13人が本棚に入れています
本棚に追加
【佐々木響】東京/9月4日8時15分
【佐々木響】東京/9月4日8時15分
一体全体、こいつはどうしてここにいるんだ。
引っ越し先がどうとか言っているが、まずそれがおかしい。
この部屋は確かに俺たちの部屋だ。いや、俺たちが住んでいた部屋だった、と言った方が正確か。
ここに引っ越したのはちょうど1年前。東向きの間取りのせいで朝の日差しが強すぎると文句を言う貴美雄のせいで早々にここから引っ越したのが半年前。
なのになんでここにいるんだこいつは。
そもそもおかしいと思ったんだ。香港から帰ったら、部屋に貴美雄がいなかった。携帯に連絡もないし、書き置きもない。
どこかに出かけたのだろう、もしかしたら取材かもしれないし、普通に遊びにでも行っているのかもしれない。
大の大人だ。連絡もなく出歩いているってことはそこまで家を空けずに帰ってくるだろう。そう思って放っていたが、翌日になっても帰ってこない。
大の大人だからこそ何もないということが逆に心配になってくる。行動に読めないところはあるが、あいつは悪人じゃない。
流石に心配になってくる。気付くと、明日は私用で休むと会社に連絡を入れていた。
今朝は早くに目が覚めた。もしかしてと、可能性を潰すためにそう遠くもない以前の住居に来てみた。表札も出ていないし、誰もいなければ別のところを捜してみようと思った矢先にドアノブが回った。
鍵が開いていたことにも驚いたが、何より何食わぬ顔をしてここにいたこいつに驚いた。
貴美雄はびっくりしたような間抜けな顔で俺を見ていたが、正直俺の方がびっくりしたよ。
どうしてこんなところにいるんだ、という気持ちと、こんなところにいたか、という安堵と。
二つの気持ちに挟まれながらも、捜していた貴美雄がここにいてくれたことに素直にホッとした。こいつがいることは自分の日常の内なんだと、自覚した。
貴美雄とは、大学からの腐れ縁だ。
朝の弱い俺が1限の授業のレジュメをもらったのをきっかけに、気づけば一緒に過ごす時間が増えていった。
あいつは物書き志望の文学部で俺は経済学部。就職活動でどの業界に行こうかと考えていた時、図書館であいつが書き物をしている場面に出くわした。
作家というのはこうして黙々と書き続けるものなのだなと、初めて知った。
俺がなろうとしているのは商売人だ。品物を必要なところに持ち込むことで利益を得るのが商売だ。品物を作る人が居て、それを小売店へと仲介する役目をするのが商社でもある。俺は商社マンとして人と物とをつなぐ仕事をしたいと漠然と考えていた。
貴美雄のように時間を惜しんで文字を書く作家は、きっと飛び回ってアピールする時間も中々取れまい。あいつに限って言えば人見知りで口下手だし、対人で売り込みに行くのは不得意だろう。
俺は興味もあって調べた結果、出版業界に狙いを絞った。その中でも、著作権エージェントという仲立ちをする仕事が面白そうだと思った。
そうして俺は著作権エージェントになった。
大学でも勉強を続けたおかげで英語がある程度使えることもあって、海外作家の担当をこなして数年後。国内作家のエージェントもするかとなった時に、貴美雄が未だ作家志望で小説を書きながら細々と暮らしていると聞いてルームシェアを持ち掛けた。
俺も節約したかったし、頑張っている貴美雄を応援もしたかった。
特段何かあるわけでもないが、仕事に追われながら帰るとあいつがいる生活に慣れていった。
そんな中だ。急にいなくなって心配したっていうのに、こいつは間抜けヅラして笑っている。
おまけにここにいるのは「引っ越し先だから」と当たり前のように宣う。
「忘れてしまったのかい?」だなんて軽々しく言うけど、タチの悪い冗談だ。
「忘れる? 何を言ってるんだお前は。そもそもここの鍵どうしたんだよ」
「え? いや、不動産屋さんから渡されたんだけど」
「不動産屋だぁ? ここは半年前に解約しただろ? 本当に何言ってるんだ?」
「半年前に解約? 3日前に借り始めたばかりじゃないか」
おかしい。おかしい。明らかにおかしい。
貴美雄のおでこに手を添える。
うん、熱はない。
貴美雄の腕を取ると入念に見る。
うん、注射痕もない。変なクスリを飲んでる可能性はあるがコイツに限ってそんなことをする理由がない。大昔の作家じゃあるまいし。
「なんだよ響、くすぐったいじゃないか」
……うるさい。変なことを言って困惑させているのはお前だろうが。
大体なんだ3日前に借り始めたばかりって。まるで1年前の記憶に戻ったみたいなフリしやがって。
これが冗談でなかったら何の冗談だってんだ。
……冗談、だよな? 貴美雄は真顔だ。こいつにこんな演技力があるとは到底思えない。わざわざここまで仕込む理由も見当たらない。もしかして冗談じゃないのか?
待てよ。何気なく思ったが、仮に1年前の記憶に戻ったのだとしたら? この1年間の記憶は?
ホテルで読んだ記憶喪失の少年の絵本が急に頭に浮かんだ。
なんらかの理由で記憶喪失になっている?
馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい推理だ。
でも、馬鹿馬鹿しいのは今この状況だ。
確かめてみるしかない。
西暦を聞いてもいいが、ふざけて答えられても困る。
あいつが真面目に受け答えする話題がいいか。
「尾毛先生」
少し改まって呼ぶと、嫌そうな顔をする。
「よしてくれ、そんな風に言われても傑作は出ないぞ」
まだ分からない。
「そんなことを言わずにさ。こないだ初めて単行本が出たじゃないか」
「単行本? バカを言っちゃいけないぞ響。同人誌は商業本とは別扱いだろ」
決定的な言葉。表情は至って真面目。物書きはこういった話題で冗談は交えても嘘は吐かない。ましてや、自分の商業デビュー作をバカ扱いするわけがない。
文芸新人賞奨励賞を取ったのが半年前。引っ越した後改稿し、初の単行本が上梓されたのが1ヶ月前。
絶対に忘れることのないことを忘れている。
駄目押しで西暦を聞いてみたら、やはり1年前のものを答えてきた。
合っているのは、日付だけ。
貴美雄は丸々1年間の記憶を忘れてしまっている。理由は分からないが、現象としてはそういうことだと俺は無理やり自分の中で納得した。
「貴美雄、唐突だがお前は記憶喪失というのを知っているか?」
「記憶喪失という単語を知らない成人は日本にはほぼいないと思うけどね」
「そりゃそうだ。当たり前だよな。じゃあ、西暦どころか自分の初の単行本の存在すら覚えてないお前はなんなんだ?」
「西暦どころか単行本? 響、お前本当に一体何を……単行本? 冗談ではない、のか?」
そう言ったきり、貴美雄は固まった。部屋の中を見渡し、何かを考えているようだった。
俺は黙って貴美雄を見つめたまま待つ。
少しすると貴美雄は口を開いた。
「……すまないが心療内科まで一緒に来てくれないか?」
最初のコメントを投稿しよう!