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そう。このウルティ・グランホテルの805号室は椋木さんが予約した部屋であり、代金も現時点では彼が支払っている。つまり椋木さんはいつでもこの部屋に帰ってくる権利があった訳だが、その可能性がある間は僕達が二人の事を集中して話す事が出来ないと考えたのかもしれない。だから敢えて『もう帰る』と書いて、遠回しに『この部屋は自由に使って良い』と伝えたかったのだろう。最後の『振られたら』の下りは僕の告白がどちらに転んでも良いようにと気遣ってくれたもので、単なる負け惜しみではないと思いたいが……。
「そうですね。その件も含めて返信しておきましょう。ただ、宿泊費は僕が払いますけど」
「だ、だめだめ――」と断ろうとする杉岡さんを無視して、返信内容を入力する。
『お疲れ様です。申し訳ありませんが、今日はもう帰社する予定はありません。尚、宿泊費は後程お支払いしますので、金額を教えて頂けますでしょうか?』
「駄目じゃありません。こういうのは一応、男の財布から出すものだと思いますから。それに……いずれは同じ財布になるんです。どちらが払う、というのはもうやめましょう」
「同じ財布……うん。あ……はい」
杉岡さんはこちらに寄りそい、僕の肩に頭を乗せる。その仕草や彼女の香りに目眩を起こしてしまいそうになるが、これからはもう恋人同士なんだ。早いうちに慣れなければ。ところで――
「ところで今、何で言い直したんですか?」
「え? んー……と、『お財布が一緒』っていう事は、桑野さんは“旦那様”って事になるでしょ? だから何となくそれっぽいお返事したくて……えへへ。実はね、ちょっとメイドさんとかにも憧れてるんだー」
「メイド……」
杉岡さんのメイド姿。それも悪くは……というより、とてつもなく良いものなのかもしれない。
――と、勝手に脳内でメイド姿の杉岡さんを想像していると、またもメールの通知音が鳴った。
「椋木主任から?」
「ええ。ええと、『イラネ。その代わり俺の送別会はお前が幹事な。俺が泣いちゃうようなサプライズ期待してるから、感動的なやつをひとつ頼むわ。もう返してくんなよ、じゃーな』――だそうです。サプライズか……」
「ふふ、一緒に考えよっか。それと――これ」
会話しながらも、杉岡さんはご母堂にずっとメッセージ入力していたようだ。彼女が見せてくれた画面には小分けして送られたMesseが並んでおり、その先頭には――
『今日はお泊まりします。明日の朝帰るね』
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