盗むことだけはすまいと思っていたが、獣の体を持つようになると自然と心までも獣じみてくるものなのだろうか。  ある夜の闇の中、農家の庭に鶏小屋を見つけた瞬間、脳の奥に何かが焼き切れるような感覚があった。  鶏たちのけたたましい声を聞き、すぐに農家の主が飛び出してきた。 「くそ、野犬か、狼か!」  松明が揺れ、黒く闇に溶ける〈王殺し〉の姿を浮かび上がらせようとした。男の手に大きな鎌が握られているのを見て〈王殺し〉は逃げ出した。もちろんその口には一羽の鶏をしっかりとくわえたまま。  ハッと気がつくと、目の前にはいくらかの鶏の羽と、血だまりが残っているだけだった。久しぶりの食事に我を忘れていたらしい。少しでも水分を体に入れておこうと、地面に残ったわずかな血液すら〈王殺し〉は残すことなく舐めすすった。  正気に返ると惨めさに襲われる。人のものを盗み、小動物の生き血をすすり、生のままの肉を食らう。俺は、このままではいつか心までも獣になってしまう。次第に胸の奥に恐怖が広がる。  声は「王を殺せば名前と姿を返してやる」と言っていたが、あの約束に期限はあるのだろうか。いつまでも獣の体の中にいると、魂は自分がかつて人間であったことを忘れ、獣に成り果ててしまうのではないか。焦燥は高まった。  それから〈王殺し〉は昼も夜もなく走り、王都を目指した。  王を殺さなければ、とにかく早く王を殺さなければ。頭の中はそれだけで満たされた。
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