九―四

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 そんな事、杉岡さんに言われたか? 記憶を辿ってみるが彼女からそのような言葉を聞いた事は……もしかして―― 「あの……杉岡さん。それはもしかして、ナンテンから帰った駐車場での時の話ですか?」 「うん、私が『やっぱり子持ちのバツイチは嫌だよね?』って聞いでしょ? そしたら桑野さん黙り込んじゃって、ああ、嫌われちゃったって思ったの」 「い、いえいえ、あの時は、どうやって生計を立てていくか考え込んでしまっていて、実はよく聞いてなかったので……すみません」 「……そうなの?」 「ええ、それにうちの両親だって再婚だとその時言ったじゃないですか。――まぁ、僕の場合は父の連れ子ですけど」 「あら。でしたらお父様は男手一つで桑野さんを?」 「まぁ……そうなりますね。実際のところ父は相当な自由人で、それが原因で母に見放されたらしいのですが。それが反面教師となったのか、僕自身は馬鹿が付く程の真面目人間になってしまいました」 「そうなんだ……」  僕の話を覗き込む様に聞いていた杉岡さんは、視線を宙に浮かせて首を傾げる。そのまま暫く思案した彼女は、何かに納得した様に大きく頷いて見せた。 「――よし。今日からたくさん、桑野さんのお父さんに感謝しよ」 「感謝? どうしてですか?」 「だって……今の桑野さんが桑野さんなのは、お父さんのお陰なんでしょ? 桑野さんが桑野さんだったから、大好きになれたんだし……だめ?」 「だっ、駄目ではないですけど……というかそれを言ったら僕も同じです。初対面のご本人を前にして口にするのも少々気恥ずかしいですが……」  杉岡さんは僕の言葉をすぐに汲み取れなかったのか、キョトンとこちらをしばし見つめる。しかし少し遅れて理解が追いつくと、にへら、と破顔して掌で顔を扇ぎ始めた。その一連の流れに杉岡さんのお母様はたまらず吹き出し、僕達二人は同時に彼女の方に視線を戻した。 「なぁんだあなた達、最初からずっとラブラブじゃないの」 「えへへ、そうそう、私達はラブラブなんだよー」 「はいはいご馳走様で……わたし? ねぇ、今わたしって言った?」 「あ、あはは……今日から私に戻りまーす」  杉岡さんのお母様は彼女の一人称に目を丸くするも、すぐにそれを受け入れる。どんなお人柄かと直前まで不安に思っていたが、とても物腰が柔らかく気さくな方で本当に良かった。 「まぁ、ここで立ち話もなんですから、どうぞ上がってくださいな」 「は、はい。お邪魔します] 「にゃー」 「あ……」  靴を脱ぎ、上り(かまち)を跨いだところで動物の鳴き声に迎えられる。声のした家の奥に目をやると、恰幅の良いサバ柄の猫が目を半開きにして鎮座していた。そしてその後ろにはまるでそれに守られている様な形で、幼い少女がこちらを覗き見ていた。 「ママ……と、だれ?」  彼女は自分が視認された事を知ると、たどたどしい歩調で猫の横をすり抜け、僕の前で足を止めて顔を上げる。  その時突然、僕の中で生まれて初めての感情が芽生えた。  自分でもどうしてなのか分からない。だが、何の前触れもなしに思ってしまったのだ。『この子を守りたい』と。それは杉岡さんを守りたい気持ちとは少し違う。彼女の場合は『運命を共にしたい』、そういう感覚だ。しかしこの子は違う。上手く言えないのだが、『自分の命を繋いでほしい』、そんな風に思ったのだ。 「桑野さん、この子がうちの娘で――」 「ええ、大丈夫です」  僕が何かを感じたのと同様に、この子も何かを受け取ったのだろうか。目の前に来てから言葉は発さないものの、こちらから何かを読み取ろうと一生懸命僕の目を見つめていた。その姿に、自然と笑顔になっていくのが自分でもよく分かる。ゆっくりと、彼女を驚かせないように腰を落とした。 「ええと――」 ――この子の名前は知っている。先程杉岡家の表札に、三人の名前が書いてあったからだ。杉岡さんの名前が真ん中に会った事から、この子は一番下の名前だろう。上から、(たま)()(あき)()、そして――
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