【尾毛貴美雄】東京/9月4日17時58分

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【尾毛貴美雄】東京/9月4日17時58分

【尾毛貴美雄】東京/9月4日17時58分  どうして僕が記憶喪失になっていたのかは、記憶を思い出した今となっては簡単に判明した。  忘れていたから分からなかったことが、思い出したら分かった。当たり前のことだ。  事実を述べているのだけれど変な言い方にしかならないことが少し可笑しい。  あの日、響が香港から帰ってくる予定を把握していた僕は空港へ向かうべく駅に向かっていた。  ちょうど、目の前にいた子供が車道に飛び出しそうになっていた。子供が対向車が迫っていることに気づいてないことを理解した僕の体は自然と動き、その子を押し留めることに成功した。  子供に怪我はなかったが、駆けつけた勢いもあり、その子を押し留めた拍子に恥ずかしながら足がもつれた。普段運動を怠っているのに急に動いたからだろう。  結果、カーブミラーの支柱に頭を強打した。  これは大変な知見なのだけれど、人は人前でどこかぶつけてすっごく痛くてもまるで全然痛くなかったように強気に振る舞う生物のようなのである。  実際僕もそうした。子供の前というのもある。多分女性の前でもそうするだろう。強がりは意識する前に行われる。  次からは気をつけるんだよ、と痛みを堪えて言ったことまで思い出していた。  多分恐らくその時だろう。僕は空港へこっそり向かうつもりだったのに気づいたら不動産屋に来ていたのだから。  丸々1年間分の記憶が飛んで、1年前の引っ越し当日だと思い込むのも不思議な話だけれど、そこで僕に部屋を貸した不動産屋も相当だ。  不動産屋も最初はきっと戸惑ったろうが、半年前に去った客が再度戻ってきたのだ。きっと疑問に思いつつも押し切ったのだろう。  あの時の僕は細かいことは響がやってくれているからとろくな確認もせずにハイハイと受け答えしていたから僕の落ち度でもある。適当に見ずにサインした記憶すらある。  新聞もテレビも見てない僕でも、あの時契約書の西暦をしっかり確認しておけばおかしく思ったかもしれない。でも、そうはならずに丸々3日間生活しながら小説を書いていた、だなんて今思えば大した笑い話だ。  それと、響の携帯に電話しても繋がらなかったのも納得がいった。少し前に気分を一新したいと番号ごと変えたんだった。思い出した今となってはこの噛み合わなさが笑い話にしか思えない。  夕方、いつもより早く響が帰ってきた。どこか急いで帰ってきたようなドタバタした気配を感じる。姿を見せた響の手には書店の袋があった。 「おかえり響」 「ああ。あの後出ちゃって悪かったな。どうだ? まだ困惑することも多いだろうけど、少しずつ思い出していけばいいからな。焦らなくていいぞ」 「いや、そのことだけど思い出したよ、全部」  僕は記憶が戻ったことを早速告げると、響は「ハァ?!」と最初少し怒ったかのような声音で応えた後、「はぁ……」とどこか拍子抜けしたような安心したような溜め息を吐いた。  呆然とする響をよそに、居間に置かれた書店の袋の中身を物色してみると記憶喪失関連の本が3冊出てきた。 「なに、これどうしたの?」 「どうしたの、じゃねぇだろが貴美雄。どう考えてもお前のための本だろうが貴美雄。誰だよ、記憶喪失だなんてのになっておいてすーぐに記憶を取り戻したのはよ」  ぶーたれているが、響の機嫌は悪くなさそうだ。  そう見えるのは、僕の機嫌が良いからかもしれない。  僕はそんな響の態度にひとしきり笑った後、改めて声をかけた。 「おかえり、響」 「おう。ただいま。……いや、状況的には合ってるが、俺からしたらおかえりってのは俺のセリフだぞ」 「ははは。変なの」  僕らは笑い合った。返ってきた記憶と、帰ってきた日常を確かめ合うように。
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