九―四

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「――ふぅ。……持てるもんだな、意外と」  杉岡さんよりも少し小柄な体型の持ち主の僕は、その事が彼女との不釣り合いの原因になるのではないかとの一抹の不安を抱いていた。だが、物理的に杉岡さんを持ち上げる事が出来ただけで、妙な安心感に包まれてしまう。 「……頑張らなきゃな。今まで以上に」  安らかに横たわる杉岡さんを見ていると急に愛おしくなり、そっと彼女の頭に手を置いてみる。いくら恋人になったとはいえ、寝ている相手の体を勝手に触るのはマナー違反かとも思い少し躊躇はした。でも髪に触れるくらいなら、と、少し遠慮がちに撫でてていると、急に杉岡さんは眠ったまま体を反転させてそれと同時に僕の手を掴んで引き寄せ―― 「ん……ううん……」 「おわ……?」  この一瞬でどうやってこの体勢になったのかは分からない。まるで合気道にでもかかったかの様に僕は彼女の真横に転がされ、先程まで撫でていたその左手は今や腕ごと杉岡さんに抱きしめられ、いつの間にか左足も彼女の両脚に絡めとられている。これ、本当に寝てるんだろうな? というか……色々と柔らかすぎる。僕の二の腕は杉岡さんの胸の間に、掌は下腹部の辺りでしっかりと固定されてしまっており……服の上からでこの感触なら、実際は一体どれほどの――いやいや、何を考えてるんだ自分は。 「杉岡……さん?」  もう一度彼女の名前を読んでみるが、やはり返事は無い。……仕方ない。左手では何も感じないようにしよう。今僕の体は、右半身のみ感覚が生きていると意識するんだ。そして極力心を落ち着かせて――そうだ、般若(はんにゃ)(しん)(ぎょう)を唱えよう。心を清めるにはこれが最適と、父が教えてくれてよく一緒に唱えていたんだ。 「仏説(ぶっせつ)摩訶(まーかー)般若(はんにゃ)波羅(はーらー)蜜多(みーたー)(しん)(ぎょう)……」  そこから何度般若心経を読み上げたかは憶えていない。ただ僕はひたすら内へ内へと意識を向けていって、自らの誠意とプライドを持って静かに杉岡さんの隣に佇み続けた。案外、僕達が過ごす初めての夜はこれが正しい形なのかもしれない――そう考えながら、自然と夜は更けていった。
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