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杉岡さんはその上目遣いを細めて笑って見せ、再び僕の体に顔を隠した。そして一度、深呼吸をするようにこちらの匂いを吸い込むと、くぐもった声をポツリとこぼした。
「……いいよ、桑野さんなら」
「す……!?」
「旦那様だから、ね? 好きなようにしてくれたら、私も嬉しい……かな」
「は、はい……すすす好きなように、ですか? え、え、ええと――」
「ん――」
不意に太腿辺りに体重がかかる。抱きしめられた杉岡さんは僕の膝についた手を支点にして体を器用に持ち上げ、眼前まで顔を接近させて目を閉じた。
「んん……」
三度目のキス。彼女の方から触れてきた唇は僕のそれに覆われ、杉岡さんは溜息にも似た声を漏らして僕の首に腕を回す。先程とはまた違う、互いの咥内を直接感じ合う情熱的なくちづけは彼女の体幹をとろけさせ、余韻を残して絡め合った舌を解くと共にその身をベッドに沈ませた。
「桑野さん……あの――」
何か言おうとしていたようだが、彼女を追う様に横になって再び抱きしめる。これは、逃げじゃない。逃げではないのだが――
「ちょっと……待って下さい。心の準備というか、気持ちを落ち着けてというか、精神統一を少しだけ……」
「うん、うん。実は私も……同じかも。怖い訳じゃないんだけど……えへへ」
ほんの僅かな二人の隙間に差し込むのは寝室の頼りない間接照明だけだったが、不思議とお互いの表情はよく見ることが出来た。そのまま僕達は服越しに互いの体温を交換しながら、水中に二つ浮かんだ波紋を合わせる様に昂った空気を馴染ませていった。
ふと、窓越しに背負っていた夜景からの明かりが弱くなる。恐らく関門橋のライトアップが消灯されたのだろう。――よし、あと10秒だ。10秒数えたら、覚悟を決めよう。今日僕はここで、男になるんだ。
いくぞ……。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……
「――っ」
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