第一話

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「おっはよー桑野さん」    金曜日の朝8時45分。朝礼を終え、今日のスケジュールの確認と他社員の昨日の日報を閲覧していると、今事務所に入ってきたと思われる声に挨拶される。私はその間の抜けた様な声に小さく息を吐くと、半身を翻して挨拶と共に小言を返す。 「おはようございます杉岡さん。でもとっくに始業時間は過ぎています。今週は課長が出張してるからって気を抜きすぎですよ」 「いやぁ、ごめんごめん。昨日買ったDVDをちょっとだけ観て寝ようと思ったら、予想以上に面白くてねぇ。結局最後まで観ちゃってさ、気が付いたら朝の4時まわってたから仮眠だけしようとソファで目を瞑ったんだけど、気が付けば8時過ぎてたんだよねぇ」  悪びれる訳でもなく、遅刻の原因を朗らかに語るのは、杉岡さん。私の後輩であり、私の仕事上のパートナーでもある。年齢は私より5つ上の中途採用。実を言うと私は、この杉岡さんの事が少し嫌いだ。 「だからそんなに髪がぼさぼさなんですね。ちゃんと鏡見て来たんですか?」 「さすがに鏡くらいはボクだって見るってば。今日は風が強くてさ、自転車通勤の辛いところだよねぇ」 「……それに、ボタン。掛け違えてますけど」 「あ……あっははは、恥ずかしいなぁ。今日初めて会ったのが桑野さんでよかったよ」 「なんでここで直そうとしてるんですか? 更衣室かトイレで直してください」 「大丈夫だいじょうぶ、ボクそういうの気にしない方だから」 「私が気にするんです。さっさと直して来てください」 「はーいよっと」 ・杉岡さんの嫌いなところ 1.『だらしない』  杉岡さんは身なりに無頓着というか、良く言えば自分を飾ろうとしない。パッと見は端正な顔立ちで長身の美形であり、その見栄えとのギャップが母性本能をくすぐるのか、女子社員からも人気を集めている。おかげでパートナーを組まされている私は、女子社員からは目の上のたんこぶの様に見られている。全くいい迷惑だ。 「あ、杉岡さん。おはようございまーす」 「ほいほい、おはよーおはよー」  開襟シャツのボタンをふたつ開けたまま、すれ違う女性社員に挨拶しながら更衣室へと向かう杉岡さんの声がフェードアウトしていく。私はそのやりとりを、極力耳の入り口から先に入らない様にシャットアウトして、目の前のパソコンの画面に集中した。
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