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九―二
「とにかく……急がないと」
二人がいつ食事を終えたのかは分からないが、それから時間が経てば経つほど手遅れになる可能性が高くなる。杉岡さんが心から椋木さんを受け入れたのならばそれはそれで――等と、ここに来た理由から逃げる様な考えを振り払い、息を整えて正面玄関から入館を試みた。
「いらっしゃいませ」
「……」
入口の自動ドアをくぐったすぐの所で待機するベルスタッフに挨拶をされるが、それ以上は何も言われなかった。こちらも会釈でそれを返し、極力平静を装って歩を進める。そのままロビーを突っ切るも特に誰の目にも止まる事無く、無事その奥のエレベーターホールまで進むことが出来た。客室へと続く道にも拘わらずこうもすんなり通る事が出来るとは。こんな時だが日本の治安の良さを改めて実感してしまう。
「805号室……」
ここに向かう際、万が一にでも忘れない様に手の甲にメモした部屋番号を復唱する。この手に書く癖は不格好なので直すべきとは思っているのだが、ついお客様の前以外ではやってしまう。
「もう少し小さく書けばよかった……」
擦っても消えない数字を再度見つめて、少し後悔しながらエレベーターの表示板を見つめる。数字は同じテンポでカウントアップされていき、『8』のところで止まって点滅した。それと同時に機械音声のアナウンスが流れてドアが開くと――
「おっ」
「あ……」
目の前に見知った姿が手に持った小箱を見つめて立っていた。
「よぉ」
その人物――椋木さんはその開いた小箱をパタンと閉じて懐に仕舞い、職場で見せるそれと同様の笑顔と軽い言葉で私を出迎えた。
「お……お疲れ様です」
突然の『恋のライバル』との邂逅に、お決まりの挨拶しか出てこない。一方椋木さんは特に驚く様子もなく、むしろこの状況を楽しんでいる様にも見える。駄目だ、ここで相手に飲まれては……いや、今は目的が違う。まずは状況を確認しないと。
「杉岡さんは――『ドアが閉まります』――おわっ!?」
いきなり本題をぶつける為に一歩彼に詰め寄ろうとしたところ、再び流れる機械音声と共にエレベーターの扉が閉まり始めて挟まれそうになった。言葉を中断して慌ててホールの方に飛び出すと、椋木さんは背中を見せて肩を震わせていた。
「く……くく……ひっひひひ……本当お前、持ってるよなぁ、こういう時。やべぇ、デカい声だせねぇから余計におかしいわ……」
「…………」
こんな時でもいつもの調子を崩さない椋木さんにやや苛ついてその背中を睨んでいると、彼は数回深呼吸を繰り返してこちらに向き直した。
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