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プロローグ
桜の花がひらひらと舞い落ちる、ヨーロッパのような街並みの並木道を、少し速足で歩いていく。
卒業旅行で行ったイギリスの田舎にこんなところがあったな、と僕は数週間前の記憶を思い返した。
前にここに来た時は入職式の、さらにその前は最終面接の緊張から、周囲を風景を見る余裕はなかった。数えてみるとここに来るのはまだこれで四回目だ。
今日は四月一日。
僕こと霧島白兎は、ここ紫洗大学の新入職員として、入職式会場へ向かっていた。
手に持った真っ黒なかばんはまだ持ち慣れず、歩いていると太ももに当たってしまう。就職祝いにと不釣り合いなほどしっかりしたかばんをおじいちゃんおばあちゃんからもらったものだ。今はまだ傷一つないが、使っていくうちに色があせしわができ、きっと味のあるものになっていくだろう。
そのころには僕もそのかばんに似合った大人になっているのだろうか。
そのためにはもう少し身長がほしいな、と期待できない希望を胸に抱く。
私立大学へ職員として就職。
決まった後、仲のいい同級生からかなりうらやましがられた。
私大職員はまったり高給などとインターネット上には書かれているが、さすがにそのまま信じるほど僕は呑気ではない。
それでも通っている大学の職員が五時を過ぎると帰り出し、夜の八時には事務室が真っ暗になっていたのを見ていると、ある程度ネットの情報も信憑性があるのではないだろうかと期待してしまった。
今日から僕が働くことになるここ紫洗大学は、各学科の入試倍率五倍以上、各学科の偏差値が六十前後の人気総合大学。少子化が進み日本の大学数が四分の一になったとしても生き残っていられるだろう。
紫洗大学の魅力は数多くある。
中でも異国に入ったかのような気分を楽しめるこの第一キャンパスは最大の要因だ。
総合大学のため学科は数多く存在するが、共通教養科目はすべてこの第一キャンパスで受けるため、学生全員がこのキャンパスに通うことにになる。つまりどの学科に入ろうと漏れなく異国風の生活を満喫できるのである。
一般的な学科はもちろん、医学部のような難関な学部や、神学部などの珍しい学部があることも魅力の一つだ。
医学部がある以上大学病院も存在するが、これは働く身としては不安な部署である。救急病院であるため二十四時間三百六十五日働いている人がおり、職場環境は厳しいだろう。
もっとも病院と大学は採用枠が別のため特別な人材交流でもない限り病院で働くことはない、と説明は受けていた。その特別に指名されないよう、願うばかりだ、
周囲を見渡しながらすごいところに就職することになったものだ、と僕は実感した。
百倍ともいわれる倍率を突破できたのは、ラッキーだったというしかない。公務員試験を並行して受けていたため筆記はほぼ満点だったのが要因だろうか面接では手ごたえの有無を覚えていられないほど緊張してしまい、帰宅後一時間ほどベッドに突っ伏し、生まれて初めて好きな子に告白し返事を目っていた時と同じ行動をとってしまった。
ネットでは当日中に電話が来るといわれていたが日が落ちても携帯は震えず、よし切り替えてほかに挑もう、とようやく思えた直後、合格の電話をもらったのだった。
入り口で見たキャンパスマップによると、もう少し歩けば入職式の会場である大講堂に着く。前を見ると内定式で会った同期入職を見つけた。速足で追いつき、おはよう、久しぶり、今日からよろしく、など月並みな言葉を掛け合う。
そうして大講堂に到着すると、懇親会を主催してくれた人事部所属の先輩職員が入り口横に立っていた。
「霧島白兎です。よろしくお願いします」
第一印象が悪くないようにと、少しキーを上げた声で受付を済ませた。
案内された席に着き、少しの緊張と大きな浮かれ気分を同期と共有しながら、入職式の開始を待つことになった。
「おはようございます。新入職員の皆さん、まずは全教職員を代表して皆さんの入職を心から歓迎いたします」
ゆっくりとした口調で学長先生の挨拶が始まった。
事前に配られた案内によると、入職式は学長先生挨拶と配属先の発表のみであり、一時間とかからない予定だ。それ以降は学生が授業を受ける講義室に移動し、新人研修を受けることになる。
新人研修は二週間、朝から定時までみっちりとスケジュールが組まれ、その後は配属先に移動し部署独自の研修や業務が開始される。
学長先生挨拶では大学の特色や経営状況、世間の教育事情の変化などが長々と述べられていく。だが、一つ一つをしっかり聞く余裕は、今の僕にはなかった。なぜなら――
「それでは最後に、皆様の配属先を発表させていただきます。各自名前を呼ばれたら返事をしてください。その際に起立していただく必要はございません。返事をいただいた後、配属先を発表させていただきます」
そう。入職前には僕たちの配属部署は知らされておらず、今日この場で発表されることになっていたのだ。
「波多野裕子さん」
「はい!」
「第一キャンパス事務部学生課」
懇親会で席が近くよく話をした波多野さんの名前が呼ばれ、最も人気の部署が告げられた。
どよめくことはないが、皆がうらやましそうな視線を送っている。
学生課、それも紫洗大学最大の魅力である第一キャンパスの学生課といえば、一番人気の部署である。僕もそこが第一希望だったが、あの子に取られてしまった。
そうして各自の名前が席順に呼ばれ、その後配属先が告げられていく。
席順は職員番号順であり、名前の順ではない。おそらく入職試験時の受験番号の順に職員番号が振られているのだろう。間違っても職員の試験順位ではあってほしくない。なぜなら僕の職員番号は、同期の中でほぼ最後なんだから。
その後も様々な部署が告げられていく。
「山本かなえさん」
「はい!」
「財務部会計課」
普段何をするのかわからないが、細かい計算などをするのだろうか。簿記の資格を取る必要があるのだろうか。
「広田雪さん」
「はい!」
「人事部採用課」
ここは入職試験の段取りをするのだろうか。面接官は理事などと名前の付くお偉いさんばかりだったので、この部署の人が面接官と言うわけではなさそうだ。
「坂本修二さん」
「はい!」
「第三キャンパス事務部学生課」
呼ばれた男子が青ざめている。確かこのキャンパスは国際学部がメインだったはずだ。彼は英語ができないのかもしれない。僕も英会話はほとんどできないため、彼には生贄になってもらった気分だ。
そしてようやく僕の番が来る。どこになるのだろう。組織構成の詳細はこれからの研修で説明を受けるはずであり、今の時点では一部の部署しか知らない。それでもどこに配属になるのか、今日が来る前から期待と不安を抱いていた。
「霧島白兎さん」
「はい!」
僕は緊張しながらも、声が通るよう意識して返事をする。
さあ来い。
「学術情報部OA課」
……はい?
心の中で思わず疑問符を浮かべてしまった。もし配属先発表の後に返事をする必要があったならば、すっとんきょうな声を上げていただろう。
学術情報部。おそらく情報システムを担当する部署である。
待ってほしい。学生時代の僕の専攻は法学。情報どころか工学ですらない。そもそも同期は文系だけであり、技術部門に割り当てられるなど想像すらしなかった。
思い出してみると、組織図にも、募集要項の配属先候補にも情報部門の名前はあった。割り当てられるとは思ってもいなかったため、まったく気にしてもいなかった。
これは、もしかして一番のババを引いたのでは……
「皆さんはこれから新入職員研修をみっちり受けることになります。まずはこれからの研修を頑張っていただき、一日でも早く本校の戦力になっていただけることを期待して、挨拶を終えさせていただきます」
学長先生が一礼して壇上から降りていく。
入職式が始まる前に比べて、周囲が薄暗くなったように感じられる。完全に僕の気の問題だ。
ああこれからどうしよう。履歴書に書くため簡単なパソコン関係の資格をいくつか取ったが、システム部門として働けるかというと、ノーだ。
そもそもシステム部門がどのようなことが何をするのかすらわからない。
こんな配属になると分かっていれば、通っていた大学のコンピュータ室の人にでも話を聞いていたのに。
そもそも参考にした就活本のせいではないか。この資格を取れば受けがいいと紹介していたが、それが仕事に使えないならば入ってから苦労するだけだ。そういえば就活本のコラムに、日本の会社は入ってしまえばこちらのもの。就活はいかに相手をだますかが勝負だなどと書いてあったな。くそ。なんて本だ。
悔やんでも今更どうしようもないが、席まで戻る学長を見ているだけの僕には、ただただ悔やむことしかできなかった。
これが大学職員生活の始まり。
僕はまだ知らなかった。
学術情報部が学内でも特に奇妙な部署であり、奇妙な人が寄ってきて、奇妙な事件に巻き込まれていくことを。
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