九―三

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「その、杉岡さんの『ボク』。それも胡桃沢さんを模倣しているのでしょう? いつまでも彼の面影を引きずる必要は、もう無いと思います」 「面影……でも」 「それでも、どうしても拭えないのなら! ……その『ボク』は、『僕』が貰い受けます」  言いながら無意識の内に、自ら眼鏡を外していた。目を丸くする杉岡さんの顔が、少しだけかすれて見える。――そうか、やはり今なんだな。ここぞという時、大勝負に臨む際に現れる昔ながらの癖。そのが、今こそ決戦の時だと教えてくれている。 「その上で、あなたの過去と、これからの未来。あなたの家族の分まで。全て僕が受け止めてみせます」  自らの膝に置かれた杉岡さんの両手を握る。もう、胸元にはいかせない。それよりももっと力強くその手を包み込み、彼女がこちらに倒れこまんばかりの勢いで自分の方に引き寄せた。 「桑野さん……それって――」 「僕は…………僕はあなたの事が好きです。愛しています。あなたと一生を共にしたい。その共にする人生で、あなたを。杉岡さんの事を絶対に幸せにしてみせます。だからどうか僕と、結婚を前提に付き合ってください。……お願いします」  言えた。とうとう言えたぞ。ここまで来るのに随分時間がかかってしまったが―― 「…………」  杉岡さんは無言でゆっくりと俯き、その表情からは答えを読み取れない。――駄目なのか? そう思いそうになった瞬間、彼女の首がカクンと縦に小さく揺れた。 「――!」  今の動きは……凝視していた杉岡さんの顔はこちらを向き、眉毛をハの字にした今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべ、もう一度。今度は確かに頷いた。 「……はい」  絞り出したようなか細く震えた声と同時に、一筋の涙が杉岡さんの左目から流れ落ちる。それは――とても意外な心境だった。 「えへへ……昔から泣いちゃった時は、左目から涙が出るんだ。久しぶりだったけど、やっぱり変わってないね」 「ああ、あの……」  女性を泣かせてしまうという行為は、おしなべて罪悪感を伴うものだと今まで思っていた。少なくとも、栗原さんの時はその感情が当てはまる。しかし杉岡さんの涙を見た時の僕の心境は失礼ながら全く違って――『美しい』。純粋にそう思えた。彼女の顔ではなく、涙そのものの輝きでもない。こちらの気持ちを涙で受け止めてくれた杉岡さんの存在自体が、揺さぶられた彼女の心から生み出されたその一滴が、言葉では表現できない程に優美なものに見えたのだ。――しかしだ。 「……?」  笑顔に疑問符を添えて、彼女は僕の言葉の続きを待つ。……ここから、何を言えばいいんだ?
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