九―二

4/6

364人が本棚に入れています
本棚に追加
/214ページ
 “これ以上長話をするつもりはない”という意思表示なのだろうか、椋木さんはエレベーターの前に立ちボタンをやや乱暴に叩く。振り返ったその顔は頼れる上司ではなく、智謀に長けたしたたかな男の顔に豹変していた。 「望み通り状況を教えといてやるが、俺はもうは伝えてある。その上で杉岡ちゃんは俺と一緒に部屋に来ている訳だが……これ以上は、いくらお前でも言葉は不要だよな?」 「……はい」  返事以外の言葉が何も浮かんでこない。こういう事態も、覚悟はしているつもりだった。だが所詮それは生温い期待に包まれてた何とも脆いもので、現実を知った今、私の脳はまるで突然知人の不幸を知らされたような感覚に見舞われている。失恋という出来事は、こうもあっさりやって来るものなのか。 「悪いな、俺には時間が無かったんだよ」 「時間……とは?」  ドアの上の数字を光が移動し、『3』の所で長く止まる。椋木さんは言葉を選ぶように少々考え込み、丁度光が動き出すと同時に口を開いた。それも、先程とは見違えるほど真剣な表情で。 「ああ、まぁ丁度いい機会だからお前には言っておくよ。まだ正式に辞令が出てなかったから黙っていたが、俺は来月付けで大阪の営業本部に異動になる」 「椋木さんがですか? それじゃ……」  そうか、だから椋木さんは杉岡さんのとの事を『一時預かり』と言ったのか。仕事上での位置付けは、確かにそうだ。それに十分な引き継ぎ期間も設けず、自分の得意先の殆どをこちらに寄こした理由もこれで分かった。恐らく来週からは、残りの分も他の営業に割り振るつもりなのだろう。 「だから、俺と一緒に大阪に来てくれって伝えたよ。勿論家族まとめて面倒見るし、向こうでは家庭に入って欲しいから、娘ちゃんとの時間もたっぷり取れる。それで一年過ごして杉岡ちゃんが大丈夫だと思ったら、改めてこれを受け取って欲しい……ってな」  彼は懐に手を入れ、再び取り出した小箱を開けてこちらに見せる。姿を見せたリングの上には無色透明の小さな宝石が座しており、シャンデリアから降り注ぐ琥珀色の明かりを煌びやかに屈折させていた。 「まぁ、正社員になった途端に寿退社させるなんて、下手したら上から怒られるくらいじゃ済まないかもしれないけどな」 「寿……ですか。今日一日でもうそんなところまで話をしてたなんて……」
/214ページ

最初のコメントを投稿しよう!

364人が本棚に入れています
本棚に追加