九―三

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 何が可愛いだ。何がごめんだ。中途半端なんてレベルじゃない、そんな()(せつ)な気持ちで結婚だの離婚だの軽々しく……。本当なら今すぐにでも杉岡さんの震える手を握ってあげたいところだが、椋木さんとの事もあるのでそれも出来ない。そこで椋木さんが奴の名刺を汚い物の様に扱っていた事を思い出し、こんな時だがその行動に共感してしまう。つまり彼も、杉岡さんからここまでは聞いているという事なのだろう。 「それでも、お腹の子だけは守らなきゃって思って。だからその場で離婚届けに名前を書いて、お金も全部受け取ったの。内緒で出産するから、養育費も払って貰えないと思ったから。次の日には退職届を出して、二度とあの人達に会わないようにこっちに越して来たんだ。一人暮らししてた、ママも呼んでね」 「それで、今の暮らしを。……すみません、知らなかったとはいえ、娘さんも小さく手がかかるでしょうに、遅刻するなだの身だしなみを整えろだの……配慮に欠けていました」 「ちが、違うの違うの!」  深々と頭を下げながら謝罪していると、思いの(ほか)大きな声が耳に入る。顔を上げると、すぐ眼前に杉岡さんの顔があった。心配するような表情でこちらの顔を覗き込み、慌てて出したのであろう両の手は行き場を失い彷徨っている。 「杉岡さん……」 「あの……えっとね……――あ」  無意識に手を差し伸べていた。杉岡さんは私の手を数秒見つめ、「いいの?」と一言呟く。「ええ」と返すと、彼女は私の左手を両手で掴み、自分の方に引き寄せた。 「こっち……座って?」 「わ、分かりました。では失礼しま……ちょ、ちょっと!?」  腰を上げて三人掛けのソファーに移動すると、杉岡さんは持っていた私の手を自分の胸元に押し付けた。手の甲とは言え今まで味わった事のない感触に、私の心拍数は途端に上昇を始める。 「お願い、このままでいて? ちょっとだけでいいから」 「は、は……はい。ですがその、もう少し上の方でも……」 「あ……ごめん。つい癖で」  彼女は誤魔化し笑いを浮かべながら胸の位置から私の手をさっと離し、今度は掌を自分の頬に軽く押し当てた。先程とは違った柔らかい感触が直接皮膚に触れ、彼女のきめ細かい肌が指先を刺激する。私は指の力を入れていいものか抜いた方が良いのか、下手したらこのまま指がつってしまいそうな状況に陥っていた。
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