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ペットボトル三角関係
*
わたしはこの恋愛もようを《ペットボトル三角関係》と名付けることにした。
*
高校初めての夏休みが終わって九月。
わたしは教室でひとりぼっちになっていた。
窓側の自席に座っている。背が小さくくじ運も悪いわたしは一番前の席だ。
傷の多い机の上には500ミリのペットボトルがひとつ。やっぱり暑い。
窓の外をぼんやりと眺めてみた。おひる過ぎのきれいな空がいまのわたしの心にぐさりとつき刺さる。
思わず視線を下にそらした。すると校庭では同じクラスの男子がえっちらおっちらと準備運動をしている光景がみてとれる。へえ。男子ってやっぱり動きがダイナミックだな。ちょっと、いやだいぶかっこいいかも。
わたしはいままで男子とお付き合いというものをしたことがない。中学生のころに好きだった男の子にはついぞ好きなんていえないままお別れとなった。対人関係に限らず、好きだと表現するのはどうも苦手なのだ。
ふと遠くから室内履きと磨かれた床がこすれる高い音が聞こえる。我がクラスの女子が体育館でバレーボールをしている音だろう。推定の形をとったのはわたしが教室にいるからで、つまりはサボッているからなのだった。
サボり。たしか略さずにいうとサボタージュだっただろうか。自分でも真面目なほうだと思ってはいないけれど、やっぱり初めてするサボりはすこし緊張するものだ。
でも実はこれからやるべきことはなんにもないわけで、サボったはいいものの手持ちぶさたなのだった。うーん、これからどうしようかな。とりあえず教室から出てみようか。わたしは立ち上がろうとした。
「なんだ、ここにいたのか」
後ろの出入り口の方から声がした。わたしにとっては慣れ親しんだ、女子のわりに少し低い声だ。
わたしはこの予想外のできごとに焦った。それがバレないよう振り返らずにあえて冷たくいう。「……授業中ですよ、もみじ先輩」
「ふたりきりのときに先輩はやめてよ。それに授業中って……。サボッているのはお互いさまでしょ」声が背後からだんだんと近づいてくる。
「……わかったよ。葉っぱちゃん」
「そのあだ名も間抜けっぽくて不本意なんだけどなあ」葉っぱちゃんは勢いよくとなりのイスに座った。通路を挟んでとなりだ。「それで? なんでユカはサボッているのかな?」
葉っぱちゃんはわたしを覗きこんでいたずらっぽく笑うと、それに合わせてさらさらの艶のある髪の毛がゆれた。いい匂いがする。なんで同じ女子なのにこうも違うのだろうと思う。
葉っぱちゃん。藍葉紅葉だから葉っぱちゃん。わたしは一つ上の幼なじみの外見にまたもや目も奪われる。
わたしと違って長いまつ毛が目をくっきりと大きくしていて、ピシッと通った鼻筋とキュッと結ばれた桃色の唇、首もとなんかは人工物かというくらいに白くてきめがあるし、背が高く堂々としているけれど嫌な感じはまったくしない。きっとそれは葉っぱちゃんの凛としながらもどこか優しげなその雰囲気ゆえだろう。
「わたしがなんでサボッているか、だっけ」
「そう、ジャージに着替えもせずにね」葉っぱちゃんは黒板の左に貼られている日課表に目をやった。それを読み取ればいまは五時間目で体育であることがわかる。
そういう葉っぱちゃんも制服姿だ。なんの授業中だったのだろう。二年生の授業はよくわからない。
「それはお腹が痛いからだよ。おひるに食べたものが悪かったのかな」
わたしがお腹をさする仕草をすると葉っぱちゃんはため息をついた。
「またしょうもない嘘をつく。悪いくせだよ、それ。……それにお昼ご飯を食べる時間なんてあったのかな?」
どくん、とわたしの心臓がベートーヴェンの『運命』みたいに激しく打ちつけられた。
葉っぱちゃんは黙るわたしをよそに立ち上がるとわたしの席の前まで足を運び、窓の外を見ながらいった。
「ねえ、ユカ。……さっきの昼休みに告白されたんだって?」
さすが葉っぱちゃん。やっぱり知っていたか。
わたしはうそをついてうやむやにしてしまおうかと思ったけれど観念することにした。
「うん。この雫石由伽、初めて告白されてしまいました」
わたしは努めて明るい声を出したつもりだ。
「……それはおめでとう。で、返事は?」葉っぱちゃんは窓の外から目を離さない。
「ありがとうでもごめんなさい。あなたのことが嫌いです」
「……そう言ったの、ほんとなんだ」葉っぱちゃんはくすりと笑う。「それは彼になかなかハードな思い出を植えつけたね」
「てんぱっちゃって、それでつい」
「彼もよくそれで納得したもんだ」葉っぱちゃんは小さく息を吐いた。
「ううん、嫌いな理由はなんだ、って追及されちゃった。そういう趣味なのかな」
「彼は至極まっとうだと思うけど。……それで? なんて言ったの?」
「男の子は生理的に嫌いなんです。わたしは女の子が好きだから無理ですって」
「……生理的に嫌いは傷つくなあ。いくらてんぱったからって女の子が好きはやり過ぎでしょ」
「へへ、これで残りの二年半は彼氏いない高校生活だね。……灰色だなあ」自嘲気味にわたしはいった。
葉っぱちゃんは校庭でサッカーを始めた男子をまだじっと見つめている。その意志の強そうな視線が捉えているのはきっと特定のひとりだ。
「――あんなにいいやつなのに」葉っぱちゃんが眉を少し下げて寂しそうに笑った。
誰が、といわなくてもわかる。それは彼のことだ。ついさっきわたしに告白してきた彼。
「……そうかな? わたしはそうでもないと――」
「だから嘘はやめなってば」葉っぱちゃんが鋭い口調でいい放つ。
その言葉はわたしのなかのなにかをぶった切った。
「うそって……。なにもうそなんてついてないよ」
「その胸元のおさげを触るくせ。嘘をついている証拠。前から何度も言っているでしょ。……ま、もっともそんな仕草がなくてもとっくに気づいていたけどさ」
わたしは慌てて軽くまとめているだけのおさげから手をひっこめる。
「気がついていた? なにに?」わたしはとぼけた。
「好きなんでしょ。彼のこと」
葉っぱちゃんは気だるそうに窓の柱に寄りかかった。
「まさか。好きな相手に告白されて嫌いなんていうほどわたしは贅沢じゃないしひねくれてもいないつもりだよ」
「ご近所どうしで生まれてこの方ずっと一緒にいた私の目をごまかせるとでも?」葉っぱちゃんは明らかにわたしをにらんだ。
わたしはすこし圧倒されてしまう。
「……じゃあ、仮にわたしが彼を好きだとして」わたしは葉っぱちゃんがつくる影に目を落としながらいう。「――それなのに彼のことを嫌いっていった理由ってなにかな? そんなことする意味なんてないと思うけれど」
「……それ、私に言わせるつもり? ま、いいよ。言ったげる。それは私が彼のことを好きだから。だからユカは遠慮して彼の告白を断った」葉っぱちゃんはまるで降参のポーズのみたく、大げさに両方の手のひらを見せつけた。困ったように笑いながら。
わたしははっとした。失敗したと思った。ひどいことをしてしまったと思った。葉っぱちゃんの気持ちに気づいていたのに、知っていたのにそれを確かめずにはいられなかった。
「ごめん」わたしはいう。目は合わせられなかった。
いまさら謝っても遅い。それはわかっている。
「謝るのは私にじゃないでしょ? いますぐやっぱり付き合ってくださいって言ってくるんだね」
わたしは再び校庭をみた。一生懸命にボールを追う彼はいまどのような心境なのだろうか。わたしなんか可愛くもない普通の子にフラれて悔しいのだろうか。
「そんなこと」私はいう。
「そんなこと?」葉っぱちゃんは首を十度くらい傾けた。
「……できるわけない」
もう終わったことだ。
「じゃあ好きってことは認めるんだね」
わたしはもううそをつくに堪えられなくなった。
「……うん。好きだよ。彼のこと。……へへ、葉っぱちゃんと同じ人を好きになっちゃった。やっぱり育った環境が似ているからかな」
「……そうかもね。でもいまはそんなことどうでもいいでしょ。やるべきことはこれからどうするか、だよ。そんなロマンチックな分析じゃない」葉っぱちゃんはぶっきらぼうにいった。
「これからどうするか?」
「そ。告白されてからまだ一時間くらいしか経ってないでしょ。やり直し効くんじゃないの? ほら、スポーツのビデオ判定みたいに」
わたしは笑えなかった。
「ムリだよ。わたし決めたもん。葉っぱちゃんの気持ちを考えたらそんなことできない。できるわけがない」
葉っぱちゃんは視線をわたしの机に落とすと、机の表面にいつの間にかついていた真新しい傷跡を指でそっとなでた。
「私の気持ち、か。そんなのユカにはわからないでしょ」
「わかるよ。さっき葉っぱちゃんもいってたじゃない。生まれてこの方ずっと一緒にいたわたしの目をごまかせるつもり? って」
「ユカはわかってないよ。……たしかに正直に言ってまったく辛くないと言ったらそれこそ嘘になるけどさ、それでも思うんだよ。ユカでよかったなって。ほかの子だったらもっとやりきれなかったかも」
「わたしでよかった?」わたしは間抜けな声を出した。
「うん。私はユカのことをよく知っているし、いい部分も悪い部分もきっと彼以上に知っている。だからユカでよかった。納得できるから。そして私が好きな彼の気持ちを、私が好きなユカが受け止めてあげて欲しい。そうしたら私はもっとふたりを好きになれる気がするんだ。考えに考え抜いて、結局そう思ったんだ。きっとユカが彼と付き合ったら、すごくいいと思う。そして私はそれを心から応援する」
葉っぱちゃんは短い時間のなかで本当にたくさん考えたのだろう。
わたしは定規で引いたかのような、どこまでもまっすぐなその視線を受け止めきれなかった。思わず視線をそらしてしまう。
わたしだってさっきまでずっと考えていた。彼と付き合ったらどうなるだろうか、と。
それは願ってもないことで、きっとわたしの高校生活はバラ色になるだろう。そして同時に問題が発生する。もちろん葉っぱちゃんのことだ。
わたしはどうやら彼のことを想う以上に葉っぱちゃんのことが大切だったらしい。自分の意外な一面を発見して得した気分だ。
葉っぱちゃんへのこの気持ちを言葉に代えるのは難しいけれど、強いていうなら絆だろうか。
絆。それはとても便利な言葉だ。とりあえず絆っていっておけばそれで大抵の関係は説明できる。でもここでわたしが考えていた意味合いはすこし違う。どこで聞いたか忘れてしまったけれど、絆という言葉はもともと牛やら馬を繋ぎ留めておく縄を指していたらしい。
自由を束縛するもの。それくらいにわたしと葉っぱちゃんは結びついていたのかもしれない。
目の前にあるペットボトルが汗をかいて水滴がぽたりと机に落ちた。
わたしはそのペットボトルのある一点に目を奪われた。マークがついている。三角形の内側にPETと書いてあるリサイクルのマークだ。その三つある矢印はすべて右側を向いている。
一方通行。なるほど。これがわたしたちなのかもしれない。ひとつがわたしでひとつが葉っぱちゃん。そしてもうひとつが彼。みんなが一方を向いている。
ペットボトル三角関係だ。
わたしはそんなくだらないことを思った。
わたしは何度も何度も低スペックのパソコンみたいにうなったり熱を上げながら、頭のなかを想い巡らせる。
どうしたらみんながしあわせになれるのだろうか。
結局わたしは彼に嫌いだといってしまった。適当に嫌いな理由をでっちあげてそういってしまった。それはひどいことだとわかっているし、ある程度の後悔と反省もしている。
つまるところ回避したのだ。ゲームと一緒。強い敵が出たから逃げる。ただそれだけ。それがわたしのこの十五年間で身に着いた生き方なのだろう。
いつかそれは変わらなくてはならないのかもしれない。けれど、その生き方はわたしにこびりついていて、一人では洗い落とせそうになかった。
「――ねえ、葉っぱちゃん。どうしたらみんながしあわせになれるのかな」
わたしがそう言うと葉っぱちゃんは表情を緩めた。
「哲学者が紀元前からずっと考えているそのお題目に挑戦するつもり?」
「いじわるな言い方だな」わたしは抗議する。
「一つ上の先輩として、その問いに答えてあげよう」葉っぱちゃんは鋭い視線でいう。「答えは簡単だよ。『甘えんな』。みんながみんなパーフェクトに幸せなんてムリだよ。ムリ」
「身も蓋もない」わたしはおどけた調子でいった。
「じゃあ聞くけど。そもそも幸せってなに?」
「それは……。ほら、あたたかくて、こころが満たされるもの?」
わたしがそういうと葉っぱちゃんは肩をすくめた。
「ほら、ぼんやりしているでしょ。つまるところ曖昧なんだよ、幸せなんて。ぼんやりして曖昧で、それでいて――。人それぞれ違うものだ」
わたしはひとつ考えた。
「でもそれってみんなが同じしあわせを掴むことができないからこそ、人それぞれってことでごまかしているだけなんじゃないの?」
葉っぱちゃんは小さくうなずいた。
「そうかもね。……そうなのかもしれない。でもただ生きるだけで同じ幸せを掴むなんてありえないんだとしたらさ、だったらなおさら、『どう生きていくか』なんじゃないかな。もう少し控えめに言えばひとつひとつのことにちゃんと向き合うことだよ」
どう生きていくか。向き合うこと。
葉っぱちゃんの澄んだ黒目がわたしを捉えて離さない。
「……でもわたしはそれに向き合ったら葉っぱちゃんのしあわせを奪ってしまうかもしれない」
「私の幸せね。……なんていうか、まったくユカは年下のくせに偉そうなんだから。さっきも言ったでしょ。幸せなんて人それぞれなんだってば。私の幸せを勝手に定義しないでくれる?」
「え、いや、そんなつもりは――」
「たしかに私はひとつ幸せになる方法を失くしてしまったのかもしれない。……だけどさ、そもそも幸せが人それぞれだという時点で、幸せのかたちなんて無限大にあるんじゃない? 私にだってこれから幸せになる道がいっぱいあるんだよ、きっと。それに対してユカが掴めるかもしれない幸せはいまここにあって具体的なものだ。いますぐにでも手に入るものだよ。彼、やっぱりいいやつでしょ? 優しいし、自分を持っているし、それにちょっとかっこいいしね。あんな男子なかなかいないよ。つまりは人間手に入れたいものなんてそうそう転がってこないんだからさ。人の幸せを心配しているより、その辺の石ころを拾って、ああ綺麗だなって感じる方が優先されるべきじゃない?」
「葉っぱちゃん……」
「ま、こう考えていること自体ふんわりとぼやけていて、どこか空虚さがあるけれど」
葉っぱちゃんのいうことは少し難しい。
「わたしはどうしたらいいんだろう。わからないよ」
うつむくわたしの頭をそっと葉っぱちゃんがなでた。
「……それでもたったひとつだけ、はっきりしていることがある。私はユカが本当の自分と向き合わなかったら幻滅する。きっとユカを嫌いになる。それが、私がユカを嫌いになるたったひとつの理由だ」
わたしは顔を上げた。
葉っぱちゃんの表情がこれは決して冗談なんかじゃないといっている。
「……葉っぱちゃんは強いんだね」
葉っぱちゃんがきょとんとする。「強い? 私が?」
「そう。強い。わたしはいつも逃げてばっかり。自分の目の前にどーんと壁が立ちはだかったとするでしょ? 背丈の五倍はありそうなやつ。それをみたらわたしは一瞬だけどうにかできないかと考えて、結局逃げるの。壁を無視するの。なかったことにしちゃうんだ。でも葉っぱちゃんは違う。その壁にどうにかしてよじ登ろうとする。戦おうとするの。それがかっこよくて羨ましい。……わたしにはとてもできそうにない」
「できるよ」葉っぱちゃんはさっきと同じ視線を放った。わたしを応援してくれるといったときのどこまでも真っ直ぐな視線だ。
「でもわたし、」
「でもじゃない」
「そんな……。だって。根拠は?」
「根拠なんてないよ。ユカならできる。ずっと見てきた私が、それを知っている。ただそれだけ」
敵わないな、と思った。わたしをずっと見ていてくれた葉っぱちゃんが信じてくれる。たったそれだけのことでわたしはそうしてみるのも悪くないと思った。向き合ってみようかなと思った。
その途端に、ほっぺたにあたたかい雫が落ちてくるのを感じた。わたしはいつの間にか泣いていた。
「ごめん、葉っぱちゃん、なんでだろう……。急に、涙が」
「ああ、もう。こんな顔じゃ彼に嫌われるよ?」
「そしたら葉っぱちゃんと付き合うからいい」
葉っぱちゃんは笑う。「……この浮気者め」
ふいに授業の終わりを告げる鐘が鳴った。しかしわたしにとってはスタートを切る音だ。なんのスタートか? そんなのわたしのしあわせへの第一歩に決まっている。
わたしと葉っぱちゃんはそろって校庭を眺めていた。彼のチームは勝ったのだろうか。そう思いながら見ていると、ちょうどその彼が校舎に向かって歩いてくるところだった。
「ユカ、せっかくだからこのベランダから公開告白でもしてみれば?」
葉っぱちゃんはさも楽しそうに笑う。
「そんなことしたら彼が腰を抜かしちゃうよ」
「ユカはいままで逃げてばっかりだったんだからそれくらいの荒療治がいいんだよ。ほら」
葉っぱちゃんはベランダに出るガラスの引き戸をスライドして開けた。
「いまはいいよ。ちゃんと彼に謝りたいし。それに」
「それに?」
「わたしはわたしらしく、ちょっとずつ戦っていくから」
*
放課後。
わたしは二年生の教室がある三階に向かう。階段を二つ飛ばしで駆けあがる。スカートが跳ねてしまうのなんていまは気にもとめない。
三階に着く。奥からふたつ目の教室の引き戸を勢いよく開ける。
「葉っぱちゃん!」わたしは息を切らしながらいった。
葉っぱちゃんは中央の列の一番後ろの席で文庫本を読んでいた。どうやらほかにはだれもいないらしい。それもそうだ。いまは最後の授業である六時間目が終わってもう一時間は経つ。
「遅い」葉っぱちゃんは唇をとがらせた。
「ごめんごめん。彼に弁明していたらこんな時間に」
わたしは両手を合わせて謝罪のポーズをとると、葉っぱちゃんは文庫本を学校指定のカバンにしまって立ち上がった。そして肩を並べながら廊下に出る。
「なに? いきなりノロケですか? あー、ユカのこと嫌いになりそう」
「違うよ。……もう、意地悪だな」
「それで? うまくいったの?」
「いやあ、もう大変だったよ。案の定『嫌いになりそうになった』とかいわれちゃったしさ。ツーアウトからスタートみたいなそんな感じ。まあ今回はわたしが100パーセント悪いから嫌われてもしかたないんだけど」
「ま、その感じならなんとかなったみたいだね」
「おかげさまでね。……でもさ、葉っぱちゃんはこれで本当にこれで――」
そのとき、わたしはみた。
葉っぱちゃんのこれ以上ないくらいに満ち足りた横顔を。
全力を持って戦い抜いたあとの、後悔なんてまるでないというような清々しい笑顔を。
これからわたしがなにかをいうのは野暮というものだ。
「ん? どした?」
「ううん、なんでもない。……ありがとね、葉っぱちゃん。いつか恩返しするからね」
「どしたの。……そういえば彼と一緒に帰らなくていいの?」
「いいの。今日は葉っぱちゃんと帰るの」
「いまのうちにマイナススタートのツケを払っておかないとあとが大変だよ?」
「いいんだってば。これが今日の、わたしのしあわせだから」
「なんだそれ」
廊下の窓から差し込む夕日が、わたしたちの影をつくった。ふたりぶんの楽しげにゆれる影だ。
わたしはこれからの人生のなかで立ちはだかる壁と向き合って『戦う』ことができるのだろうか。
……それはいまはわからない。
だけれどひとつだけ確かなことがある。
わたしのとなりには葉っぱちゃんがいる。
それはきっとこれからも変わらない。
だから、今日もわたしはしあわせだ。
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