九―三

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九―三

「白檀で働いていた時ね」  ウルティ・グランホテルの805号室は、一見して手軽な金額で宿泊できるグレードではない事がすぐに分かった。ベッドルームはそれ自体が仕切られており、ライトアップされた関門(かんもん)(きょう)が望めるリビングには、映画のスクリーンを彷彿とさせる大型テレビと革製のソファー、その脇にはミニバーまで設置してあり、小さなラウンジの様になっている。この造りから、ここを予約した椋木さんの本気度が伺えた。 「(あつ)()さん――胡桃沢さんの事ね。当時は高梨(たかなし)さんだったんだけど」 「高梨……ええ」  杉岡さんはテレビ向かいのソファに、私はその脇の一人用カウチに腰掛け話を聞かせてもらっている。しかし胡桃沢は元々の苗字ではなかった――つまり彼は、婿養子という事か。 「篤也さんは仕事は出来たんだけど、女性関係がだらしない人でね。東京本社でもそれで問題を起こして、左遷みたいな形でこっちに来たみたい。ボ……ボクね、その事情を最初は知らなかったんだ。突然あの人から声を掛けられて、今までそんな事無かったからさ。舞い上がっちゃって、そのまま流されて……」 「それで、彼と恋人関係に?」 「ううん。ボクはそのつもりだったけど……向こうは『昨夜は楽しかったね』って、それだけ。その時にやっと気付いたの。ああ、遊ばれちゃってただけだったんだなぁって。でも会社で問題も起こしたくなかったし、泣き寝入りでもいいからもう忘れようと思ってたんだ。……でも」  テーブルに置かれたスマートフォンに指を落とし、杉岡さんは画面を点灯させる。そこに映し出された幼い少女を見る彼女の表情は、決して辛い過去を背負った悲壮感に(まみ)れたものではなく、慈愛に満ちた儚くも幸福そうな顔つきだった。 「たった一回だけだったんだけど、それで赤ちゃんが出来ちゃってさ。よくドラマでもやるけど、やっぱり三ヵ月目で分かるんだね。妊娠したって篤也さんに言ったら、すぐに結婚してくれたよ。以前起こした問題もあるし、なるべくできちゃった婚って思われない様にしたかったんだろうね」 「そう……ですか」  正直、聞くのが辛い。変えられない過去、受け止めなければならない現実とは言え、どうしても生々しい想像をしてしまう。 「そ、それで、お仕事は産休を?」 「ううん、ギリギリまで働きたかったから、臨月まで働こうと思ってたの。……でも、安定期に入った頃かな。本社への出張から帰ってきた篤也さんから『会って欲しい人がいる』って言われて、会社の会議室に呼び出されたんだけど……そこにいたのが香苗さんと、そのお父さんの胡桃沢専務だったんだ」
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